第5話 『過去からの刺客と、白衣の嫉妬』
月曜日の朝。
高嶺怜子は、いつものように完璧な「武装」を整えてナースステーションに立っていた。
昨夜のすき焼きの記憶は、夢だったのではないかと思うほど、今の彼女は冷徹な看護部長に戻っている。
「……本日は、東都医大から桂木(かつらぎ)教授がいらっしゃいます。粗相のないように」
怜子が看護師たちに指示を出す。
今日の午後は、合同カンファレンス(症例検討会)だ。ゲストとして招かれたのは、心臓血管外科の権威であり、次期学長候補とも噂される超エリート医師。
その時、自動ドアが開き、取り巻きを引き連れた長身の男が現れた。
ロマンスグレーの髪、仕立ての良いスーツ、知的な銀縁眼鏡。
五十八歳とは思えない若々しさと、圧倒的なオーラ。
「……久しぶりだね、怜子くん」
男――桂木 惣一(かつらぎ・そういち)は、怜子の前で足を止め、親しげに微笑んだ。
周囲の空気がざわつく。
あの「鬼部長」を、下の名前で呼ぶ人間など、この病院には存在しないからだ。
「……ご無沙汰しております、桂木教授」
怜子は一瞬だけ表情を強張らせたが、すぐに完璧な敬礼を返した。
「相変わらず、隙がないな。……昔はもう少し、可愛げがあったのに」
「仕事中ですので」
「つれないなぁ。せっかく三十年ぶりに会えたというのに」
桂木は怜子の肩に、慣れ親しんだ手つきで触れた。
三十年前。二人がまだ研修医と新人看護師だった頃、恋人同士だった過去を知る者は、ここにはもういない。
その光景を、廊下の陰からじっと見つめる視線があった。
桜井遥人だ。
彼はカルテを抱きしめたまま、動けずにいた。
(……誰だ、あのダンディなオジサン)
悔しいけれど、絵になっていた。
怜子と桂木。
年齢も、地位も、雰囲気も。二人が並ぶと、まるで一流の医療ドラマのワンシーンのようにしっくりくる。
昨夜、パーカー姿で肉を頬張っていた自分とは、住む世界が違いすぎる。
「……桜井先生」
背後から声をかけられ、遥人は飛び上がった。
指導医だ。
「何ボサッとしてるんだ。カンファレンスの準備手伝え」
「あ、はい! すみません!」
遥人は慌てて走り出したが、すれ違いざまに桂木の視線を感じた。
桂木は遥人を一瞥し、フン、と興味なさそうに視線を外した。
「視界に入れる価値もない」という目だ。
それが無性に腹立たしく、そして惨めだった。
その夜。
カンファレンス後の懇親会が終わったあと、怜子は病院の玄関で桂木を見送っていた。
「……今日はありがとうございました」
「怜子。本題なんだが」
桂木はハイヤーのドアに手をかけたまま、振り返った。
「ウチに来ないか? 東都医大の看護部長のポストが空く。……君なら適任だ」
「……買いかぶりすぎです」
「仕事だけじゃない」
桂木は一歩近づき、怜子の手を握った。
「実は先月、妻を病気で亡くしてね。……独り身になったんだ。今の君も独身だろう?」
「……」
「人生の後半戦、気心の知れた相手と過ごすのも悪くないと思わないか? 君となら、最高のワインが飲めそうだ」
スマートな誘い。
かつて愛した男からの、地位と安定、そしてパートナーとしてのオファー。
今の激務と孤独から解放される、これ以上ない救いの手。
怜子が答えようとした時、茂みの陰からガサガサと音がした。
「……誰だ?」
桂木が眉をひそめる。
現れたのは、コンビニ袋を提げた遥人だった。
彼はバツが悪そうに頭をかきながら、二人の間に割って入るように立った。
「……あ、お疲れ様です。ゴミ捨ての途中だったんで」
「君は……昼間の研修医か」
桂木は不快そうに目を細めた。
「重要な話の途中だ。席を外したまえ」
「いや、あの……部長、顔色悪いですよ」
遥人は桂木を無視して、怜子に話しかけた。
「懇親会で何も食べてないでしょ。……低血糖起こしますよ」
「……桜井先生」
「これ、あげるんで。食べてから考えてください」
彼が押し付けたのは、肉まんだった。
熱々の、コンビニの肉まん。
高級フレンチのあとに差し出された、百四十円の庶民の味。
桂木が失笑した。
「君ねぇ。高嶺部長にそんなジャンクなものを……」
「いただきます」
怜子の声が、桂木の言葉を遮った。
彼女は遥人から肉まんを受け取り、両手で包み込んだ。
温かい。
昨日の鍋の温度と同じ、確かな温もり。
「……桂木教授。お誘いは光栄ですが、お断りいたします」
「なぜだ?」
「私は、ここの空気が好きなのです。……不器用で、手のかかる部下たちがいる、この現場が」
怜子は遥人をチラリと見た。
遥人は驚いた顔をしている。
「それに……ワインよりも、今は温かいお茶の気分ですので」
怜子は深々と頭を下げた。
桂木はしばらく怜子を見つめていたが、やがて諦めたように肩をすくめた。
「……そうか。変わったな、君も」
桂木は車に乗り込んだ。
走り去るテールランプを見送りながら、怜子は肉まんを半分に割った。
湯気が上がる。
「……半分、食べますか?」
「えっ、いいんすか!?」
遥人の顔がぱぁっと明るくなった。
さっきまでの曇り顔が嘘のようだ。単純な男。
「……桜井先生」
「はい?」
「盗み聞きは趣味ですか?」
「ち、違いますよ! 心配だっただけです!」
遥人はハフハフと肉まんを頬張りながら、ボソッと言った。
「……あんな完璧なオジサンに口説かれたら、普通ついて行っちゃいますよ」
「嫉妬ですか?」
「……そうですよ、悪いですか」
彼は顔を背けた。耳が赤い。
怜子は胸の奥がキュンと音を立てるのを感じた。
二十六歳の嫉妬。なんて可愛くて、なんて愛おしいのだろう。
「ついて行きませんよ」
怜子は自分の分の肉まんを齧った。
「私は……七十点のすき焼きの方が、性(しょう)に合っているようですから」
夜風の中、二人は並んで病院へと戻っていった。
手と手が、触れそうで触れない距離で揺れている。
過去の幻影は消え、そこには確かな「今」だけがあった。
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