第三の選択

けいりん

第1話 はじまり

「ぐおおおおおお!」

 うめきとも叫びともつかぬ声をあげ、俺は椅子の背もたれに身を投げ出し、天井を見た。

 正面には愛用のパソコン。ワープロソフトで、一つの文書ファイルが開かれているが、何度も書き直しやコピペを繰り返した挙句、結局ほんの数十行の文章が打たれただけ。最後の文は途中で途切れ、カーソルが力無く点滅している。

 俺は強いてそこから目を逸らすようにして立ち上がり、台所へと向かった。冷蔵庫から麦茶のポットを取り出し、グラスに注いで一気に飲み干す。

 一瞬だけ、スッキリしたような錯覚にとらわれ、よし、とつぶやいて、再びデスクへと向かう。だが無意識はごまかしきれない。足取りは重くなり、パソコンの画面を見ることを、脳が拒否し始める。

 あまりにも、あまりにも、書けない。

 スランプなら今までもあった。順調に書いていたものが、描写一つ、セリフ一つのつまずきで、全く進まなくなるといった体験だって、一度や二度ではない。

 だが、ここまで深刻なのは久しぶりだ。書くべきことは頭の中にあって、あとはそれを出力するだけのつもりだったのに、いざ書き始めてみると、細部が全く詰められていないのがわかる。それを埋めようとインターネットを検索する。出てきた説明や画像を見てなるほどと思う。だがそれを自分の文章に落とし込むことがどうしてもできない。

 挙句、気がつく。このプロットで、こんな文章じゃ全然雰囲気が合わないんじゃないか。

 文を削る。描写を削る。リズムを整える。

 調子がいい時なら後回しにしておけるそんな細部がどうしても気になって、あれこれ弄らずにはいられない。

 こんなことをしている場合ではないのだ。なぜなら、締め切りが近いからだ。

 正確には、あと三日。

 音声配信アプリで知り合った物書きさんたちと合同で文芸同人誌を作ろう、そう言い始めたのは俺だ。作品のレギュレーションを考えたのも俺。締め切りを設定したのも俺。テーマを決めたのも俺。

 すでに俺のもとには他の執筆者さんたちからの原稿が次々と寄せられている。まだ全部きちんと目を通せているわけではないが、ざっと見た感じなかなかの力作揃いだ。こういうものを書いたことがない、という人もいて、不安げだったので少しだけ相談に乗ったりもしたが、口を出したくなるような箇所はほとんどなく、初めてとは思えないようなきちんとしたものを書いてくれていた。

 そもそも、人のことをあれこれ言えるわけなどない。締め切り三日前にもなってほとんど原稿が進んでいない俺が、他人様にアドバイスなどと。笑わせやがる。

 俺は自嘲し、口元を歪めた。

 だがそんな思考すら、ある種の逃避なのだ。

 書けずにいる現状、あと三日でこの話を完成まで持っていけるとは到底思えないという現実から、なんとかして目を逸らしたい。そのためなら自分を馬鹿にするくらいのことはなんてことはない。

 そしてもちろん、わかっていた。逃避などが許される場合ではない。

 逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。

 逃げたら、原稿の完成はよりいっそう遠のくだけだ。当たり前の話だ。

 当たり前の話なのだが、じゃあそう考えれば進まない原稿に向かう気力が湧いてくるかと言えば、全くそんなことはないのだ。

 俺は無理やりパソコンに顔をねじ向けた。重い腕を上げ、強張った指を動かし、納得のいかない文章を、ひねくり回し続けた。

 今回のテーマは「三」。そんな抽象的なお題で何を書けとい言うのか、そう思った時は後の祭り。決めたのも俺なのだから文句も言えない。

 さんざん頭を悩ませた挙句、半ばヤケクソのように、三体のメカが合体した巨大ロボットが悪の侵略者と戦う、特撮ノリのSFを書こう、と思い立ったのが二週間ほど前。実際に手をつけ始めたのは一週間前。

 この一週間の時差が、おそらく、俺の無意識の警告だった。

 自分の文章がそのアイディアに向いていないことくらい、最初からわかってもいいはずだったのだ。

 もちろん、俺だって知っている。ドキュメンタリータッチでオーパーツとして発見された巨大ロボットを描くシルヴァン・ヌーヴェルの〈巨神計画〉シリーズや、歴史改変SFに巨大ロボットを絡めたピーター・トライアス『ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン』など、必ずしもライトノベル的とは言えないような重厚な表現による巨大ロボット小説も存在する、ということは。

 だが、それができるのは、「この表現で、それを書く」という意思があってのこと。ヤケクソにひねりだしただけのアイディアをひねくり回す俺のようなやつに、できることではない。書くと決めたらそこは割り切るべきなのだが、そんな切り替えをする余裕さえも、焦りは容赦無く奪っていく。

