第2話

ナザレ-1225は落ちていた。

まるで輸送機から投下された貨物のように。

状況の急変にロボットは困惑していた。

なぜ時間トンネルを抜けた直後に自由落下しているのか。

計画書のどこにもそんな項目はなかった。

ましてイエスが空を飛んだという史料も存在しない。

では、最も可能性の高い理由は何か。

ヒューマンエラー。

どこかの愚か者が座標入力を誤ったのだ。

そのせいで地表より少し上に出現してしまった。

やはり人類とは信用ならない存在だ――

ナザレは腕を組み、舌打ちした。

(実際に舌打ちする必要は一切なかったが)

しかし、いま悠長に悪態をついている場合ではない。

このまま加速が続けば、機体は破損し、電装系は死に、任務どころか残骸として放棄され、数千年後に給料も出ない考古学者たちに発掘されるか、

現地の犬の餌皿として再利用されるに違いなかった。

ロボットにとって、それは屈辱的な最期であった。

ナザレはフライトシミュレーターを起動した。

腰と背中が開き、推進装置が展開する。

150枚のタービンブレードが起動し――

しかし推進が行われる前に、世界が藁色に染まった。

ナザレは藁山に突き刺さっていた。

「……なんてことだ」

ナザレは頭部を掻き、推進機を収納した。

立ち上がろうとすると、半腐りの藁山がその身体を呑み込んでいく。

まるで温かく歓迎する泥の沼――いや、拒絶する沼のようだった。

無菌処理された神聖な銀色の外装に藁と汚泥が張りつき、数秒で未来技術は無価値と化した。

藁をかき分けると、粗雑な木材とヤシの柱、そして餌桶らしきものが目に入った。

ここは……厩舎。

CPUが短時間フリーズした。

身体を起こそうとすると、右脇腹に異常が発生した。

外装は裂け、フレームが歪み、手がすっぽり入るほどの亀裂が生じていた。

「二万メートルの落下でも壊れないって言ってたよな? ――どう見ても欠陥品だろ」

ナザレは制作会社の名義と担当者を永久保存領域に記録すると、指先を展開し、簡易溶接ツールで歪んだフレームを修正した。

冷却液漏れなし、ショートなし。

最低限動作は可能。

ただし槍で刺された場合、死亡確定。

(この時代、槍の存在確率は非常に高い)

