第19話 『理事会の乱入者と、最強の恩返し』
数日後。
帝都大学病院の特別会議室には、重苦しい沈黙が流れていた。
緊急理事会。
議題は『看護部長・高嶺怜子の進退および研修医・桜井遥人の処分について』。
長テーブルの上座には理事長と院長。
そして、オブザーバーとして東都医大の桂木惣一も同席していた。彼は被害者(?)という立場で、涼しい顔をして座っている。
「……残念だよ、怜子くん」
桂木が静かに口を開いた。
「君がそこまで公私混同する人間だとは思わなかった。……彼を庇うために辞表だなんて、組織人としての理性を失っている」
「公私混同ではありません。適正な人事判断です」
怜子は毅然と言い返した。隣に立つ遥人は、拳を握りしめて俯いている。
理事長がため息をついた。
「高嶺部長。君の貢献は認めるが、今回の件は東都医大との関係にも亀裂を入れた。……辞表を受理し、桜井君には退職勧告を行うのが妥当だろう」
決定事項のように告げられた言葉。
終わった。
怜子は唇を噛んだ。私が辞めるのはいい。でも、この子(遥人)の未来まで閉ざしてしまうなんて。
「待ってください! 俺は……!」
遥人が叫ぼうとした、その時だった。
ドォォォォン!!
会議室の重厚な扉が、まるで破城槌(はじょうつい)でも受けたかのように大きく開かれた。
「ガタガタうるせぇぞ! 湿っぽい会議しやがって!」
怒号と共に現れたのは、車椅子に乗った老人だった。
和服姿に、サングラス。
その後ろには、強面の秘書たちがズラリと控えている。
怜子と遥人は目を疑った。
見覚えがある。
先日、採血で大暴れしていた、あの頑固な――。
「……岩鉄(いしてつ)さん!?」
「おう、姉ちゃんにへなちょこ先生! 元気なさそうじゃねえか!」
岩鉄翁はニカっと笑い、サングラスを外した。
理事長と院長が、椅子から飛び上がるほど驚愕している。
「い、岩鉄……先生!? なぜここに!?」
「『先生』じゃねえ! 俺はただの元・入院患者だ!」
岩鉄翁は杖をついて立ち上がった。
その迫力に、桂木さえも息を飲む。
この男――岩鉄造(いわ・てつぞう)。
ただの元鳶職ではない。引退後、不動産事業で巨万の富を築き、この病院の設立時に土地と資金を提供した「筆頭理事(大スポンサー)」だったのだ。
現場では身分を隠していたが、病院幹部にとっては頭の上がらない存在だ。
「り、理事会へのご出席は予定に……」
「来るに決まってんだろ! 俺の命の恩人たちがクビになりそうだって聞いたんだからな!」
岩鉄はテーブルを杖で叩いた。
「おい院長。お前、こいつらをクビにするって言ったか?」
「は、はい。素行不良と、外部とのトラブルでして……」
「バーカ! 節穴かお前の目は!」
一喝。
「俺の腕を見ろ!」
岩鉄は着物の袖をまくり上げた。そこには、あの日、怜子が刺した注射の痕がうっすらと残っている。
「どいつもこいつも失敗しやがった俺の血管を、この姉ちゃんは一発で射抜いたんだぞ! 痛みもなくな! ……これ以上の技術を持った看護師が、どこにいる!」
そして、彼は遥人を指差した。
「そんで、この兄ちゃん! 俺の気を逸らすために、ガキみてぇな遊びに付き合ってくれた。……薬より検査より、あの時間が一番の『治療』だったわ!」
岩鉄は桂木を睨みつけた。
「おい、そこのキザな先生よ。あんた、偉いんだろ?」
「……東都医大の桂木です」
「ふん。あんたは技術はあるかもしれんが、血が通ってねえ。……俺はな、こいつらみたいな『人間臭い』医療者に、金を出し続けてきたんだよ!」
岩鉄は宣言した。
「こいつらを切るなら、俺はこの病院への出資を全額引き上げる。……さあ、選べ!」
究極の選択。
いや、選択の余地などなかった。
病院経営を支える大スポンサーの意向に逆らえるはずがない。
理事長は脂汗を流し、桂木を見た。
桂木は……静かに目を閉じた。
彼は賢い男だ。ここで意地を張れば、自分自身の立場も危うくなると悟ったのだ。
「……どうやら、私の負けのようだね」
桂木は立ち上がり、怜子の前まで歩み寄った。
「君には、強力なナイト(騎士)がたくさんいるようだ。……研修医だけじゃなく、こんな大物まで味方につけるとはね」
「……彼らが、私を強くしてくれたのです」
「そうか。……お幸せに」
桂木は一瞬だけ寂しそうな目をし、背を向けて会議室を出て行った。
それが、過去との完全なる決別だった。
騒動が収束した後。
中庭のベンチで、岩鉄翁は缶コーヒーを美味そうに啜っていた。
「……助かりました、岩鉄さん」
「礼には及ばん。俺は、気に入った奴にしか金も口も出さねえ主義だ」
彼は遥人の背中をバンと叩いた。
「へなちょこ先生! いい女捕まえたな。……泣かせたら、俺が承知しねえぞ!」
「い、痛っ! ……肝に銘じます!」
「姉ちゃんもだ。仕事もいいが、たまには息抜きしろよ。……壊れたら元も子もねえからな」
岩鉄は豪快に笑い、迎えの黒塗りの車に乗り込んで去っていった。
嵐のように現れ、嵐のように去っていった最強の恩人。
残された二人。
秋風が吹き抜け、怜子の髪を揺らした。
「……終わりましたね」
「ええ。……首の皮一枚で繋がったわ」
怜子は遥人を見た。
辞表騒ぎ、別荘への乱入、そして今日の逆転劇。
この数週間で、二人の関係はジェットコースターのように激変した。
「……ねえ、遥人くん」
「はい」
「私、辞表を出した時……本気だったのよ」
彼女は少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
「あなたがいなくなるくらいなら、看護部長の椅子なんて、いらないと思った」
「……」
「責任取ってよね。……私のキャリアを、めちゃくちゃにしたんだから」
それは、遠回しな愛の告白であり、一生添い遂げろという命令だった。
遥人は、誰も見ていないことを確認して、そっと怜子の手を握った。
「取りますよ。……一生かけて、メンテナンスします」
「……ふふ。期待してるわ」
二人は繋いだ手を隠すように、白衣の袖を重ねた。
病院のチャイムが鳴る。午後の診療の始まりだ。
彼らはまた「上司と部下」の顔に戻り、それぞれの戦場へと歩き出した。
でも、もう大丈夫。
どんなに冷たい風が吹いても、ポケットの中の温もりだけは、決して消えることはないのだから。
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