第7話 【覚醒】深夜のオフィスに凸して正体を明かしたら、推しと「最強のタッグ」になれた件

 「話し合い」を始める時、母は決まって缶ビールを開けた。



「で、どうしたいの? 冬華」



 ソファーの前で地べたに正座をするのは、小学生の私、もしくは中学生の私、あるいは高校生の私。

 議題は模試の成績だったり、学習態度だったり、ペンの握り方だったり様々だ。

 大抵は、父の帰りが遅い時期によく行われたのがこの「話し合い」だった。



「黙っていたんじゃわからないわよ」



 母の声に怒気がこもる。

 先日は、口ごたえをしたと言って怒鳴りつけられたのだが。



「この時期にこんな成績で東大に行けると思っているの?」



 先日の模試の成績表をピラピラと振りながら、タバコを器用に片手で咥える。

 どうやら今日の議題は模試の成績らしい。



「どうすんのよ、本当に。どうしてこんな成績を取るの? 私をこんなに不安な気持ちにさせて、一体何が楽しいの?」



 煙草に火を付け、フゥー……っと長い息を吐いた。

 エンジンがかかってきたサインだ。

 大学受験未経験の母にとって、この時期のこの模試のB判定がどういう意味を持つのか、理解させるのは難しい。


 コツコツコツ。

 ソファー脇のサイドテーブルを、苛立たしげに指先でつつく。

 この音と、タバコの匂いを感じると今でも私は心がすくむ。



「そうやって! 黙りこくって! 私のことを馬鹿にしてるんでしょう!!!」



 この「話し合い」は、平均して4時間ほど続く。




 心を殺す十代だった。

 東大合格。

 それがゴールだと思っていた。



 けれど、ゴールテープを切った瞬間、私のエンジンは焼き付いてしまった。



 大学生活の記憶は、ほとんどない。

 慢性的な頭痛と吐き気。布団から起き上がれない日々。

 心も体もボロボロで、サークルなんて夢のまた夢。単位を取るだけで精一杯の、灰色の4年間。



 そして、就職活動で私は地獄を見た。



 周りの同級生たちが、メガバンクや官公庁、総合商社へと華麗に内定を決めていく中、私はエントリーシートすらまともに書けなかった。

『学生時代に力を入れたこと』? 『チームワークの経験』?

 そんなもの、あるわけがない。机に座ってペンを動かしていた記憶しかない。


 皮肉だったのは、あれほど私の人生を支配していた母が、就職活動になった途端、貝のように押し黙ったことだ。

 『あなたなら大丈夫よ』と、根拠のない言葉を繰り返すだけ。



 ああ、そうか。

 何も考えてなかったんだ、この人は。

 「勉強をして」→「東大に行く」という単純構造ならば理解できても、就職活動や社会人として働くといった多変数の立体構造になると、もう脳の処理能力がお手上げなんだ。


 私の人生を壊すほどレールを敷いたくせに、そのレールの先が崖になっていることすら知らなかったんだ。



 結局、私は大手企業を全滅した。

 手当たり次第に、聞いたこともない中小企業に書類を送りつけ、唯一即内定をくれたのが、この会社だった。


 業界研究なんてしていない。

 ただ、「東大卒」というラベルだけで私を拾ってくれた場所。


 嬉しくはなかった。

 ただ、あの時の安心感だけは覚えている。

 これで、やっと、家を出られる。



 無我夢中で働いた。

 まともな研修も上司の教育もない会社だったが、私にとっては都合が良かった。

 家を出て、親と物理的な距離を持った私の心身は急速に回復していった。


 調べればわかることは全て調べ尽くした。

 考えればわかることは全て考え尽くした。

 やればできることは全てやり尽くした。


 寝食に興味はなかった。

 実行すれば解決することを実行しない感覚が理解できなかった。

 そういう人間は多数派ではないと知る頃には、最年少課長昇進の話が立ち上がってきた。



 入社以来、私は軽井沢部長のお付きだった。

 聞けば、私の履歴書に興味を持ったのも、面接後に猛烈に私を押したのも彼だったらしい。

 当初は新人らしい雑務を適当に任されていたが、放っておいても私がある程度の成果物を出すとわかってからの丸投げっぷりはすごかった。


 もともとプライベートの時間という概念を持っていない私も悪かった。

 来た球を全力で打ち返し続ける。それを延々と続けるうちに軽井沢部長の社内の評価は高まり続け、反比例して彼の帰宅時間は早くなり続けた。

 最高級のAIを手に入れた気分だとか、君の入社以来ゴルフのスコアがどれだけ上がっただのと言われたときには流石に複雑な心境だったが。



 心境の変化が起きたのは、課長に昇進してからだ。

 正確には、部下を抱えるようになってから。


 最初は、彼らのことが理解不能だった。

 なぜ、全力を尽くさないのだろう。

 なぜ、できる全てをやり抜かないのだろう。

 彼らは本当に私と同じ、一日24時間を生きているのだろうか?



