北斗七星

ep2-1

 海底に貫かれた長大トンネルをブライトブルーの客車と先頭で率いるワインレッドの機関車が電動機を唸らせ、北海道の広大な大地へ馳せていました。


 屋敷から連れ出された私は真紅の瞳を持つ吸血鬼のお嬢様と、オレンジ色の光と静謐な空間に包まれた食堂車で朝食のパンを頬張っていました。


「初めて夜行列車で越した夜は、どうだったかしら?」


 光沢が煌く金色に茜色のシートが据え付いた席に座り、凛々しく眼を覗かせた旅の吸血鬼、クリスカ・アルタリィさんが私に夜行列車バージンの感想を伺います。


「ベットがちょっと硬かったです」


 旅へ連れ出した主に忌憚のない意見を言いました。クリスカさんは首肯して苦笑いを浮かべます。


「ざっと三十年近く前の設計だもの。時代が違いすぎるわよ」

「あははは……」


 パンを口に運んでいた手が止まります。夜行列車への憧れと個室の快適な一時を想像していた私でしたが、ベットが思いのほか硬かったので、背もたれに当たる背中が少しだけ痛みます。


 しかし、私が是非とも語りたいアクシデントは、そんな些細な睡眠のことではなかったのです。それこそ列車ならでと言っていい問題でもあり、人生史上初めての危機でした。


「まさか、お風呂に湯船がない上、シャワーを出すのに時間制限があるなんて」


 虚ろな目を窓の外へやって、苦い思い出を振り返ります。クリスカさんは頬を膨らませて今にも噴き出しそうな面持ちを必死で保っています。


 この列車は首都と北海道を結ぶ寝台列車で、帰宅ラッシュの只中、世間一般で言うディナータイムより少し前の夜七時に始発駅を発ち、終着駅には翌十一時の到着、片道の所要時間は十六時間にも及びます。乗客は夕食と朝食を列車内で取らざるを得ません。


 そうなれば、清潔感を保つ入浴も然りです。しかも全員にその権利があるわけではなく、A寝台という上位クラスの部屋に宿泊する乗客と、ロビーカーで販売されるシャワーカードを手にした乗客だけです。


 私達は前者だったので、その特権も手に入れることが容易だったのですが、問題はそのシャワー。一人が使用できる水の量でした。


 列車とはいえ、積載できる水の量は限定されます。生活用水の他に使用済みの水を溜めるタンクも必要になるからです。故にシャワーには時間制限が設けられていて、それを過ぎるとどんなに泡塗れだろうが、問答無用で止められてしまいます。


 知らずに出し続けていた私は危うく、その犠牲者の一人になり掛けました。クリスカさんは誇らしげに、


「敢えて言わないで正解だったよー」


 とまるでそんな危機を嬉々として傍観するサイコパスのように言いました。


「敢えて!? 今、敢えてって言いましたよね!」

「そうよ。恥じらいながらも外に出るしかなくなって、涙目で私が入るシャワールームの扉に泣きついている姿を想像すると、なんか可愛いなって想像しちゃって」


 私は頬を膨らませて、精一杯の怒り顔をします。けれどそれもツボに入ってしまい、逆効果でした。


 このお方は、悪い悪戯が好きなようで、もしかして付いてきてしまったことが間違いだったのかもしれません。


「知りませんからね! いつお返しが来ても」

「えぇ、望むところよ。むしろ、お返しも貰えるなんていいじゃない」


 まんざらでもない様子。癪に障りますが、よくよく考えてみれば寝静まって起床放送まで随分と時間があったので、公衆の眼には触れないよう配慮をしてくれている気持ちは伝わります。


 だからこそ、怒るに怒れないのです。度を過ぎているとは思いますが。


 不貞腐れて乱暴にパンを噛み千切ります。


「けど、昔を思い出すなぁ」

「昔? 何か、思い入れでもあるのでしょうか?」

「こうやって食堂車でくだらない雑談してってさ。初めて旅したときのことを思い出す」

「初めての旅……差し支えなければ聞かせてください!」

「あれは旅っていうよりも、家出に近いかなー」


 クリスカさんが私の顔から車窓のトンネルに視線を逸らしました。どれ恥ずかしいエピソードを掘り返してやろうとも思いましたが、その面持ちが何故か少しだけ苦しいような、悲しいような顔に見えてしまい、口が動かなくなります。


 返ってくるのは振動でカタカタと音を立てる食器と沈黙。私は成す術無く、残り一個のパンをぼーっと齧ると、彼女が雰囲気に察したのか、話題を切りました。


「ごめんごめん。昔を思い出すといつもしんみりしちゃってさ。食べましょ」

「は、はい」


 クリスカさんの静止した手が、引き返すことなど無駄だと暗黙で語る様に再び動き出しました。

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