その時、藁の外から声が聞こえた。

「なによこれ!?」

「屋根に穴が開いてるじゃない!」

声の主は二人。

一人はしゃがれ声の女、もう一人は筋肉質になりきれない男。

「間違いない、ローマ兵の仕業だ! 賃上げ交渉の報復だ!」

「ローマ兵が? 建築家で石工で木こりのうちみたいな貧乏臭い家に来て、屋根だけ壊して帰ったって? 火もつけずに?」

「いや、その……俺、組合長だし……」

言葉の半分は妄想、残り半分は虚勢だった。

二人が言い争う中、藁の山から銀色の人影がぬっと立ち上がった。

「ど、どうも」

二人は目を剥いた。

「ヨセフの友達?」

「マリア、あんたの知り合い?」

どちらも押し付け合うように責任転嫁していた。

ナザレは仕方なく自己紹介した。

未来から来たロボットで、うっかり空から落ちてきたと。

だが二人は顔をしかめ、宗教的に処理できない何かを見る顔になった。

「それで、人を探している」

ナザレが言うと、マリアは眉根を寄せた。

「他人の家に穴開けておいて、人探し?」

ナザレは無機質に続けた。

「ナザレ出身のイエス。イアス、イェシュア、イエホシュア。名は諸説ある」

二人は顔を見合わせた。

「ここはナザレだけど、その名前の人はいな……」

マリアは言いかけて口を閉じ、唇を吊り上げた。

「……まあ、もしかしたらいるかもね。出生届なんて無いし。ね、ヨセフ」

ヨセフは何か言いかけたが、マリアに踏まれて沈黙した。

「ヨセフが言うには、羊飼いの中にいるかもしれない――かもしれないだけだって」

どちらに転んでも正しい体裁になる、完璧な無責任回答だった。

マリアは屋根を指さした。

「そのイエスとかいう人の情報が欲しいんなら――屋根、直しなさい」

要求は信仰ではなく、肉体労働だった。

ナザレは交渉プログラムを起動した。

が、

『ネットワーク接続がありません』

未来文明の遺産は紀元元年にて即死した。

ナザレは深いため息をついた。

「じゃあ代わりに歌を……」

「歌うなら屋根より先にぶっ壊すわよ」

指を鳴らすと骨の音が響き、ナザレのCPU温度が2℃跳ね上がった。

ロボットは即座に歌唱モードを停止した。

「わかった。直す。その代わり、イエスの情報を……」

「まず修理。話はその後!」

マリアは満面の笑みで宣告した。

ヨセフはナザレの肩を叩き、道具の詰まった桶を押し付けた。

「じゃあ働け、銀ピカ。夜まで終わらないぞ。薪も食料も探してこいよ」

「逃げるなよ? 銀色の身体じゃすぐ見つかるし、ローマ兵かユダヤ教の偉い人にチクれば強制労働コースだからね」

夫婦はウキウキした足取りで去っていった。

残されたのは銀色のロボット一体。

神の御許へ向かう使命を帯びた存在が、

なぜか初日から大工見習いに転職していた。

ナザレは、自分が本当に間違った時代に来たのではないかと真剣に考え始めた。

それから半日が過ぎた。

市場から戻ってきたヨセフとマリアは、言葉を失った。

彼らの厩舎は、もはや汚物まみれの臭気漂う場所ではなかった。

あらゆる災害にもびくともしなさそうな、頑丈な建築物へと変貌していたのである。

しかも内部の広さは、元の三倍ほどに拡張されていた。

ナザレは拡張した空間を用途別に区分していた。

人の居住区、家畜用の区画、そして旅人向けの客室。

今まで馬と同じ床で眠っていた二人にとって、これは革命そのものだった。

しかし、二人が驚愕した理由は建物だけではなかった。

そこには、慣れた手つきで丸太を切り倒し続ける銀色の男がいた。

一日で三本の木を伐れば大金が転がり込む時代に、すでに十九本を伐り倒し、二十本目に取り掛かっている。

しかも疲れた様子は一切ない。

そのすべてが、ヨセフとマリアが市場へ向かっている半日の間に起こったことだった。

マリアは唇をとがらせ、干しナツメヤシを口に放り込みながら言った。

「へぇ、見た目よりずっと力持ちじゃないの」

「力持ちどころじゃない。あれは怪物だよ。完全に怪物だ」

ナザレは丸太を倒すと、木屑まみれの銀色の胴体を軽く払った。

そして斧を肩に担ぎながら呟いた。

「記録によれば、イエス様は僕よりもっと凄かった。木なんて二十本ぐらい、朝飯前だったらしい。……待てよ。僕、二十本以上切ってるよな。

……ってことは僕、イエス様並みに凄いってことか」

「イエス?」

ヨセフが顎をさすりながら呻くと、ナザレが続けた。

「イエススとも呼ばれる。別名はイエスース――」

「わかった! もう聞き飽きた! 本当に!」

マリアは身震いした。

「で、あんたどこの何者か知らないけど、とりあえず私たちの紹介ぐらいはさせなさい。私はマリア。そっちは――」

「会話ログから二人の名前は把握済み。そちらがヨセフだろう?」

「そうさ。俺がヨセフ。石工やってる。建物造りが仕事なんだ」

ヨセフが胸を張って言うと、ナザレは鋭い視線を二人に向けた。

「まさかと思って聞くが……君たち、夫婦か? 子供は?」

その瞬間、二人は笛でも吹くように視線を逸らし、肩を組んだ。

「その、まあ、同僚であり、友達であり、えっと……」

「恋人って言ってもいいかもね。たぶん。とにかく、まだ子供はいない」

ヨセフが言った途端、マリアは彼の脇腹を突いた。

「この男がダメなのよ。日が沈むと寝るのよ、すぐ」

「はいはい、全部俺が悪いんだろ。……でさ、一つ提案があるんだ。実は俺、石工組合の組合長なんだが、腕のいい働き手が足りなくてな。

どうだい? 組合に入らないか? 日当で銀貨三枚払う」

ヨセフの申し出に、ナザレはほんの少しだけ逡巡した。

「だが僕には重大な使命が――」

「その使命はちょっと置いときなさい。今、ギリシャ風の新都市が大繁盛してるって知らないの?」

マリアが左腕を掴み、ヨセフが右腕を掴み、ニヤリと笑った。

「心配するな友よ。今ナザレで一番儲かるのは石工だ。

もしかしたら、探してるそのイエスって奴も、ここで石工やってるかもしれんぞ?」

ふむ。完全に間違いというわけでもなかった。

イエスが伝道を始める前に大工仕事をしていたというのは、記録に残っている話だ。

それなら――

少しだけここに滞在しながら探してみるのも悪くない。

ナザレの演算処理は、その結論に到達した。

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