 すぐに気づいた。

 おかしいのは私の方だ。

 彼らは、自分の人生を生きている。結果を出すためのプロセスとして人生を生きているのではなく、自分がしたいことをしているのだ。


 そこで絶望する。

 わたしのしたいことってなんだっけ。

 仕事?業績?昇進?

 もちろんそれも、既に私の大切なものになってはいたけれど。



 ある日、新人の旭君が2分ほど遅刻をしたことがあった。

 大きな案件を共に終えたばかりなので多少の気の緩みを咎める気もないが、立場上指導しないわけにもいかない。


 口頭で軽い注意をし、縮こまって謝る彼をなだめつつ、雑談のつもりで「昨晩はそんなに遅くなったの?お酒の飲み過ぎ?」と振ってみた。

 プライベートに干渉する気はなかったが、そこで彼の表情はパッと輝いた。

「いやあ、友達と深夜までゲームしてたんですよ!オンラインで!ガキの頃の友達と久々に遊んだんで、うっかり盛り上がりすぎちゃって!」


 思い出すだけで楽しくてたまらないという顔だった。

 友達と遊ぶ。ゲーム。

 どちらも母に禁止されていたものだ。



 不意に、の私の声が聞こえた。

 やってみたい。遊んでみたい。本当は私も、みんなと楽しく、おしゃべりをしながらダラダラと。

 でも、私に友達はいない。ゲームのことも、まるでわからない。相談できる相手もいない。



 そうして産まれたのが、VTuber『常夏ココ』だった。

 子供の頃に禁止されていたゲーム。下手くそなプレイ。

 画面の向こうの私は、東大卒でも課長でもない、ただのポンコツな女の子になれた。


 最初は視聴者ゼロの無言配信だった。

 ただゲームをやっているだけでも楽しかったが、誰かとおしゃべりしながら遊ぶことへの憧れがあった。


 なので、最初は「視聴者を増やす」という目標で計画を立てた。

 目標を達成するのは得意だ。調査、計画、実行。


 暗い女のぼそぼそ喋りなど誰も聞きたくはない。滑舌を良くするトレーニングに、感情表現の練習。

 ターゲットの選定。大手Vと同じ土俵で戦うのは厳しいので戦場を選ぶか、それとも大手と同じゲームを会えてやることでお溢れを狙うか。本業もある中、頻繁に短時間配信をするのと週一で長時間配信をするのの、どちらが自分のスタイルに合っているか。



