第6話 『白い天井の孤独と、深夜2時の密室点滴』
その崩壊は、唐突に訪れた。
週明けの月曜日。
いつものようにナースステーションで指示を出していた時だった。
視界が、テレビの砂嵐のようにざらついた。
(……あ、だめ)
思う間もなく、地面が迫ってきた。
ガシャーン!!
カルテのワゴンを巻き込んで倒れる音。
「部長!?」「高嶺さん!!」
部下たちの悲鳴が遠くで聞こえる。
薄れゆく意識の中で、怜子は思った。
ああ、最悪だ。一番見られたくない無様な姿を、晒してしまった。
目が覚めると、そこは見慣れた、けれど決して自分が寝る場所ではなかったはずの「特別個室」だった。
白い天井。無機質なモニター音。
腕には点滴が繋がれている。
「……気がつきましたか」
主治医である内科部長が、憐れむような目で立っていた。
「過労と、自律神経失調症だ。……更年期の影響も強い。数値がボロボロだよ、高嶺くん」
「……申し訳、ありません」
「一週間の検査入院だ。仕事のことは忘れて、絶対安静にするように」
医者は出て行った。
残された怜子は、ベッドの上で呆然とした。
鏡を見る。
すっぴんの顔。血の気はなく、目の下のクマが酷い。髪も乱れている。
これが、今の私。
「鉄の女」のメッキが剥がれた、ただの疲れた中年女性。
「……帰りたい」
誰にも会いたくなかった。
部下に見舞いに来られるのも嫌だ。ましてや、あの子(遥人)になんて、絶対に見られたくない。
こんな枯れた姿を見たら、彼はきっと幻滅する。
その夜。
消灯時間を過ぎた病院は、海の中のように静かだった。
怜子は布団を頭まで被り、孤独に震えていた。
眠れない。点滴の滴る音が、時間を刻む音のように聞こえて怖い。
スッ……。
不意に、個室のドアが音もなく開いた。
看護師の見回りだろうか。怜子は狸寝入りを決め込んだ。
足音が近づいてくる。
そして、ベッドの脇で止まった。
「……起きてますよね? 部長」
聞き覚えのある、少し甘い声。
怜子は心臓が止まるかと思った。
がばりと布団を跳ね除ける。
「さ、桜井先生!? どうしてここに……」
「当直の合間に抜け出してきました。……心配で」
薄暗い常夜灯の中、白衣姿の遥人が立っていた。
彼は怜子の顔を見て、眉を下げた。
「……あちゃー。顔色、最悪じゃないっすか」
「見ないで!」
怜子は慌てて両手で顔を覆った。
「化粧もしていないし、髪も……こんな酷い顔、見られたくない!」
「いまさら何言ってるんですか」
遥人は苦笑しながら、ベッドサイドの椅子に腰掛けた。
「俺、医者ですよ? すっぴんの患者さんなんて見飽きてます」
「私はあなたの患者じゃありません! 上司です!」
「今は患者でしょう」
彼は怜子の手首を掴み、顔から引き剥がした。
抵抗できない。力が違いすぎる。
遥人は怜子の顔を、至近距離でまじまじと見つめた。
「……うん。確かに疲れてる」
「だから言ったでしょう……幻滅したなら帰って」
「でも」
彼は怜子の乱れた前髪を、そっと指で撫でた。
「鎧(よろい)脱いだら、意外と可愛い顔してるんですね」
「……は?」
「なんか、守ってあげなきゃって気になる」
怜子は言葉を失った。
可愛い? この私が?
五十五歳の、疲れ切ったすっぴんの女を捕まえて、この男は何を言っているのか。
「……からかわないで」
「本気ですよ」
遥人の目は真剣だった。
彼はポケットから、冷えたゼリー飲料を取り出した。
「夕飯、食べてないって聞きました。これなら飲めますか?」
「……食欲がないの」
「ダメです。栄養摂らないと、俺が口移ししますよ」
「なっ……!?」
「冗談です(笑)。……ほら、開けますから」
彼は蓋を開け、怜子の口元に運んだ。
怜子は観念して、少しずつそれを吸った。
冷たさと甘さが、乾いた喉を潤していく。
「……おいしい」
「よかった」
遥人は優しく微笑んだ。
彼はそのまま、怜子の点滴の落ちる速度を確認し、布団を掛け直してくれた。
その手つきは、いつもの不器用な彼とは違い、驚くほど手慣れていて、優しかった。
「……桜井先生」
「はい」
「私、もう若くないの。……体もガタが来ているし、すぐ倒れるし」
「知ってます」
「面倒な女よ。……それでも、構ってくれるの?」
弱音がこぼれた。
深夜の病室という密室が、理性の堤防を決壊させたのだ。
遥人は少し驚いた顔をして、それから、怜子の手を両手で包み込んだ。
「部長。……俺、中古車とかヴィンテージ物が好きなんですよ」
「……人をモノみたいに」
「新品にはない味があるし、手入れすればするほど輝くじゃないですか。……俺、そういうの直すの得意なんです」
彼は怜子の手を、自分の頬に寄せた。
ジョリ、と無精髭の感触がする。
「だから、安心して壊れてください。……俺が何度でも、メンテナンスしますから」
涙が出そうだった。
この男は、どうしてこうも真っ直ぐに、私の心の柔らかい場所を突いてくるのだろう。
「……生意気ね、研修医のくせに」
「へへ。……早く治してくださいね。部長がいないと、病院が静かすぎて寂しいっす」
遥人は立ち上がり、「また明日、夜に来ます」と言って、音もなく部屋を出て行った。
残された怜子は、彼に触れられた手を胸に当てた。
動悸がする。
でも、それは病気のせいではなかった。
孤独だった白い部屋が、今は少しだけ色づいて見える。
私は、入院してよかったのかもしれない。
初めて、彼に「甘える」ということを覚えられたのだから。
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