第18話 『懲罰の通達と、辞表の重み』
月曜日の朝。
高嶺怜子のマンションを出た桜井遥人は、重い足取りで病院へ向かっていた。
熱は下がったものの、体には倦怠感が残っている。だが、それ以上に彼の心を重くしていたのは、予感だった。
桂木惣一という男が、あんな屈辱を味わわされて黙っているはずがない。
病院に到着し、白衣に着替えて医局へ入る。
その瞬間、室内の空気が凍りついた。
同期の研修医たちが、気まずそうに目を逸らす。指導医が、憐れむような目で遥人を見た。
「……桜井。院長室へ行け。呼び出しだ」
予感は的中した。
遥人は小さく息を吐き、「はい」と短く答えて医局を出た。
院長室。
重厚な革張りの椅子に座る院長と、その横には事務長が立っていた。
そして、テーブルの上には一枚の書類。
『自宅待機命令書』。
「……桜井先生。君が週末、軽井沢で何をしたか、報告は受けているよ」
院長が渋い顔で言った。
「桂木教授の別荘に不法侵入し、暴言を吐き、あまつさえ大切なゲストを連れ去ったそうだな」
「……連れ去ったのではありません。部長の意思で……」
「言い訳は聞きたくない!」
事務長が机を叩いた。
「相手は東都医大の次期学長候補だぞ! 我が院との提携話が白紙になったら、どれだけの損害が出ると思っているんだ!」
「……」
「君の行動は、医師としての品位を欠くものだ。……懲罰委員会が開かれるまで、無期限の自宅待機を命じる」
事実上の、クビ宣告だった。
遥人は拳を握りしめた。
反論したかった。あれは正当な抗議だったと叫びたかった。
だが、ここで暴れれば、一緒にいた怜子の立場まで危うくなる。
「……承知いたしました」
遥人は深く頭を下げ、部屋を出ようとした。
その時。
バンッ!!
院長室のドアが、ノックもなく開かれた。
現れたのは、鬼の形相をした高嶺怜子だった。
いつもの冷静な彼女ではない。肩で息をし、目は怒りに燃えている。
「……高嶺部長? 何事かね」
「院長。今の命令、撤回してください」
怜子は遥人の前に立ちはだかった。まるで彼を守る盾のように。
「桜井先生には何の非もありません。……あの場にいた私が証言します。彼は私を助けに来ただけです」
「助ける? 桂木教授は『狂った研修医に襲撃された』と言っているがね」
「教授の誇張です。……これは私的なトラブルであり、病院の業務とは無関係です!」
怜子が声を張り上げる。
だが、院長は冷ややかに首を横に振った。
「私的だろうがなんだろうが、組織に損害を与えれば処分対象だ。……高嶺くん、君もだぞ。部下の管理責任をどう考えているんだ」
「……」
「君ほどの人間が、あんな若造に惑わされるとはな。……失望したよ」
その言葉に、怜子の表情からスッと感情が消えた。
彼女はゆっくりと懐に手を入れ、白い封筒を取り出した。
『退職願』。
「……院長。もし彼を処分するというのなら」
彼女は封筒をデスクに叩きつけた。
「私も、この病院を去ります」
室内に衝撃が走った。
遥人が息を飲む。
事務長が狼狽(うろた)える。
「なっ……正気か!? 看護部長の君が辞めたら、現場はどうなる!」
「知りません。……理不尽な政治圧力で、優秀な医師の芽を摘むような病院に、私の居場所はありませんから」
怜子は真っ直ぐに院長を見据えた。
「彼は未熟ですが、誰よりも患者のために動ける医師です。彼を切るなら、私も道連れにしてください。……それが、私の管理責任の取り方です」
一歩も引かない覚悟。
院長が呻き声を上げ、頭を抱えた。
看護部のトップと、将来ある若手医師。二人同時に失うスキャンダルは、病院としても避けたいはずだ。
「……くっ、少し頭を冷やせ! 処分は保留とする!」
院長が折れた。
とりあえずの、時間稼ぎだ。
廊下に出ると、怜子は壁に手をつき、ふぅーっと長く息を吐いた。
足が震えているのが見えた。
「……部長」
「……バカなことしたわね、私も」
彼女は自嘲気味に笑った。
「辞表なんて、ドラマの中だけの話だと思ってたわ」
「どうして……俺なんかのために」
「あなたのためじゃないわ。……私のプライドのためよ」
怜子は遥人の白衣の襟を直した。
「あなたがいない病院なんて、つまらないもの。……さあ、現場に戻るわよ。まだ勝負はついていないわ」
彼女はヒールを鳴らして歩き出した。
その背中は、以前よりも小さく、けれど何倍も強く見えた。
処分は保留になっただけだ。
桂木教授の圧力はまだ続いている。
この窮地を脱するには、病院の上層部を納得させるだけの「圧倒的な実績」か、あるいは「強力な味方」が必要だった。
そして、その味方は、意外なところから現れることになる。
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