 俺はなおも小一時間、無駄な足掻きを繰り返したあと、ついに、このアイディアを三日以内に形にするのは不可能だと言う結論に達した。

 すでに外は暗くなっていた。

 大きなため息をつき、一度パソコンを閉じる。

 そろそろ食事の支度をしなければならない。

 俺は専業主夫をしている。掃除や洗濯、飯の支度をするのが主な役目だ。とはいえ俺の苦手な片付けや、いたらないところは妻がさりげなくカバーしてくれている。はっきり言って、相当楽をさせてもらっているといっていい。おかげで執筆時間も確保できているわけだが、せっかくのその時間を俺は……。

 いや、いかんいかん、余計なことを考えている場合ではない。妻の帰宅までには夕飯を仕上げておきたい。最近はダレていて少し遅めになってしまうこともあるのだが、やはりあまり長くは待たせたくない。

 俺は冷蔵庫の中から買っておいた生鮭と各種野菜を取り出し、今日の夕飯「鮭のちゃんちゃん焼き」の準備を始めた。

 と、その時である。

 急に電話が鳴った。

 スマホではない。家の、固定電話だ。

 最近では固定電話を置いていない家もあると聞く。誰だって携帯を持っている時代だ。それも理解はできる。うちだって、幾度かの引越しを経ていまだに設置し続けているのは、やはり習慣による部分が大きいのだろうと思う。実際、滅多にかかってくることはないのだ。

 だからこそ、心当たりのないタイミングで不意にかかってくる電話には、いつも一瞬どきりとさせられる。何か悪い知らせ、不穏な内容のものではないかと思わされるのだ。

 受話器を取ると、こちらが何か言うのを待たず、慌てた様子の聞き慣れた声が届いた。

『もしもし!? 啓か!?』

 兄だ。名を順という。兄は地元の北海道で家庭を構えている。俺と同じ関東に暮らす弟ともども、兄弟仲は良好だし、たまには互いの家の行き来もあるが、こうして直接電話がかかってくるのも珍しい。主な連絡手段はメッセージアプリだし、緊急の場合でもそれは変わらない。

「ああ、そうだけど。どうしたの珍しい」

『何を呑気な……テレビ、見てないのか』

「テレビ?」

『つけてみろ』

「チャンネルは?」

『どこだっていい。同じことしかやってないよ』

 切羽詰まった口調に何事かと思いながら、手を伸ばしてリモコンを取り、テレビをつける。

 どこかで大きな事故があったのかと思った。街が……ビル街が、燃えていたからだ。最初はピンと来なかったが、炎の中に、ポッキリ折れたタワーの残骸を見つけ、気がついた。独特の形状……スカイツリー? だとすればこれは、東京ではないか。

 ショックだった。我が家は、首都圏といえばいえる、という程度の、神奈川の中央付近だ。スカイツリーが近いとはいえないが、非常に遠いともいえない距離。それになにより、馴染みがある、何度も目にしたエリアだ。物理的な距離以上に、心理的に「近い」。

 炎はそこら中を覆い尽くしていた。単なる火事が、これほどまでに広がるとは思えない。いっぺんに広範囲に被害が及ぶような何か、例えば大規模な爆発でも起きたのだろうか。そういえば、スカイツリーだけではなく、あちこちのビルが、単に焼け焦げるだけではなく破壊されてもいるようだ。

 アナウンサーが何か喋っている。だが早口でよく聞き取れない。カメラは相当遠くから望遠で街の様子を映しているようで、どこか作り物めいた、のっぺりした感じが全体に漂っている。その画面が引きの映像となり、被害が、当初映っていた範囲から想像した以上に広がっていることがわかった。そして空。わずかに残照を残した暗い空は、白っぽい煙に覆われている。

 そこに。

 それがいた。

 俺は一瞬、拍子抜けした。

 全てが特撮だったのかと、そう思ったからだ。

 大規模火災の映像のリアリティに比べ、その上空に浮かぶものは、どう見ても実在するとは思えないものだった。

 一言で言うなら、「空飛ぶ円盤」に近い。人が空想や妄想に思い描き、幾多のアニメやSF映画の中で具体的な姿を与えてきた、外宇宙の乗り物、その表象に共通する特徴を、それは備えていた。対称に広がる帽子の鍔のような外縁部。上下に突き出した本体。完全な円ではなく、わずかに尖った部分があって前後左右の区別を与えているのも、それほど珍しいことではない。どんな原理なのか、全く動きを見せずに空中に浮かんでいるのも、古典的な円盤らしい。もしも現実であるならばドローンかと思うところだが、プロペラらしきものは見えない。もっとも、煙と宵闇の中では、高速回転するプロペラが見えなかったとしても、さほど奇妙なことではないだろう。

