第17話:招かれざる客
コンペティションまで、残り一ヶ月。
それは、時計作りの常識で考えれば、瞬きするほどの短い時間だった。
工房は、戦場と化していた。
朝も夜もなく、旋盤の回る音と、金属を叩く音が響き続けている。
アルドは工房の奥の小部屋に籠りきりで、師匠の遺した設計図と格闘していた。
床には無数の書き損じが散らばり、彼の目は充血し、頬はこけていた。それでも、その瞳だけは狂気的なまでの光を放っている。
「……計算が合わねえ。テンプの重量バランスが崩れる」
「親方! キャリッジ(回転カゴ)の素材はどうしますか? 洋銀じゃ重すぎます!」
「強度を保ったまま軽くしろ! ……畜生、もっと軽い合金があれば……いや、泣き言を言ってる場合じゃねえ。鋼を極限まで薄く削れ! 髪の毛の半分までだ!」
怒号と指示が飛び交う中、15人の弟子たちも必死で食らいついていた。
これは、ただの時計作りではない。
神の領域への挑戦だ。
重力を無効化する『回転する心臓』――その実現に向けて、全員が限界を超えて手を動かしていた。
私は、そんな彼らの邪魔にならないよう、しかし決して倒れさせないよう、食事の世話や資材の調達に奔走していた。
ハンスたち村の住人も協力し、交代で夜食の差し入れをしてくれている。
村全体が、一つのチームとして戦っていた。
そんな、一分一秒が惜しい時のことだった。
「お嬢様。……また、来客です」
ハンスが執務室に入ってきた。その顔は、先日の勅使が来た時以上に渋い。
「今度は誰? まさか、また王家の……」
「いいえ。ある意味、もっと厄介な御仁です」
ハンスが言い淀んだその時、広場の方から聞き覚えのある、甲高い笑い声が聞こえてきた。
「ははは! なんだこの汚い村は! 泥と雪しかないじゃないか!」
私はペンを落としそうになった。
忘れるはずがない。
かつて私を「寒々しい」と嘲笑い、どん底へと突き落とした男の声。
私は窓へ駆け寄った。
広場には、雪道には似つかわしくない、派手な装飾の施された馬車が停まっていた。
そこから降り立ったのは、厚手の毛皮のコートを纏い、ステッキをついた金髪の青年。
ギルバート・アークライト子爵だった。
「……どうして、彼がここに」
嫌な予感しかしない。
私は急いで階段を駆け下り、広場へと向かった。
* * *
「あらあら、エリアナ。久しぶりだね」
私が広場に出ると、ギルバート様はハンカチで鼻を押さえながら、大げさに手を振ってみせた。
その隣には、屈強そうな護衛と、いかにも職人風の身なりをした初老の男が控えている。
「ギルバート様……。何の御用でしょうか」
「御用? つれないな。元婚約者が、こんな辺境で健気に頑張っていると聞いて、激励に来てやったんだよ」
彼はニタニタと笑いながら、周囲を見回した。
朽ちかけの家々、雪かきをする老人たち、そして煤けた工房。
「しかし、噂通りの惨状だね。相変わらず、陰気で貧乏臭い場所だ。君にお似合いだよ」
「お褒めに預かり光栄ですわ。それで、本当のご用件は?」
私が冷たく返すと、彼は肩をすくめた。
「まあそう警戒するな。実はね、来月のコンペティションの下見に来たんだよ。ライバルがどんな凄い時計を作っているのかと思ってね」
「ライバル……?」
「ああ。君たちも参加するんだろう? 王家から招待状が届いたはずだ」
やはり、知っていたのだ。
というより、彼が仕組んだことなのだろう。
「そこでだ。君たちが作っているという『壊れない時計』とやらを、拝見させてもらえないかと思ってね」
ギルバート様は、顎で工房の方をしゃくった。
「お断りします」
「なぜ? 減るもんじゃないだろう」
