第24章 —飲み込めない夜—
朝の測定は、いつものように淡々としていた。
体重計。紙片。数字。
それだけで、全員の一日が始まる。
御影は紙を受け取った瞬間だけ、目を見開いた。
そしてすぐ、笑うのをやめた。
「……減ってる」
呟きは喜びより先に、疲れのほうへ落ちていく。
「御影さん、すごいですね」
湧が言うと、御影は肩をすくめた。
「すごいんだけどさ。
……すごいのに、しんどい」
言い終えると同時に、御影は喉を押さえた。
咳ではない。こらえる動き。
篠崎真弓が、横から淡々と声を掛ける。
「御影さん、気分不良が続くようなら申告してください。
点滴時間の調整もできます」
「……はい」
御影は返事をしたが、目が泳いだ。
“申告”が助けじゃなく、記録になる場所。
それを彼はもう肌で知っている。
廊下へ出た瞬間、御影は歩幅を乱さないまま、トイレのほうへ向かった。
無理に普通を装った動き。
湧は追いかけない。
追いかけたら、御影の“普通”を壊してしまう気がした。
昼過ぎ。
休憩時間の廊下で、湧はふと、個室棟のほうから小さな音を聞いた。
――水を流す音。
――それから、喉の奥がひくつくような音。
聞きたくないのに、耳が拾ってしまう。
湧は足を止め、壁に手をついた。
(……御影さんだ)
確信に近い。
音が“誰か”のものだと分かる時点で、もう嫌だった。
しばらくして、足音が近づく。
御影が出てきた。
顔色が薄い。
目尻が赤い。
でも、笑う。
「……あー、さっぱりした」
嘘だ。
「御影さん」
湧が名前を呼ぶと、御影は笑ったまま言う。
「大丈夫だって。
ちょっと、水が合わなかっただけ」
水が合わない。
そんな言い訳が出てくるくらい、本人も自分の言葉に困っている。
御影は湧の横をすり抜けていく。
その背中が、昨日より少しだけ小さく見えた。
ラウンジ。
麻衣はソファに座り、膝を抱えるようにしていた。
化粧も髪も整っているのに、目だけが落ち着かない。
「御影さん、今日やばくない?」
麻衣が小声で言う。
「……さっき、トイレで」
言いかけて、そこで止める。
“見た”のではなく“聞いた”だけでも、言葉にすると重くなるから。
湧は「うん」とだけ返した。
梨々香が、紙コップを握りしめたまま呟く。
「……私たち、変わりすぎてませんか」
麻衣が苦笑する。
「変わりたいって言ったのはこっちだけどね」
「そうじゃなくて」
梨々香は言葉を探し、視線を落とした。
「変わる速度が、私たちの心より先に行ってる感じがして」
湧は黙って頷いた。
彼自身、鏡を見るたびに置いていかれる。
麻衣が、軽口の形で言う。
「ねえ、加藤くん。
これ、もしさ……“一回くらい”抜いたらどうなると思う?」
空気が止まる。
湧は答えられない。
答えた瞬間に、質問が“計画”になる気がした。
麻衣は笑って、すぐに笑えなくなる。
「……冗談。冗談だけど」
冗談の形でしか言えない本音が、ここには増えている。
梨々香が小さく首を振った。
「抜いたら……だめだと思います」
「なんで?」
麻衣の声が少し尖る。
「だって、これだけ変わってるのに、
“何もない”って信じるほうが無理じゃない?」
梨々香の指先が紙コップを強く押さえる。
湧は、梨々香の肩がわずかに震えるのを見た。
そのとき、篠崎がラウンジに入ってきた。
音もなく空気が締まる。
「皆さん、次の健康チェックです。医務室へ」
麻衣は口を閉じた。
閉じさせられた、という感じで。
空き部屋。
亮介は、短い言葉で記録を積み上げていた。
ボールペン型の録音機は使わない。
今はまだ、紙のほうが安全だ。
――御影:体調不良。嘔気の可能性。申告なし。