 ただこの物体は、ドローンにしては奇妙な、生き物のような特徴も備えていた。先端のあたりにはには複眼を思わせる出っ張りがいくつか赤く光っているし、表面もぶつぶつとした突起に覆われ、ぬめぬめと濡れたような光沢を備えている。よく見ると、下部には触手のようなものが無数に垂れ下がっているし、後ろにはとりわけ太く長い、尾を思わせる紐状のものがあって、前後左右に揺れている。

 見れば見るほど、円盤やドローンというよりも、怪物、または怪獣に見えてくる。

 つまりますます特撮めいて見えてくるということでもある。

 特撮なら、街が燃えていたとしたところで、恐れる理由はない。俺は安堵し、受話器の向こうに語りかけた。

「なんだよこれ、新しい怪獣映画のプロモーションかなにかか?」

『違うよ、馬鹿』

 兄の声に苛立ちが滲む。

『現実だ。本当に起きてることなんだよ』

「そんな馬鹿な。だってこんな、おかしなものが」

 言いかけて、俺は言葉を切った。テレビに映るその怪獣めいたものの下部、触手がゆらめいている中心あたりから、一条の光が地上に向かって迸ったからだ。その先にあった、かろうじて燃え残っていたビルが、一瞬で爆発四散した。

 ますます特撮を疑わせる場面ではあった。だが、そのあまりの唐突さには、遠景にもかかわらず、一瞬で思考を蒸発させるだけの力があった。強烈な映像だったというわけではない。むしろ、あまりにあっけない光景だった。だが、そのことが……その「演出のなさ」こそが、現実の戦争の映像や乾いた銃声のように、状況に、逆説的なリアリティを与えていた。

「じゃあこれ……なんなんだよ」

 俺は呟くように言った。

『いいか、啓。落ち着いて聞くんだ』

 受話器から兄の声が響く。

『さっき、メッセージアプリに一つのリンクを送った。そのリンク先に飛ぶと、二つのファイルがダウンロードされる。まず〝M〟という名前のものを開け。一つのアプリが起動する。そうすれば全てがわかる』

「ちょ、一体なんの話だよ。つーかメッセージ送ったんならこんな電話」

『一刻を争うんだ。確実に、今すぐ、状況を把握してもらい、メッセージに気がつかせなければならなかった。現にお前、何が起きてるかも知らなきゃ、メッセージも見てなかったんだろ』

「そりゃそうだけど……でもこんなときに一体」

『メッセージをみろ。リンク先から、アプリを起動しろ。そうすれば全てがわかる。急げ。俺もすぐ行く』

 すぐ行く? どういうことだ?

 聞き返そうとしたときにはすでに電話が切れていた。

 テレビに目をやる。さらに広い範囲が炎に包まれている。遅まきながら自衛隊の戦闘機らしきものが現れ、攻撃を開始する。だが効果がない。機銃が敵表面に小さな火花を散らしたが、ダメージを受けている形跡がない。やがて発射されたミサイルも、確かに命中したはずなのに、爆炎が消えた後には相変わらず無傷の敵が残っていた。

 敵が反撃を開始する。街を焼いたのと同様の光線、そして目から発せられる、別種の赤い光。どう違うのかは見ていてもわからなかったが、その命中率と効果だけは見誤りようがなかった。戦闘機は一機、また一機と爆散し、または炎に包まれ煙を噴いて落下していく。街が無事なら大惨事になるところだが、地上にはもうすでに新たに燃える余地などない。

 思い立ってチャンネルをいくつか変えてみたが、兄も言っていた通り、確かにどの局もほとんど同じ光景を映し出していた。

 流石に、納得せざるを得ない。これは、現実なのだ。

 俺はまず帰宅途中のはずの妻にメッセージを送った。今のところすぐ近くではないとはいえ、あの様子ではいつ戦火が広がってくるかわからない。他でもない首都が攻撃を受けているせいだろうか、避難に関するアラートなどは一切スマホに届いていないが、とにかく警戒するべきだろう。未だ何も知らない可能性も考え、簡単に現状を記し、危険だと思ったら無理に家に帰らずできるだけ安全な場所に避難するようにと伝える。送信ボタンを押すと、ようやく少し気分が落ち着いてきた。

「さて、それじゃあ」

 呟き、兄からのメッセージを確認する。そこには言われた通り、リンクを示す青い文字列だけがあった。少しだけ躊躇したのち、タップ。リンク先はファイルアップローダーだ。「まとめてダウンロード」を選択し、タップ。それなりの容量があるらしく、少々時間はかかったが、やがて無事ダウンロード完了のメッセージが表示された。一つの圧縮ファイルが表示されている。解凍すると、〝M〟そして「S」という二つのアプリがインストールされた。俺は兄に言われた通り、〝M〟を起動した。

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