第3章:王家のコンペティション
第16話:国王の勅命
夏が過ぎ、領地に秋の気配が忍び寄っていた。
北部の秋は、冬への助走期間だ。木々は早々に葉を落とし、朝晩の冷え込みは日に日に厳しさを増していく。
けれど、私の心は穏やかだった。
アルドと星空の下で「約束」を交わしてから、私たちの絆はより一層強固なものになっていたからだ。
彼は以前にも増して精力的に研究に没頭し、私は領主として、そして経営者として、彼の創作環境を守ることに全力を注いでいた。
そんなある日のことだった。
静かな山間の村に、場違いな轟音が響き渡ったのは。
カッポ、カッポ、カッポ……!
石畳を叩く蹄の音。それも一頭や二頭ではない。四頭立ての馬車の音だ。
執務室で書類仕事をしていた私は、顔を上げた。
「……何事かしら?」
窓から広場を見下ろすと、黒塗りの豪奢な馬車が、砂埃を上げて滑り込んでくるところだった。
馬車の扉には、金色の紋章が描かれている。
剣と百合。
――王家の紋章だ。
「お、お嬢様! 大変です!」
ハンスが転がるように部屋に入ってきた。顔面蒼白だ。
「王城からの使者です! 勅使様がいらっしゃいました!」
「勅使……?」
心臓がドクンと跳ねた。
王家からの直接の使者など、辺境の貧乏伯爵家には縁のない話だ。
良い知らせか、悪い知らせか。
私の脳裏に、ギルバート様の顔がよぎった。彼が何か手を回して、私たちを潰しにかかったのだろうか?
「……お通しして。応接室へ」
「は、はいっ!」
私は急いで身なりを整え、鏡の前で深呼吸をした。
大丈夫。私たちは何も法に触れることはしていない。
堂々としていればいい。
* * *
応接室に通された使者は、神経質そうな細身の男だった。
仕立ての良い官僚の服を着ているが、その表情は険しく、この「埃っぽい田舎」に足を運ばされたことへの不満が滲み出ていた。
「エリアナ・ベルンシュタイン伯爵令嬢でいらっしゃいますな」
「はい。遠路はるばる、ようこそおいでくださいました」
「挨拶は無用。国王陛下よりの勅命をお伝えするために参った」
男は慇懃無礼な態度で、懐から一通の羊皮紙を取り出した。
封蝋には、王家の印章が押されている。
「近年、我が国の貿易船が、嵐による航路逸脱で遭難する事故が多発していることはご存知かな?」
「……ええ、噂程度には」
海洋国家である我が国にとって、海難事故は国益に関わる重大事だ。
原因の多くは、海上での現在位置を見失うことにある。
緯度は星の高さで分かるが、経度(横の位置)を正確に知るには、出発地の正確な時間を刻み続ける「時計」が必要だ。
しかし、船の揺れや温度変化により、既存の時計はすぐに狂ってしまう。
「陛下は憂慮しておられる。よって、国を挙げてこの問題を解決すべく、コンペティションを開催することとなった」
使者は羊皮紙を広げ、読み上げた。
『王家主催、航海用精密時計(マリン・クロノメーター)選定会を開催する。
国内全ての時計工房、ギルド、個人の職人に参加資格を与える。
求められる性能は、一ヶ月の航海において誤差一分以内であること。
嵐の海に耐えうる堅牢性を有すること』
一ヶ月で一分以内。
それは、現在の技術水準を遥かに超える過酷な条件だった。
「優勝者には、賞金金貨一万枚。および『王室御用達(ロイヤル・ワラント)』の称号を与え、海軍への独占納入権を認める」
金貨一万枚。
それは、この領地の年間予算の十年分にも相当する莫大な金額だ。
そして何より「王室御用達」の称号は、時計師にとって最高の名誉であり、未来永劫の繁栄を約束されるパスポートだ。
しかし、使者の言葉はそこで終わらなかった。
彼は意地悪く口角を上げ、最後の行を読み上げた。
「ただし。……『国の威信をかけた事業であるゆえ、生半可な品での参加は許されない。審査において基準を満たさぬ粗悪品、あるいは虚偽の性能を謳った者には、王家への不敬とみなし、厳罰に処する』」
厳罰。
その言葉が、重くのしかかる。
単なるコンテストではない。失敗すれば、工房の取り潰しや、最悪の場合は投獄もあり得るということだ。
「ベルンシュタイン家におかれては、最近『壊れない時計』を作ると評判だとか。無論、参加されますな?」
使者の目は笑っていなかった。
これは招待状ではない。
「評判が本当なら証明してみせろ。嘘なら潰す」という、踏み絵だ。
ギルバート様か、あるいは王都のギルドが、王家に吹き込んだに違いない。「田舎で詐欺まがいの商売をしている貴族がいる」と。
「……時計師と相談いたします」
「結構。一ヶ月後に王都へ参られたし。逃亡は認められませんぞ」
使者は一方的に告げると、茶の一杯も飲まずに去っていった。
残されたのは、机の上の重すぎる羊皮紙だけ。
私は震える手でそれを掴み、工房へと走った。
* * *
工房に入ると、アルドは旋盤の前で作業をしていた。
私の足音の荒さに、彼は手を止めて振り返った。
