第39章 —手順が増える—

 モニターが黒に戻っても、空気だけが戻らなかった。

 “継続が困難”という言葉の余韻が、壁に貼りついている。


 篠崎真弓は白衣の袖口を握り直した。

 震えを隠す仕草なのに、隠しきれていない。


「……皆さん、落ち着いてください」


 真砂亮介が一歩前に出た。

 怒鳴らない。だから逃げられない。


「落ち着くために聞きます。御影さんは今どこです。会話できますか」


 篠崎の唇が開きかけて閉じた。

 答えの代わりに、息が浅くなる。


 伊達桜子が続ける。短い。


「声だけでいい。生存確認です」


 篠崎は視線を落としたまま絞った。


「……それは、できません」


 真砂が即座に切る。


「できない、でいい。次。

 主任、前にも言いましたよね。『管理は白鷺先生』だって」


 篠崎の目が揺れる。

 揺れた視線が廊下の奥へ滑った。

 そこに誰かがいるわけじゃないのに、“何か”に触れたくないみたいに首筋が強張る。


 伊達が畳む。


「なら、白鷺先生に繋いでください。ここで」


「……今は」


 篠崎が逃げ口を探した瞬間、真砂が同意書の控えを折りたたんだまま机に置いた。


「医療の中身じゃない。手順でいい。

 昨夜、誰が指示して、どこへ運んで、何を記録した。

 言えないなら、手順書を見せてください」


 篠崎の指先が白衣の裾を捻った。

 震えが止まらない。


 伊達が最後の逃げ道を塞ぐ。


「“後で”って言うなら、時間を決めて。

 今日のうち。五分。今この場で約束して」


 篠崎の喉が鳴った。

 声にならない拒否と、拒否できない現実がぶつかる音。


「……服用が終わったら。……五分だけ」


 真砂は頷いた。

 勝った頷きじゃない。約束を固定する頷きだ。


「分かりました。終わったら、五分。逃げないでください」


 湧は、梨々香の手が袖を掴んでいるのに気づく。

 指が冷たい。


 湧は強く握れない。

 それでも、そっと握り返した。



 篠崎は約束した直後に“手順”へ逃げ込んだ。

 逃げ込まないと立っていられないみたいに。


「……本日から、服用は医務室前のブースで行います。

 順番に一人ずつ。飲んだあと確認します」


 湧は喉の奥で言葉を飲み込んだ。

(また増える)