 といって、でVとしての躍進を狙ったわけではない。

 登録者数が100に達したあたりで私は市場を見るのをやめて、気楽に本音ベースで配信をするスタイルを選んだ。

 リスナーさんの反応もほどほどに温かく、配信は激務に忙殺される生活の中での、ささやかな癒やしとなっていた。



 そこに、サトウさんが現れた。


『缶コーヒー1本でいい』『貴方は間違ってない』


 100円という安価なスパチャ。

 でも、そこには5万円の赤スパチャにはない「体温」があった。



 ……なのに。  私は今、その光を手放そうとしている。



『泥を飲むのも仕事だ』 『大人の言うことを聞け』



 会長Kの言葉は、私を現実に引き戻す。

 それは、幼い頃にサイドテーブルを叩く母の指の音と同じリズムを持っていた。

 逆らえない。逆らったら、私はまた「無価値なゴミ」に戻ってしまう。



 私は、震える手でボールペンを握る。

 これを書けば、私は犯罪者になる。

 でも、会社の「正解」はこれなのだ。



 時刻は深夜3時。

 配信を終えてすぐ、私はタクシーに飛び乗った。

 朝まで待てなかった。一人で考えていたら、またサトウさんの言葉に縋ってしまいそうだったから。



 ごめんなさい、旭くん。

 ごめんなさい、サトウさん。

 私は、弱い人間です。



 ペン先が、紙に触れる。

 あと数ミリ。

 私の人生が、終わる。



     ◇




「……書くなッ!!」



 俺は、彼女の手首を掴んだ。

 全速力で自転車を漕いできたせいで、息が切れている。

 汗が目に入るが、構っていられない。



「……え?」



 冬華さんが、呆然と俺を見上げる。

 酷い顔だ。

 配信で見せた「諦めの表情」が、そのまま張り付いている。



「旭、くん……? どうして……」



 俺は、乱暴に彼女の手からボールペンをもぎ取った。



「間に合った……。

 朝一番に来るかと思ってたのに、まさかこんな時間に来てるなんて……」



 俺は荒い息を整えながら、彼女を睨みつけた。

 部下が上司に向ける目ではない。



「帰って。これは、私の仕事よ」


「仕事じゃない! それは『自殺』だ!」



 俺はポケットからUSBメモリを取り出し、彼女のPCに突き刺した。

 画面に表示されたのは、見たこともないデータ。



「……これ、見てください」


「……何、これ」



 軽井沢部長の、退職願の下書き。

 海外移住の手続き書類。

 日付は、上場の翌日。



「……え?」


「奴は、上場ゴールで株を売り抜け、不正がバレて会社が炎上する頃には、高飛びするつもりだ。

 会社のためでも、社員のためでもない。

 冬華さん。あんたを生贄にして、自分だけ勝ち逃げする計画なんです」


「……嘘」



 彼女の顔から、血の気が引いていく。



「事実です。このログは、俺が昨日複合機から抜きました」


「そん、な……」



 彼女の目が泳ぐ。

 信じたくない。でも、目の前のデータは残酷なほど鮮明だ。

 騙されていた? 最初から、捨てるつもりで?



「……ああ、ああぁ……」



 力が抜ける。

 彼女は椅子から崩れ落ちそうになり、机に手をつく。



「馬鹿だ……。

 私、なんて馬鹿なんだろう。

 天才? 優秀? 笑わせるわ……。私はただの、都合のいい操り人形だったのよ……」



 冬華さんは涙を流していた。



「たとえ部長が裏切っていても……状況は変わらない。

 明日には会議がある。数字が足りない。

 私がやらなきゃ、会社が……みんなの未来が……」


 彼女は、何かに怯えるように自分の肩を抱いた。



「私には、これしかないの……!

 泥を飲んででも、結果を出すしか……それが『大人』なんでしょ!?」



 彼女の叫びが、深夜のオフィスに木霊する。

 その言葉。

 その呪い。


 俺は、静かに口を開いた。



「……誰が、そんなことを言ったんですか」


 低い、怒りを含んだ声。


「『泥を飲むのが仕事だ』? 『綺麗事で飯は食えない』?

 ……ずいぶんと、偉そうな説教ですね」


 彼女が、ビクリと震える。

 その言葉。

 数時間前、配信で会長Kが彼女に投げつけた言葉そのものだ。



「冬華さん。魂を売ったら、それはもう貴方じゃない」


 

 俺は、真っ直ぐに彼女を見つめる。

 いつもの「頼りない部下」の仮面は、もう捨てた。

 今は、画面越しに彼女を支え続けてきた、一人の男として。



「部下は……俺たちは、汚れた金で守られたって、嬉しくなんてないんです」



 俺は、一歩踏み出す。



「貴方は、間違ってない。貴方は誰よりも真面目で、誰よりも優しかっただけだ。

 ……それを利用する奴が、クズなだけだ」


「……旭、くん……まさか……」



 彼女が何か別のことを言いかける。だが、俺はそんなことには取り合わない。



「反撃しましょう、冬華さん」


 俺は、彼女の手から落ちたボールペンを拾い上げ、ゴミ箱へ放り込んだ。


「証拠はあります。  それに、管理本部の馬場さんにも、話を通してあります」


「え……馬場さんに?」


「ええ。面白いことになってきましたよ」



 俺はニヤリと笑った。

 その不敵な笑みは、彼女に勇気をくれるはずだ。



「明日の会議が、軽井沢部長の『終わりの日』です。

 ……俺を、信じてくれませんか?」



 俺は、手を差し出した。

 上司に対する敬意と、それ以上の「何か」を含んだ手。



 彼女は、涙を拭った。

 もう、迷わない。そう言わんばかりに。


 彼女は、俺の手を握り返した。

 その手は、冷たかった。俺の手の体温が急速に彼女を温める。

 冬華さんの手から力みが抜け、柔らかくなっていくのをただ感じていた。



「……ええ。やりましょう。旭くん」


 彼女は立ち上がる。

 もう、氷の女帝の仮面はいらない。

 彼女は彼女として、大切なものを守るために戦う。


「徹底的に、やるわよ」


 オフィスの窓の外。

 東の空が、白み始めていた。

 長い夜が、明ける。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【朗報】厳しすぎる女上司(26)の正体、俺の推しVだった。毎晩100円スパチャで「部下の褒め方」を教えたら、翌朝デスクに缶コーヒーが置かれて職場がイージーモードになった件 ジュテーム小村 @jetaime-komura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