「……どうした、そんな顔して。借金取りでも来たか?」
「もっと悪いわ。……これを読んで」
私は勅命書を彼に渡した。
アルドは油のついた手を拭い、羊皮紙を受け取った。
最初の一行を読んだ瞬間、彼の顔色が変わった。
血の気が引き、瞳孔が開く。
「……マリン・クロノメーター……だと?」
彼の手が震え始めた。
あの、どんな精密作業でも微動だにしなかった職人の指先が、小刻みに震えている。
クシャリ、と羊皮紙が握り潰される音がした。
「アルド?」
「……こいつだ。師匠を殺したのは」
彼は絞り出すような声で言った。
「数年前、師匠が王家から命じられたのも、これだった。『決して狂わない航海時計を作れ』。だが、当時の技術じゃ不可能だった。師匠は寝ずに研究を続けたが、期限に間に合わず……心労で倒れて、そのまま……」
「そんな……」
彼にとって、マリン・クロノメーターはただの機械ではない。
師匠の命を奪った呪いのアイテムであり、超えることのできなかった絶望の壁なのだ。
「罠だ、エリアナ」
アルドは青ざめた顔で私を見た。
「『厳罰に処する』って書いてあるだろ? これは俺たちを嵌めるための罠だ。王都のギルドは、俺たちの成功が面白くないんだ。失敗させて、一気に潰す気だ」
「……ええ、私もそう思うわ」
「断れ。こんなもんに参加する必要はねえ。俺たちはここで、地道に時計を作っていればいいんだ」
彼は羊皮紙を床に叩きつけた。
恐怖。
初めて見る、彼の弱さだった。
それほどまでに、師匠の死というトラウマは深いのだ。
私は床に落ちた羊皮紙を拾い上げた。
確かに、これは罠かもしれない。
断れば、今の平穏な生活は守れるかもしれない。……いや、そうだろうか?
「逃げた」という事実は、「性能が嘘だった」と認めることと同じだ。評判は地に落ち、せっかく軌道に乗った商売も立ち行かなくなるだろう。
それに何より。
「アルド。……本当に、断っていいの?」
私は静かに問いかけた。
「これは、あなたが星空の下で言った夢を叶える、唯一のチャンスかもしれないのよ」
アルドが息を呑んだ。
「マリン・クロノメーターに求められるのは、究極の精度。そして、船の揺れという『姿勢変化』への耐性。……これこそ、あなたが作ろうとしている『重力を制する時計』が必要とされる舞台じゃないの?」
アルドは唇を噛み締め、視線を逸らした。
「……理論だけだ。まだ試作品すらできてねえ。一ヶ月後のコンペに間に合うわけが……」
「間に合わせるのよ」
私は彼の方へ歩み寄り、その肩を強く掴んだ。
「師匠は、一人だったから倒れた。でも、今のあなたには私がいる。15人の優秀な弟子たちがいる。そして……『ベルン・シルバー』と『ユニティ・プレート』という武器があるわ」
彼の瞳を見つめる。
琥珀色の瞳の奥で、恐怖と、職人としての闘争本能がせめぎ合っているのが分かった。
「逃げれば、あなたは一生、師匠の影に怯えて生きることになる。それでもいいの?」
「っ……」
「私は嫌よ。私の選んだ時計師は、王家の脅しごときで尻尾を巻くような男じゃないわ」
挑発した。
彼のプライドに火をつけるために。
長い、重苦しい沈黙が続いた。
工房の機械音だけが、変わらぬリズムで響いている。
やがて、アルドは深く息を吐き出し、乱暴に髪をかき上げた。
「……悪女だな、あんたは」
「知ってるわ」
「失敗したら、あんたの家もおしまいだぞ。厳罰で爵位剥奪、良くて国外追放だ」
「構わないわ。その時は、あなたと一緒にどこかの国で、また一から時計屋を始めましょう」
私が微笑むと、アルドは呆れたように、しかしどこか吹っ切れたような顔で笑った。
「……分かったよ。やってやる」
彼は作業机の引き出しを開け、あの日隠した古い羊皮紙――師匠の遺した設計図を取り出した。
「師匠の弔い合戦だ。……それに、王都の連中にも教えてやらなきゃな。田舎の『鉄クズ』が、世界を変える瞬間ってやつを」
彼の目に、いつもの鋭い光が戻っていた。
いいえ、以前よりも強く、覚悟を決めた男の光だ。
「ありがとう、アルド」
「礼を言うのは勝ってからにしろ。……おい、ブルーノ! 全員集めろ! 戦争だ!」
アルドの怒号が響く。
驚いて集まってきた弟子たちに、彼は高らかに宣言した。
これから一ヶ月、不眠不休の戦いが始まること。
そして、目指すのは「世界最高」の時計であること。
工房の空気が一変した。
恐怖ではない。武者震いだ。
老人たちの顔に、かつて鉱山で難所に挑んだ時のような、挑戦者の笑みが浮かぶ。
私はその光景を見ながら、強く拳を握りしめた。
受けて立つわ、ギルバート様。そして、王都の皆様。
私たちの愛と技術の結晶が、あなたたちの常識を覆すところを、特等席で見せてあげる。
賽は投げられた。
ベルンシュタインの時計塔の針が、運命の時刻へ向けて、急速に回り始めた。
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