第7話 ポーン
「きゃーーーーー!!」
冷たい路地裏で、誰かが悲鳴を上げた。
呆然と座り込む中、たくさんの足音、人の叫び声。
(ボク……)
瑠花には何もわからない。
目の前に浮かぶのは滲んだ赤。
流れ、広がり、揺れていく。
「ともやく……」
手を伸ばした。
もしかしたら、まだ、なんとかなるかもしれない。
たすかるかもしれない。
「ともや……く……」
ウーーウーー
何かの音が響いてくる。
指が震えた。
あしが……うごかない。
動かなければ、智哉に届かないのに。
──バサッ
「え──」
唐突に視界が遮られ、それを最後に──瑠花の記憶は途切れている。
何がどうなって、何をしたのか全くわからない。
瑠花が気がついた時には、柔らかなタオルを頭から被せられ、暖かな空間でほんのり甘いお茶を飲んでいた。
「あ……れ?」
のろのろと辺りを見回す。
黒いシックな家具で統一されているモダンな、見覚えのないリビングだった。
机の上にはチェス駒がいくつか、無造作に転がっている。
「あぁ、やっと気がついた?」
「え……」
瑠花はぼんやり返事をして──
「うわっ!?」
ギョッとした。
机を挟んだ向かいを見れば、ミイラ男のように全身が包帯でぐるぐるの、和装の男がソファに悠然と座っていた。
顔も当然包帯で、目の部分と口の部分がかろうじてわかる程度だ。
その後ろ、部屋の隅には年配の女性がお盆を持って静かに控えている。
「意識はちゃんとある?」
「う、うん」
声の感じからすると、瑠花より少し年上か、二十代前半くらいだろうか。
男は
「ここに来る前のこと、覚えてる?」
(ここに来る……前?)
『ここに来る前のこと、覚えてる?』
静かな問いかけは、なぜか何度も聞いた言葉のように頭の中をこだまする。
「そりゃ──」
言いかけて詰まる。
当然だ!の言葉が出なかった。
まるで頭にモヤがかかったようで、思い出すのに苦労する。
(ええと確か……)
直前の記憶としては、突然服を被せられて担がれた……ような気がする。
「ん? 誘拐された?」
「ふふ。そうだね」
「え。笑えないんだけど」
思わず体を抱きしめて震え上がる。
うちは身代金なんて出せないぞ!?と慌てる瑠花に、安曇はまた小さく笑う。
「でも残念。僕が聞いているのはその前の話だ」
『その前のことを覚えている?』
再びこだまする言葉に首を傾げる。
「確か……」
その前──は。
街でパトロールをしていたはずだ。
(そのはず)
思考が鈍りだしもう一度首を傾げると、頭にかけられたモフモフしたタオルが目に入る。
これは、なんでだったろうか。
(濡れたから?)
あ──そうだ、雨だ。
「パトロールしてたら雨が降ってきて、それで慌てて……」
走って……と言おうとして言葉が止まる。
その先は──
「……」
頭の中に明滅するようにイメージがあふれる。
雨水の弾ける路上。
『色とりどりの花畑』
誰かの悲鳴。
『怜凛な空気をまとう王宮』
──それはまるで、壊れた映写機のように──
薄暗い路地裏。
『誰かの蕩けるような笑み』
赤く染まる傘。
「あ」
──過去も現在もぐちゃぐちゃに、次から次へと瑠花を突き刺す──
指一本動かない……
『虚ろな目をした智哉』
世界から色も音も消えて、身体が硬直する。
「──」
瑠花は喉からヒュッと音を鳴らした。
頭の中に映る智哉の虚ろな目は、見る見るうちに赤く染まっていく。
あっという間に顔の全てが赤になり、表情すら消えてしまう。
「う、あ……あぁ」
瑠花が悲鳴を上げそうになったその瞬間。
──ぐにぃ。
「ぶゅ」
安曇は立ち上がり、一切の躊躇なく瑠花の顔を摘んだ。
混ざりあった映像が、思考からプツリと消える。
「???」
タコの口のようになった瑠花は、訳が分からず目を白黒させた。
それを見て安曇は微かに笑う。
「ずいぶんと自罰的な子だ」
「ぶぇ?」
「友人の死を思い出した?」
軽い口振りでグニグニと瑠花の顔を潰す。
(い、いたい)
「思い出した?」
「うゅ」
頷けないので声を出したが、潰れた変な返事となった。
それを聞き、目の前の包帯男は口元の笑みを消す。
「自分の罪を見るのは構わないけど、立ち止まってまで見続ける必要はない」
「?」
安曇から出る空気は酷く冷たくて、瑠花は戸惑いを隠せない。
「理解したのなら、目を逸らしてでも次にやるべきことを考えろ」
瑠花はビクリと肩を震わせた。
目を逸らす...?
でも、ちゃんと見ないと。
(ボクは、逃げちゃいけない)
「見るなとは言わない。でも立ち止まって見つめたところで、君は何もできない」
(ボクはやっぱり何も……)
胸にザクザクと刺さる言葉に涙が浮かんだ。
いつの間にそばに来たのか、端で控えていた年配の女性が、震える瑠花の背中をさすってくれる。
「安曇さん、少しは優しく……」
「僕は優しいよ?」
安曇は言いながら、瑠花から手を離す。
しかしその目は瑠花を冷たく見据えたままだ。
「……」
「君が何をして何が起きたかなんて、僕は興味が無い。でも──」
安曇は机の上に転がっていたチェス駒を一つ手に取る。
「何をするのかには興味がある」
──カツン!
音を立ててその駒を机の上に立てる。
黒のポーンは、転がる駒達の中で毅然と立ち上がった。
「──ねえ、君は何をしたい?」
「……何を」
(したい?)
すべきことではなく?
「君はどうしたいの? 泣きながら部屋に閉じこもりたい? それとも──」
包帯の奥から冷ややかに瑠花を見つめている安曇は、言い聞かせるように言葉を切る。
「──犯人を殺したい?」
「安曇さん!」
「っ!」
女性が安曇に厳しい声を上げると、安曇は肩を竦めた。
冷たい声音に思わず息を飲む。言葉の刃を首に当てられた気がした。
(はんにんを……)
けれどだからこそ、削ぎ落とされた答えが見えた気がする。
「……」
瑠花の目から、ポロリと涙が零れ落ちる。
「……つかまえたい」
瑠花を見る安曇の目から、ふっと冷たい色が消える。
「……いいね」
安曇はニヤリと笑った。
包帯越しでよく見えなかったが、そんな空気をはっきりと感じた。
テーブルのポーンは転がる駒たちの中で毅然と立っている。
それを見つめながら、瑠花は静かに涙を拭った。
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