 声にしたら、その“増えた分”が自分に向く気がした。


 医務室前。衝立、椅子、机。

 手指消毒、紙コップ、透明の小袋。

 整っているほど怖い。整ったものは、人を“処理”できる。


「加藤湧さん」


 二錠が掌に置かれる。

 白い粒は軽いのに、喉だけが重い。


 飲む。苦い。舌の奥に貼りつく。

 飲み下しても残る。


「口を開けて。上、下。舌も」


 看護師たちの声は柔らかい。

 柔らかいまま、角度だけが冷たい。

 口の中を“確認”する視線は、体を物にする。


 湧が衝立の外で水を飲むと、胃の奥が焼けた。

 胃粘膜保護剤を飲んでも熱は引かない。

 守るはずのものが守らない――その矛盾が不安を増やす。


 列の端で、真砂が篠崎に声を落とした。


「主任、確認。

 このブースは“安全のため”ですか、“昨夜のため”ですか」


 篠崎は一瞬だけ目を泳がせ、すぐ戻す。


「……安全のためです」


 伊達が即座に刺す。


「なら、なおさら。星野麻衣さんは安全ですか」


 篠崎の指先が机の縁を押さえた。微かに震える。


「……星野さんは、体調不良で」


「どこに?」


 伊達の声は低い。


「会話できる場所ですか。

 “いない理由”を曖昧にしないでください」


 篠崎は答えず、次の名前を呼ぼうとする。

 真砂が畳みかけず、約束を思い出させるようにだけ言った。


「服用が終わったら、五分。そこで聞きます」


 篠崎は返事をしない。

 しないまま、手順を回し続ける。


「佐伯梨々香さん」


 梨々香が衝立の中へ入る。

 水の音。短い咳。苦さが喉を刺す音。


「口を開けて。舌も」


 同じ手順。

 同じなのに、今日は“試す”みたいに聞こえた。


 梨々香が出てきた。

 目が揺れている。

 痩せて澄んだぶんだけ、揺れが隠せない。


 湧は言葉が出ず、手を少しだけ上げた。

 梨々香が小さく頷く。


 そのすぐ横で、真砂が伊達にだけ聞こえる声で言った。


「星野の“不在”が、手順になりかけてる」


 伊達は短く頷いた。



 最後の回収袋が机の端へ寄せられたとき、篠崎の肩がほんの少し落ちた。

 手順が終わった――はずなのに、終わった感じがしない。


 真砂はすぐ動かなかった。

 篠崎が“逃げる動線”を作るのを待つみたいに、少し距離を置く。


 伊達の視線が一度だけ廊下の曲がり角へ滑る。

 見張りの気配を探す目。


 篠崎が看護師たちへ短く指示し、衝立の整頓が始まった瞬間、真砂が低く言った。


「主任。今。五分」


 篠崎は反射で首を振りかけて、止まる。

 止まったのは“怖さ”があるからだ。


「……今は、片付けが」


「片付けは、看護師たちで回りますよね」


 伊達が静かに言った。


「主任だけがやる手順ですか?」


 篠崎の喉が詰まる。

 そして、ほんの少しだけ視線が動く。

 記録室の方。


「……分かりました。……五分だけ」


 湧の胸がざわついた。

 何が始まるのか分からない。分からないから怖い。


 梨々香が湧の袖を掴む。


「……湧くん、麻衣さん……」


 湧は小さく首を振るしかない。


「……分かんない……」


 分からないのに、五分が始まる。



 篠崎が廊下へ出る。

 真砂と伊達が半歩遅れてつく。近すぎない。逃げられない距離。


 湧と梨々香は追えない。

 追ったら“関係者”になる。

 なりたくないのに、なってしまいそうで怖い。


 廊下の角で、篠崎が立ち止まった。

 白衣の胸ポケットに手を当てる。心臓の音を抑えるみたいに。


「……ここで、いいですか」


 篠崎の声が掠れている。


 真砂は頷く。


「はい。短く。

 御影さんの“継続が困難”は、どういう意味です」


 篠崎は口を開けて、閉じた。

 言葉が出ない。出したら終わる顔。


 伊達が方向を変える。


「星野麻衣さん。どこです」


 篠崎の瞳が揺れた。

 揺れが答えになる。


「……体調が……」


「“体調不良”は聞きました」


 真砂が遮る。


「場所。会話の可否。それだけでいい」


 篠崎が息を吸う。吸った息が震える。


 そのとき――軽い足音が近づいた。



 高科美玖。


 足音が聞こえた瞬間、篠崎の顔から血の気が引く。

 五分が“潰される”と体が先に理解した。


 真砂が一瞬、伊達を見る。

 伊達がほんの少し首を振る。今は押すな、という合図。


 高科が角を曲がって現れる。笑っている。優しい顔で。


「篠崎さん。……あら」


 視線が真砂と伊達に移る。

 優しいまま、距離が詰まる。


「“五分”ですね」


 篠崎が固まる。

 真砂は声色を変えない。


「確認です。昨日の件で、不安が大きいので」


「不安、分かります」


 高科は頷く。頷き方が丁寧すぎる。


「だからこそ、手順を守ってください。

 主任は、今は主任の仕事を」


 篠崎の肩がわずかに落ちた。

 “戻れ”の命令だ。


 伊達が一言だけ刺す。


「星野さんはどこですか」


 高科の笑みが、ほんの一瞬だけ薄くなる。

 すぐ戻る。


「体調不良です。休ませています」


「どこで」


 伊達が重ねる。


 高科は返さず、篠崎へ視線を戻した。


「篠崎さん。医務室、片付け。お願いします」


 篠崎は頷くしかない。

 五分は始まったのに、終わらされた。


 真砂は引かない。引かない代わりに、約束だけ残す声で言った。


「主任。……分かりました。今は引きます。

 でも、次に“話せる瞬間”ができたら、逃げないでください。

 ――明日でも、その次でもいい。五分でいい」


 高科が優しく言う。


「落ち着きましょう。手順の中で」


 “落ち着く”が、封じる言葉に聞こえた。


 篠崎は視線を落としたまま戻っていった。

 真砂と伊達は追わない。

 追えば、手順が増える。



 消灯。

 廊下の巡回が増えている。足音が規則的で、止まる時間が長い。


 湧は布団の中で目を開けたまま、天井を見ていた。

 昼の五分が頭から離れない。

 始まったのに、始めさせてもらえなかった。


 壁の向こうから梨々香の声。


「……湧くん、起きてる?」


 湧は小さく返す。


「……うん」


「……麻衣さんのこと、やっぱり怖い」


 湧も怖い。

 でも強い言葉が出ない。


「……俺も。あの二人、聞いてくれてた……でも……」


「潰されたね」


 梨々香の声が震える。


 湧は弱いまま絞る。


「……もし、しんどかったら……呼んで。俺も……呼ぶから」


 梨々香が泣きそうに笑う。


「……うん。約束」


 足音が近づく。

 二人は黙る。

 黙ることが、新しい手順になっていく。


 消毒液の匂いが、ふっと濃くなった。

 昨夜の匂いほどではないのに、十分に嫌だ。



 深夜。

 篠崎は記録室前の廊下で立ち止まり、白衣のポケットから錠剤シートを出した。

 水がないのに飲む。喉がひくつく。それでも飲む。


 背後から、軽い足音。


 高科美玖。


「篠崎さん」


 声は柔らかい。柔らかいからこそ怖い。


「さっき、真砂さんが“次に話せる瞬間を”って言ってましたね。

 ……約束、しました?」


 篠崎は言葉が出ない。

 出したら終わる。


 高科は微笑む。


「手順を回す人が、手順以外の時間を持つとね。

 余計なものが増えるんです」


 篠崎の指先が白衣の裾を握り、捻れる。

 震えが止まらない。


 高科は優しい声に戻す。


「明日も、お願いしますね」


 足音が去る。

 篠崎は一人になって息を吐いた。吐いた息が震える。


 今日の五分が“終わった”わけじゃない。

 潰された。だから、次はもっと危険になる。


 湧はそれを知らない。

 梨々香も知らない。


 ただ、空席のままの名前――星野麻衣が、

 今日のうちに一度も呼ばれなかった事実だけが、腹の底に沈んでいる。


 沈んだまま、重くなる。

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