「企業秘密です。それに、部外者を立ち入らせるわけにはいきません」
「ふん、強情な女だ」
ギルバート様は鼻を鳴らし、連れてきた初老の男に目配せをした。
男が一歩前に出る。胸元には、王都時計ギルドの幹部であることを示すバッジが光っていた。
「ベルンシュタイン嬢。我々はギルドの正式な視察として参りました。コンペに参加する工房が、王家の品位を損なうような劣悪な環境でないか、確認する義務があります」
「……そんな義務、聞いたことがありませんが」
「あるのですよ。不正防止のためにね」
男は強引に歩き出し、工房の扉へと向かった。護衛たちが私の前に立ちはだかり、進路を塞ぐ。
止められない。
彼らは最初から、強行突破してでも中を見るつもりだったのだ。
「開けろ!」
男が扉を押し開けた。
瞬間、工房の中から熱気と油の匂い、そしてけたたましい金属音が溢れ出した。
中は戦場そのものだった。
15人の老人たちが、鬼の形相でヤスリを動かしている。
アルドは奥の机で、顕微鏡を覗き込みながら何かを叫んでいる。
「角度が甘い! もっと鋭角に削れ! 摩擦を殺せ!」
その異様な熱気に、ギルドの男も一瞬たじろいだようだった。
しかし、すぐに嘲るような笑みを浮かべた。
「なんだ、これは。老人たちの療養所か?」
男はハンカチで口元を覆い、工房の中へ足を踏み入れた。
ギルバート様も続く。
「うわぁ、臭いな。油と汗と、加齢臭の煮込み料理みたいだ」
彼らは土足で、弟子たちが磨き上げた床を踏み荒らしていく。
作業中の弟子たちが手を止め、驚いたように侵入者を見上げる。
「おい、そこの爺さん。何を作ってるんだ?」
ギルバート様が、ブルーノ爺さんの手元をステッキで小突いた。
ブルーノ爺さんが慌てて隠そうとしたが、遅かった。
そこには、加工中の『ベルン・シルバー』の部品――巨大な《ユニティ・プレート》があった。
「なんだこの色は。……黄色いな」
ギルバート様はつまらなそうに鼻で笑った。
「真鍮の色止めもできないのか? それとも、金を買う金がなくて、真鍮を磨いて金に見せかけてるのか? 涙ぐましい努力だねえ」
「ち、違います! これは洋銀と言って……」
「黙れよ、薄汚い手で」
彼はブルーノ爺さんの言葉を遮り、さらに奥へ進んだ。
そして、アルドのいる作業机の前で止まった。
アルドは、顔も上げなかった。
全神経を指先に集中させ、極小の歯車を組み付けている最中だったからだ。
「おい、無視するなよ。元婚約者のご到着だぞ」
ギルバート様がわざとらしく大きな声を出し、アルドの机をドン、と叩いた。
ガシャッ。
微かな音がして、アルドのピンセットから部品が滑り落ちた。
時が止まった。
アルドがゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、充血し、隈ができ、まるで地獄の淵から這い上がってきた亡者のように昏く沈んでいた。
「……触るな」
地を這うような低い声。
しかしギルバート様は気づかない。勝ち誇ったように見下ろしている。
「相変わらず無愛想だな。どうだ、進んでるか? 王家からの課題は『マリン・クロノメーター』だそうじゃないか。こんな山奥の小屋で、そんな精密機械が作れるわけがないと思うがね」
「……出て行け」
「おいおい、忠告しに来てやったんだぞ。悪いことは言わない、辞退しろ。恥をかくだけだ」
ギルバート様は、アルドの机の上にある設計図をチラリと見た。
そこには、複雑怪奇な円形の檻(ケージ)のような図面が描かれていた。
「なんだこれは? 鳥かごか? ……ははっ、まさかとは思うが、『重力制御籠(ジャイロ・ケージ)』を作ろうとしてるのか?」
