第25章 —足りない—
朝の測定は、いつものように淡々としていた。
体重計。
紙片。
数字。
それだけで、全員の一日が始まる。
――ここへ来てから、二週間を少し過ぎた。
そう思った瞬間、湧は胸の奥がきゅっと縮んだ。
まだ半分にも届かない。そう言い聞かせたいのに、体感だけが先に「長い」と結論を出してしまう。
麻衣が紙片を見て、小さく笑った。
「……すごいね。ほんと」
笑い声は軽い。
でも、目が動かない。数字に縫い付けられたまま。
梨々香は紙を胸の前で握り、息を吐いた。
「……また減ってる」
「うん」
湧も頷いた。
減る。減る。減る。
望んだはずの変化が、いつの間にか“当たり前”になっていくのが怖い。
御影は紙片を受け取っても、すぐには見なかった。
握ったまま、ポケットに押し込む。
「御影さん、今日……」
湧が声を掛けると、御影は笑ってみせた。
「大丈夫。たぶん」
また、その言葉。
そこへ篠崎真弓の声が重なる。
「“たぶん”が続くときは、申告のタイミングです。無理はしないでください」
穏やかな声。
穏やかなまま、逃げ道だけを静かに塞ぐ声。
御影は「はい」とだけ返し、視線を落とした。
昼食。
湧は箸を動かしながら、ずっと同じ感覚を抱えていた。
食べているのに、足りない。
胃は満ちる。
味も分かる。
なのに、体の芯が満たされない。
梨々香も箸を止めて、スープを見つめていた。
「……最近ずっと、何かが足りないです」
声が小さい。
言葉にした瞬間、形になってしまうから。
「分かります」
湧は短く返した。これ以上言うと、自分も崩れそうだった。
麻衣が、乾いた笑いをこぼす。
「足りないって言いながら、数字は落ちていく。ね。変だよ」
変。
その一言に、全員がうっすら頷いてしまうのが怖かった。
御影が、ぽつりと口を開いた。
「……昨日、吐いた」
空気が止まる。
御影は続ける。
「言えばいいのは分かってる。申告すればいい。
でも言ったら、点滴増える。採血増える。
……管理が増える」
“管理”。
その単語がここまでくると、もう冗談の皮を被れない。
梨々香が息を呑んだ。
「……御影さん、申告したほうが……」
「したら終わんない」
御影の返しは早かった。
「不安定って扱いになったら、“終わらせる”より“安定させる”が優先になるだろ。
そういう顔してるじゃん、あの主任」
湧は反射的に否定しかけて、止めた。
篠崎の目が浮かんだからだ。
優しい声で、淡々と判断する。
判断したことを“あなたのため”で包む。
その包み紙が、息苦しい。
「……俺、疲れた」
御影は言った。
「苦いの飲んで、口の中見られて、血抜かれて、点滴されて。
それで軽くなるの、嬉しいって思わなきゃいけない感じがして」
誰も否定できない。
否定できないのに、受け入れたくもない。
夕方、運動プログラムのあと。
更衣室の前で、御影が足を止めた。
深呼吸をして、湧を見た。
「……加藤くん」
「はい」
「悪いことしたいわけじゃないんだ」
湧の背中が冷える。
「ただ……嫌なんだ。毎日あれを飲むのが」
嫌。
正義じゃない。
でも、一番強い。
「一回くらい……抜いても平気なんじゃないかって、思っちゃう」
湧は息を呑んだ。
御影は言葉を重ねる。
「だって、俺ちゃんとしてる。
運動もしてる。数字も落ちてる。
なのに、苦いの飲む理由だけが、どんどん分かんなくなる」
湧は迷って、迷ったまま言った。
「……やめたほうがいいです」
御影は苦笑した。
「そうだよな。分かってる」
分かってるのに、芽は育つ。
育つ芽ほど怖いものはない。
「まだやらない」
御影は言って、笑う。
「……まだ」
その“まだ”が、時間の爆弾みたいに聞こえた。
夜。空き部屋。
亮介は短い言葉で記録を積み上げていた。
桜子が横で見守る。
――御影:嘔吐。申告なし。服用抵抗の芽。
――星野:継続拒否の空気。
――主任:篠崎 真弓。鍵と記録の中心。
「主任の名前、残すんですね」
桜子が低く言う。
「残す」
亮介は即答した。
「こういうのは、外が動くとき“人名”が要る。
施設じゃなく、役職じゃなく、名前だ」
亮介はペン型の録音機を取り出し、短く録る。
「――記録。主任看護師:篠崎真弓。
被験者の不満が“味”から“継続拒否”へ移行。
嘔吐者あり。申告なし。
締め付けが逸脱を生む可能性」
止める。
桜子は息を吐いた。
「割れそうですね」
「割れる」
亮介は淡々と言った。
「割れた後に拾うと遅い。割れる前に拾う」
彼の言葉は冷たいわけじゃない。
冷たくならないと、ここでは動けないだけだ。
夕食後。服用の時間。
白いボトルが並ぶ。
篠崎が立ち、看護師が見回る。
「二錠です。水も規定量で」
湧はいつも通り飲んだ。
苦味が喉に貼り付く。胃がきしむ。
梨々香も目を閉じて飲み下し、小さく顔をしかめる。
それが“我慢の合図”みたいになってきたのが嫌だった。
御影の番で、手が止まる。
二錠が掌に乗っているのに、口に運ばない。
「御影さん」
篠崎が名を呼ぶ。
声は優しい。優しいまま、逃がさない声。
「飲めますか」
「……飲めます」
御影は笑って二錠を口に入れ、水で流し込んだ。
喉が動く。
篠崎は懐中電灯で口腔内を確認する。
「舌の下。頬の内側も。……はい。結構です」
御影の肩が、ほんの少し落ちた。
“通過”した安堵。
篠崎が続ける。
「御影さん、本日は点滴を少し長めにします」
御影の目が揺れた。
「……なんでですか」
「体調が不安定です」
篠崎は淡々と言う。
「申告がなくても、こちらは判断します。皆さんの安全のために」
安全。
その言葉が、湧の腹の奥を冷たくした。
安全のために、自由が減る。
安全のために、管理が増える。
そして、その“増える”を誰も止められない。
御影は笑ったまま、礼を言った。
「……ありがとうございます」
礼を言わされる形が、一番心を削る。
消灯後。
湧はベッドの上で目を開けていた。
“あと何日”と数えて落ち着くほど、
ここは単純じゃない。
時間は進む。
体は変わる。
でも、心だけが置いていかれる。
隣の部屋の物音がして、すぐ静かになった。
梨々香だろう。
眠れない夜が増えている。
湧は目を閉じた。
ここでは、正しいことをしても安心できない。
ちゃんとしていても、不安が増える。
そして不安が増えるほど、
人は“嫌だ”という感情に引っ張られる。
御影の「まだ」。
麻衣の「もう十分」。
それは計画じゃない。正義でもない。
ただ、嫌だ。
その感情が、いつか行動になる。
行動になったとき、誰が最初に壊れるのか――
湧は、それを想像しないように、息を整えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます