第38章 —脱落者—
三週目の終わりが見えてきた朝。
湧は洗面所の鏡の前で、シャツの裾を指でつまんだ。
腹まわりが張っていない。
布が肌から離れて、たゆむ。
鏡の中の顔も、知らない顔をしていた。
頬が削れて、顎の線が出ている。
目の下の影は薄くなったのに、目だけが妙に強い。
太っていることで笑われ続けた自分なら、喜ぶはずだった。
なのに、喉に引っかかるものがある。
(俺、何をして、こうなった?)
努力の記憶が追いつかない変化は、嬉しさより先に怖い。
洗面所を出ると、廊下の角で梨々香と鉢合わせた。
湧は一瞬、息を止めた。
梨々香の首が細い。鎖骨がうっすら浮く。
頬の丸みが引いて、目元の澄みが増している。
肌は白く、光を含むみたいに滑らかで――痩せたことで“綺麗”が隠せなくなっていた。
綺麗だと思った。
思った自分が怖くて、湧は視線を逸らし、すぐ戻した。
「……おはよう」
梨々香の声が前より柔らかい。
「おはよう……」
梨々香が腰のあたりを指でつまむ。
「ズボン、落ちてくる。……ね、変だよね。嬉しいはずなのに」
湧は頷いた。
「俺も……服、余ってる」
梨々香は湧を見て、少し迷ってから言った。
「湧くんも、変わってる。……前より、ずっと」
湧の胸の奥が熱くなった。
怖いのに、その言葉が体温を戻してくれる。
測定室。
金属板の冷えが、もう“儀式”みたいになっている。
体重そのものは渡されない。
紙片にあるのは、差分だけ。
湧の紙片。
「−0.9」
梨々香の紙片。
「−0.6」
数字だけが淡々と積み上がる。
積み上がるほど、ここでは「痩せること」が当たり前にされていく。
列の後ろに、真砂と伊達がいた。
二人とも表情は動かない。
ただ、視線がまっすぐで、周囲をよく見ている――そんな“感じ”がした。
湧にはそれ以上のことは分からない。
分からないまま、なぜか少しだけ安心してしまう自分がいる。
廊下へ出た瞬間、消毒液の匂いが濃くなったのが分かった。
昨日より明らかに強い。
その強さが、嫌な予感を連れてくる。
ラウンジ。
麻衣の席が空いている。
御影の席も空いている。
空席が二つになると、空気が先に固まる。
誰も「いない理由」を言わない。
言った瞬間、現実が確定してしまうから。
篠崎が入ってきた。
主任としての表情を貼り付けているのに、顔色が白い。
湧は声をかけたい衝動に駆られた。
御影のこと。麻衣のこと。昨夜の物音のこと。
でも、面談室の刷り込みが先に動く。
(触れたら、手順が増える)
湧は結局、梨々香の方を見た。
梨々香の指先が震えている。
湧はそっと、梨々香の手に触れた。
握るほど強くはない。
ただ“ここにいる”と伝える程度の弱い接触。
梨々香が小さく息を吐く。
「……湧くん、ありがとう」
その一言が、湧にとっては救いだった。
昼の服用確認。
二錠。口腔確認。白い粉。
胃粘膜保護剤を飲んでも、胃は焼ける。
湧は顔に出さないように耐えた。梨々香も眉を寄せる。
粉のあと、水を飲んでも気持ち悪さが残る。
守るはずの薬が守ってくれない――その矛盾が、じわじわ怖い。
梨々香が小さく言った。
「私……昨日、鏡見て……怖くなった。
綺麗になったって、思っちゃったから」
湧は頷いた。
「分かる。……俺も、怖い」
梨々香が湧を見る。目が揺れている。
「でも……湧くんが怖いって言ってくれると、私だけじゃないって思える」
湧は喉の奥で息を整えた。
言葉にすると、崩れそうだった。
「……一緒に耐えよう。
怖いけど……一人じゃ無理だから」
梨々香は迷って、それでも頷いた。
その頷きが、二人の間の信頼を一段だけ前へ押した。
消灯後。
廊下の奥が急に“忙しく”なった。
小走りの足音が増える。
それも、静かにしようとしている足音だ。
忍んでいるのに、急いでいる――矛盾した気配。
湧は布団の中で目を開けた。
覗き穴へ寄りたい衝動が喉まで上がる。だが寄らない。
寄ったら、見える。見えたら、戻れない。
最初に聞こえたのは、御影の声だった。
「……やめろ! やめろって言ってんだろ!!」
かすれていない。
普段ラウンジで小さく縮んでいた男の声じゃない。
喉を裂いてでも逃げようとする声。
次に、何かが壁を叩く音。
ドン、ドン、ドン!
「助けてくれ!! 誰か――っ!」
声が跳ね上がる。
直後に吐く音。水じゃない。粘る音。詰まる音。
床に落ちる鈍い音が続く。
「腹が……っ、腹が、――っ!」
言い切れない。
喉が潰れるような叫びが混じり、息が変な音になる。
その瞬間、篠崎の声が重なった。
焦りを必死に押し殺した、主任の声。
「廊下、電気落として。
覗き穴、全部塞いで。布! 早く!
他の部屋に悟られないように、声を抑えて!」
返事が重なる。
「はい!」
「布持ってきます!」
「遮蔽、立てます!」
「清掃準備――!」
足音が走る。
どこかで布が広がる音。
壁の向こうの扉が短く軋み、覗き穴の前に何かが当てられる気配。
御影は止まらない。
「やだ! いやだ!!
出るな! 出るなって――!!」
叫びの途中、布が裂けるような短い音がした。
ビリッ。
次に、ぴちゃ、ぴちゃ、と液体が跳ねる音が連続する。
飛んだ。床だけじゃない。壁にも。
匂いが遅れて来た。
消毒液――だけじゃない。
鉄の匂い。生ぬるい鉄。
その奥に、甘く腐りかけた匂いが混じる。
看護師の誰かが短くえずいた。
「……っ、だめ、吸っちゃ――」
「吸わない。下がって。見ないで」
篠崎が言う。
“見ないで”が命令として鋭い。
そこへ白鷺の声が重なった。
優しすぎて、逆に怖い声。
「大丈夫。落ち着いて。
……“出たもの”は捨てないで。全部、残して」
“出たもの”。
その言葉が、湧の背中に氷を滑らせた。
医療の言葉に聞こえない。
次の瞬間、御影の声が裂けた。
「ぎゃあああああああ!!」
叫びが喉の奥で潰れる。
潰れたあと、泡が弾けるみたいな短い気泡音が続く。
息じゃない音。声じゃない音。
何か硬いものが床を叩いた。
湿っているのに芯がある、嫌な音。
それが二度、三度。
それから――唐突に、音が減った。
御影の声が消えた。
残ったのは、拭く音と、袋の擦れる音と、抑えた指示。
「袋、二重」
「廊下に出すな」
「時間、記録」
「裏動線で」
篠崎が低く言う。
「台車、音立てないで。……起こしたくない」
台車の車輪が鳴った。
きぃ……。
通り過ぎる途中、ぴちゃ、と小さな音が落ちた。
すぐに拭き取る布の音が続く。
やがて慌ただしさが遠ざかり、
残ったのは消毒液の匂いだけだった。
壁の向こうから、梨々香の声が掠れて届いた。
「……湧くん、今の……」
湧は息を殺したまま答えた。声が、情けないくらい小さい。
「……うん……聞こえた……」
「……怖い……」
湧は言葉を探して、やっと絞った。
「……大丈夫……じゃ、ないけど……
でも……ここに、いる……」
強がれない。
それでも言わないと、二人とも崩れる気がした。
翌朝。
廊下の奥は、消毒液の匂いが昨夜のまま濃かった。
御影の部屋の前には紙が増えている。
「立入禁止」
「清掃中」
床の隅に、乾きかけた赤い点が一つ残っていた。
慌てて拭いたのに、消し切れなかった点。
ラウンジには空席が二つ。
麻衣と、御影。
篠崎が入ってくる。
白い顔のまま、主任の表情を貼り付けている。
その直後、モニターが点いた。
南雲の顔。画面の隅に、小さな日付と時刻。
――日付は“今日”に更新されている。
だから余計に気持ち悪い。
“今日の映像”を用意できるのに、“今この場”には来ない。
南雲の声は一方通行で流れた。
『皆さんの安全のため、運用を一部変更します。
昨夜、御影卓さんは医療対応中に……継続が困難となりました。
以後、同様の事態を防ぐため、申告と確認を徹底してください』
継続が困難。
言葉が喉に引っかかったまま落ちない。
意味が掴めないふりをしているのか、掴みたくないのか。
(……継続? 何の?
医療対応の継続? それとも……)
湧は“最悪”を口にできなかった。
口にした瞬間、確定してしまう気がしたから。
短い電子音。画面が黒くなる。
静けさが落ちた。
梨々香の指が湧の袖を掴む。震えている。
「……御影さん、どういうこと……?
“継続”って……まさか……」
梨々香の声がそこで止まる。
言い切った瞬間に現実になるのが怖い。
湧も怖い。
怖いのに、聞きたい。
「……主任さん。
御影さん、今どこにいるんですか。……会えますか」
篠崎の目が揺れた。
揺れたまま、視線を落とす。
「……個別の状態については、お話しできません」
その言い方が、答えを避けているぶんだけ恐ろしい。
ここで真砂が前に出た。
声は荒げない。けれど逃がさない声。
「主任。だったら“手順”で説明してください。
立入禁止、清掃中、運用変更。
昨夜、どの手順が走ったんです」
伊達も一歩だけ真砂の隣へ寄る。
普段より言葉が多い。声は低い。
「私たちが知りたいのは医療情報じゃない。
ここで“何が起き得るのか”です」
篠崎の喉が動く。
言葉が出そうで、出ない。
「……皆さん、落ち着いてください。
強い口調になると、手順が増えます」
その“増える”が、脅しじゃなく現実の罰として響いた。
真砂は引かない。
ただ、釘を刺す。
「増えるなら増えるでいい。
でも、これ以上“分からないまま”は無理だ。
――主任、あなたが現場の口でしょう」
篠崎の指先が、わずかに震えた。
震えを隠すように白衣の裾を握りしめる。
湧はその仕草を見て、初めて思った。
(主任が動揺してる?)
梨々香が湧の袖を強く掴む。
「……湧くん、行かないで」
湧はその温度に縫い止められた。
強くなりたいのに、まだ強くない。
「……うん……行かない……」
湧は梨々香の手を包むように握り返す。
「……一人に、しない……と思う……
ごめん……上手く言えないけど……」
梨々香は泣かずに頷いた。
怖さの中で、ほんの少しだけ自信の芽が残る。
そして湧は、確証のないまま思う。
“継続が困難”。
もしそれが最悪の意味なら――
昨夜の音と匂いは、もう「体調不良」では説明できない。
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