隣にいたギルドの男が、その図面を見て吹き出した。
「馬鹿な。あんなものは理論上の空論です。過去の偉人たちですら完成させられなかった『神の機構』ですよ? こんな設備もろくにない田舎工房で、作れるはずがありません」
「だよなぁ。夢を見るのは勝手だが、身の程を知れってことだ」
二人は顔を見合わせてゲラゲラと笑った。
工房の中に、屈辱的な笑い声が響く。弟子たちが悔しそうに唇を噛み、拳を震わせているのが見えた。
私は、たまらなくなって前に進み出た。
「お引き取りください、ギルバート様! ここは職人たちの聖域です。あなたのような方が、土足で踏み荒らしていい場所ではありません!」
「聖域? ただのゴミ溜めだろう」
ギルバート様は私の顔を覗き込み、憐れむような目をした。
「可哀想に、エリアナ。貧乏暮らしが長すぎて、頭までおかしくなったか? こんな泥臭い連中に囲まれて、鉄クズを磨いて……それが幸せなのか?」
「ええ、幸せですわ。少なくとも、宝石で着飾っただけの中身のない人々に囲まれているよりは、ずっと!」
私の言葉に、ギルバート様の顔から笑みが消えた。
彼は冷酷な目で私を睨みつけ、そして低い声で囁いた。
「……いい気になるなよ、負け犬が」
彼は背を向け、ギルドの男に合図した。
「行こう。見る価値もない。ただのガラクタ置き場だ」
「ええ。脅威にもなりませんな」
去り際に、ギルバート様は振り返り、決定的な言葉を投げつけた。
「教えてやろう。今回のコンペ、我々アークライト家は、王都最大の『王立中央工房』と手を組んだ」
王立中央工房。
それは、この国の時計技術の粋を集めた、巨大組織だ。資金も、人材も、設備も、桁が違う。
「彼らが用意しているのは、最高純度の金と、数百個のダイヤモンドを使った、芸術品のようなクロノメーターだ。精度も、美しさも、お前たちの作る泥臭い時計とは次元が違う」
彼はニヤリと笑った。
「一ヶ月後、王都の会場で会おう。その時が、お前たちの処刑台だ」
彼らは高笑いを残して去っていった。
馬車の音が遠ざかった後も、工房には重苦しい沈黙が残った。
悔しい。
悔しくて、涙が出そうだった。
私たちの努力を、誇りを、あんな風に踏みにじられるなんて。
「……親方」
ブルーノ爺さんが、震える声でアルドを呼んだ。
「すまねえ……わしらが不甲斐ないばかりに……」
アルドは無言のまま、床に落ちた小さな歯車を拾い上げた。
そして、それを愛おしそうに服で拭うと、静かに言った。
「……見たか」
「え?」
「あいつらの目だ。あいつらは、時計の中身なんて一度も見なかった。見たのは、工場の汚さと、俺たちの身なりと、素材の色だけだ」
アルドが顔を上げた。
その顔には、先ほどまでの疲労感は消え失せ、代わりに鬼気迫る闘志がみなぎっていた。
「あいつらは時計を見ていない。だから、負けねえ」
彼は作業机に戻り、設計図を広げた。
「ダイヤモンドだと? 芸術品だと? 上等だ。俺たちは『機能』で勝つ。
彼の言葉に、弟子たちの目にも再び火が灯った。
そうだ。私たちは見た目で勝負しているんじゃない。
「エリアナ」
アルドが私を呼んだ。
「あいつが触った机、塩をまいとけ。……作業再開だ!」
彼の号令と共に、再び工房に旋盤の音が響き始めた。
以前よりも激しく、力強く。
それは、王都の巨大権力に対する、小さな村からの宣戦布告の音だった。
私はハンカチで涙を拭い、強く頷いた。
見ていなさい、ギルバート様。
あなたが「ゴミ」と呼んだこの場所から、世界を変える怪物が生まれる瞬間を。
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