――服用確認:口腔内。運用強化。
――被験者の不満:苦味・継続への抵抗。
「申告しないの、増えてますね」
桜子が言う。
「増えてる。申告した瞬間に“管理が増える”って分かってるからだ」
亮介は淡々と言う。
「つまり、症状は水面下に溜まる。
溜まったら、どこかでまとめて割れる」
「……割れたときに、主任が忙しくなる」
桜子が言うと、亮介は短く頷いた。
「そのときが拾いどきだ」
“拾いどき”。
それは、誰かの不幸の上に成立する言葉だ。
桜子は一瞬、口を開きかけて、閉じた。
彼女も同じことを思ったのだろう。
亮介は続ける。
「篠崎は“運用で締める”タイプだ。
だが締めれば締めるほど、人は裏で抜こうとする」
桜子が低い声で言う。
「……抜く人が出たら、事件になりますね」
「なる」
亮介は言い切った。
「だから今は、抜く芽が誰にあるかを見てる」
桜子の眼鏡の奥の目が動く。
「星野さん?」
「可能性はある。
御影もある。
ただ、御影は“弱ってる”側だ」
亮介は紙を畳み、ポケットにしまった。
「弱ってる人間が抜いたら、早い。
だから急ぐ」
急ぐ、という言葉が、ここでは静かに不穏を連れてくる。
夕食後。
白いボトルが並ぶ。
篠崎が立ち、看護師が見回る。
「二錠です。水も規定量で」
湧はいつも通り飲み込んだ。
苦味が喉に残る。胃がきしむ。
次に梨々香。
梨々香は一度だけ目を閉じて、飲み下す。
その動作が、少しだけ祈りに見えた。
御影の番になると、手が止まった。
ほんの数秒。
それだけで空気が固くなる。
「御影さん」
篠崎が名を呼ぶ。
声は優しいのに、逃げ道がない声。
「飲めますか」
「……飲めます」
御影は笑って、二錠を口に入れた。
水で流し込む。
喉が動く。
動いたのに、顔が歪む。
「……っ」
咳き込みそうになるのを堪え、御影は俯いた。
篠崎が懐中電灯の光で口腔内を確認する。
「……結構です」
その瞬間、御影の肩が少しだけ落ちた。
“通過”した安堵。
麻衣はそれを見て、舌打ちしそうな顔をした。
そして自分の番で、乱暴に飲んだ。
飲む。確認される。通過する。
それはもう、健康のための手順ではない。
“検査”だった。
検査に合格した者だけが、その夜を許される。
湧はそんな感覚を飲み込んで、梨々香のほうを見た。
梨々香は小さく頷いた。
“今は従うしかない”という頷き。
その頷きが、湧を少しだけ救った。
消灯後。
御影はベッドの上で目を開けていた。
暗闇の中、喉がひくつく。
苦味が、戻ってきた。
胃の底から、じわじわ上がってくる。
(……もう、嫌だ)
そう思うのに、
“嫌だ”の出口がない。
申告したら、管理が増える。
抜いたら、何かが起きるかもしれない。
抜かなくても、体は勝手に変わる。
御影は布団をめくり、ゆっくり起き上がった。
足音を殺してトイレへ向かう。
水を飲む。
喉は濡れる。
でも、内側の空白は埋まらない。
吐き気が来る。
御影は便器に手をついた。
「……っ」
音を出したくない。
でも体が勝手に反応する。
吐いた。
胃液の酸っぱさが鼻に上がり、目が熱くなる。
息を整えながら、御影は思った。
(……俺、いつまで飲むんだ)
その問いが、今夜の彼の中で初めて“決意”の形に近づいた。
苦味は、ただ不快な味じゃない。
人を折るための味だ。
折れたくない。
でも、折れないためには、別の何かをしなければならない。
御影は水を流し、鏡を見なかった。
鏡の中の自分の顔が、今は一番怖かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます