第4話 微笑みに侵される
ある日突然、まるで仕組まれたかのように、こんな噂話が広まった。
『その世界に行きたいと考えながら眠ると、異世界に入れる』
──もう六年も前の話。
これを聞いた時、瑠花はまだ八歳だったし、異世界と言われてもピンと来なかった。
けれども面白いものに違いないと考えて、幼い瑠花はワクワクと胸を高鳴らせて布団にもぐりこんだ。
けれどその世界は、幼い女の子の期待とは大きく違っていた。
「え?」
瑠花は気づけば、白亜の神殿──その中庭にいた。
色とりどりの花が咲き乱れ、蝶がひらひら飛んでいる。
甘すぎない優しい香りが花々から流れてきて、一瞬天国か何かかと思った。
(ここって……)
キョロキョロと周りを見る。
初めて来たはずの場所だったけれど、瑠花はその景色に見覚えがあった。
記憶を辿るように細い道を進んでいけば、樹木とその脇の小さな泉に辿り着く。
「あ……」
その水面に映っていたのは、瑠花の姿ではなかった。
瑠花より五、六歳は年上だろうか。
幼い頃から記憶に住んでいたもう一人の自分。
──瑠花の前世、聖女ウルドの姿であった。
幼い瑠花は、その場でくるりと回ってみる。
いつも着ていた白いドレスローブがふわりと広がる。
(ここって、夢なのかな……?)
そう考えた瞬間、誘うように綺麗な紅い蝶がひらひらと通り過ぎる。
蝶が羽を動かすたびに──緩やかに記憶の境がぶれていく。
──ヒラヒラ、ヒラヒラ
「うーん……」
(もしかして、『瑠花』が夢だったのかな……?)
蝶は上空に飛び上がり、瑠花は──ウルドは空を見上げる。
蝶はふわりと降りて、噴水の端に止まる。
覗き込むその顔は、やっぱり見知った『ウルド』の顔だった。
見つめるほどに、『瑠花』は水面に溶けていく。
「……」
再びヒラリと蝶が飛び、そのまま神殿の中に飛んで行った。
──今から考えればこの時。
瑠花は確かに、『何かがおかしい』そう思ったのだ。
けれど、それを自覚することもなく、ヒラヒラと飛ぶ蝶に目を奪われる。
ヒラヒラ、ヒラヒラ──
なんだか少し楽しくなって、ウルドは蝶を追いかけて神殿に入る。
「面白い夢見ちゃった」
車とか、魔法がないだとか。
「ヒース様とセシリアにも教えてあげなくちゃ」
ふふっと笑ったその時──。
──ズキリ。
「っ!」
頭が痛んだ。
そしてそれ以上になんだか胸が痛い。
「?」
ウルドはふるりと頭を振って、湧き上がる不安に蓋をして歩みを進めた。
足早に見知った神殿を進んでいく。
飾られている花も、灯される燭台の数だって、全部知っている。
「はあ……はあ……」
半ば走るようにウルドは神殿から王宮へと続く道に向かう。
本来聖女は神殿を出ては行けないのだけど、今はただヒースの顔が見たい。
「ヒース様……」
ヒースはこの帝国の皇帝であり、ウルドの婚約者だ。
(会いたい)
故郷を離れ、遠い国に花嫁として迎えられた時。ウルドは不安と孤独で潰されそうだった。
けれどヒースが神殿を整え、神官をつけてくれた。
彼はとても寡黙な人だったけれど、おかげでウルドは泣いて暮らさずにすんだのだ。
あの時から、ウルドはそんなヒースを──
王宮への扉を開けると、外に大きな騎士像と花が飾られている。
ここから先は王宮の敷地であり、華やかだったり優しい雰囲気というよりは、荘厳で毅然とした空気に変わる。
(でも……)
ヒースは皇帝で、いつも忙しい。
だから週に一度のお茶会を、ウルドはいつも楽しみにしている。
この扉が開く日を。
(せめてセシリアに会えればいいのに)
セシリアというのはウルドにヒースがつけた神官だ。
ピンクブロンドのふわりとした髪に、優しい眼差し。
『かわいいウルド、大好きよ』
いつもそう言って抱きしめてくれる。母のような、姉のような、親友のような女性。
ヒースに会えなくて寂しがっていた時も、故郷が滅んで泣いていた時も──。
「──滅ん、だ?」
記憶が交錯する。
(え、でも……)
指先が震える。
いつ。
どうして。
──本当に?
ウルドはギュッと目を閉じる。
(そんなはずない)
「そんなこと……起きてない」
言い聞かせるように呟いて、ウルドは目を開ける。
いつの間にか、王宮へ続く硬い廊下にも花が溢れ、蝶が飛んでいく。
「ヒース様のところに行かなくちゃ」
花道をゆっくりと、踏みしめるように歩き出す。
一歩。
また一歩。
──怖いことなんて何も無い。
そして辿り着いた扉。
ヒースの私室だ。
本当は執務室に行きたかったのだけど、ウルドは場所を知らなかった。
(大好きなヒース様!)
いつだってウルドのことを考えてくれている人。
ほとんど会えないし、笑顔も見せてくれないけれど──それはきっと、セシリアの言う通り。
『ヒース様は照れ屋なのよ』
だから信じてる。
早く会いたい。
そう思っているのに。
まるで硬直したように、扉に掛けた手が動かない。
──何か。
ドクンと心臓が鳴る。
──開けてはいけないような。
息が、苦しくなる。
──見てはいけない。
(何を?)
「……」
ウルドはまた目をギュッと閉じる。
そして意を決して、扉を開けた。
──キィ
「ん……」
──?
「陛下……」
見えたのは、ヒースの後ろ姿。
そしてそれと重なるピンクブロンドのふわふわの髪。
──あ。
ヒースの背中に回した腕に、微笑むセシリア。
──そう。
ウルドは息をするのも忘れて立ち尽くす。震える指から、力なくノブが離れた。
──そうだ。
(わたし……)
目を逸らすことすらできず、ポロリと零れ落ちる涙を拭うことも忘れて。
──この光景を知っている。
『ウルド、あなたは私の宝物。あなたも私を大切にしてくれる。そうでしょ?』
何よりも優しくて、安心する微笑み。
『ええ、もちろん。大好きよ、セシリア』
──笑いあった過去にヒビが入る。
ウルドの愛する皇帝に抱きついた彼女は。
「あら……」
──ウルドと目が合うと、蕩けるように微笑んだ。
『大好きよ、ウルド』
ウルドにとって何よりも大好きな、その笑顔で。
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