第8話 甘井凛花、誰にも言っていない“恋の始まり”を思い出す

 家に帰ると、甘井凛花は玄関でそっと息をついた。


(……今日、いっぱい話しちゃったな)


 靴を脱ぎ、制服のまま自室へ。

 ベッドに倒れ込み、天井を見つめる。


 胸の奥が、さっきからずっとふわふわしている。


(……村杉くん、私が“隣にいたい”って言った時……驚いた顔してたなぁ)


 その表情を思い出すだけで、頬が熱くなる。


 だけど——。


 ふと、胸の奥に柔らかい痛みが広がる。


(……どうして、私……こんなに村杉くんが好きなんだろう)


 その“始まり”を、誰にも話したことはない。

 話せるような格好いい記憶でもないから。


 でも今日、あの帰り道で胸がいっぱいになって——

 久々に思い返してしまった。


◆ ◆ ◆


〈一年前・五月〉


“あの日、私は初めて村杉くんに気づいた”


 まだ一年生だった春。

 クラスにも慣れない頃、甘井凛花は誰とも深く話せず、

 毎日、静かに目立たないように過ごしていた。


 黒板に名前が並ぶときでさえ、心臓がドキドキしていた。


(私なんかが目立ったら、迷惑かもしれない……)


 そんな気持ちがいつも頭をよぎる。

 だから自分の存在を小さく、小さくしていた。


 ――放課後。

 一人で帰ろうとしたそのとき。


「……あ、それ俺のだよ」


 誰かの声がして、顔を上げた。


 廊下で、落ちたプリントを拾っている男子がいる。

 前の席の子の忘れ物らしい。


 その男子はひょいと拾い上げて、

 教室でまだ勉強していたクラスメイトの机にそっと置いて帰ろうとした。


「おーい、村杉。お前、それ届けてやんの? 優しいな」


「いや、別に……落ちてたから」


 その“落ちてたから”という言い方が、妙にかっこよかった。


(あ……この人、村杉くんだ)


 名前は知っていた。

 けど話したことはなくて、声を聞いたのもその時が初めてだった。


翌日。


 甘井さんは偶然、村杉が机の上の埃を雑巾で拭いているのを見た。


 誰に頼まれたでもなく、

 誰に見られているわけでもなく、

 気づいたら黙々とやっている——そんな姿だった。


(……こういう人、いるんだ)


 派手でもない。

 スポーツ万能でもない。


 でもさりげなく、優しい。


 その“さりげなさ”が、妙に胸に残った。


◆ ◆ ◆


〈そして夏〉


“きっかけは、あの小さな出来事だった”


 夏休み前、甘井さんは教室で教科書を落とした。

 重くて、ガラガラと派手な音がした。


(ど、どうしよう……恥ずかしい……)


 焦って拾おうとした瞬間——


「これ、順番バラバラになってるぞ。ほら」


 村杉が、散らばったページを丁寧にまとめて差し出した。


「……あ、ありがとう。ごめんね」


「謝るのは違ぇだろ。落としただけだし。

 別に悪いことしたわけじゃねーんだから」


 その一言。

 たったそれだけの言葉が——


(え……そんなふうに言われたの、初めて……)


 胸の奥の、固くなっていた部分をそっと溶かしていった。


◆ ◆ ◆


〈現在〉


“私は気づいてしまった”


(あの日から、ずっと気になってたんだ……)


 好きという言葉は、まだ怖くて口に出せない。


 でも、今日の帰り道で確信した。


(私……やっぱり、村杉くんのこと……)


 胸に手を当てる。


(誰よりも、大事に思ってる)


 机の上に置いた鏡を見る。

 少しだけ上手くなったメイクをした、自分の顔。


「……もっと、変わりたいな」


 自分のためじゃない。

 周りのためでもない。


(村杉くんの隣に、胸を張って立てるように)


 頬が熱くなる。


 そして小さく呟いた。


「……好きになっちゃったんだよ、ずっと前から」


 自分だけの秘密のまま——。

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