第2章 — 影と影の交差 —

 翌朝、湧は重たい身体を引きずるように大学へ向かった。

 春先なのに冷たい風が吹き、空はどんよりと曇っている。


 ――うわ……今日もだるい。


 鏡を見るのも嫌だが、外を歩くのはもっと嫌だ。

 視線を感じるたびに、心が削られていく。


 しかし今日はいつも以上に胸が重かった。

 昨夜、ついに“応募”してしまったことが、頭の片隅でざわざわと蠢いていたからだ。


「変われる……かもしれない、けど」


 当然ながら不安もある。

 怪しいかもしれないし、詐欺かもしれないし、危険かもしれない。


 だが――


「……もう、笑われるのは嫌だ」


 その一言が、まるで呪いのように湧の背中を押していた。


 校門をくぐると、学生たちが楽しそうに会話している。

 湧の足取りは自然と速くなり、視線を避けるように俯いた。


「あ、加藤じゃん。今日もデカいな〜」


「お前声かけんなって、聞こえるだろ……」


 小さな声でも、湧にははっきり聞こえた。

 人は耳を塞いでも、心は塞げない。


 深く息を吸い込み、湧は人の少ない建物裏を歩きはじめた。


 ――ほんと……変わりたい。



 一方、佐伯梨々香は朝から化粧室にこもっていた。


 鏡の前で、ファンデーションを重ねていく。

 涙の跡を隠すように、丁寧に、丁寧に。


 ――泣いても変わらない。

 ――でも、泣かないと保てない。


 昨日、女子たちに言われた言葉がまだ耳に残っている。


「誰が応募すんの? 怪しいし笑えるじゃん」


「太ってる人だけに来るんでしょ?」


 笑われた瞬間の、あの羞恥。

 心臓を掴まれたような苦しさ。


 そして自分の名前が出たときの、絶望。


「……っ」


 思い出すだけで胸が熱くなり、涙がまたこぼれそうになる。

 だが、梨々香は首を振ってぐっと堪えた。


 ファンデーションで目元を整えながら、自分に言い聞かせる。


「……変わらなきゃ」


 ぽっちゃり体型が嫌いなわけじゃなかった。

 けれど、そのせいで“他人の悪意に晒され続けること”が嫌だったのだ。


 スマホを見ると、昨夜応募した臨床試験のメールが表示されたままになっている。


 ――あの決断、間違ってないよね……?


 心の底にはまだ不安が渦巻いていた。

 詐欺かもしれない。怖いかもしれない。


 でも。


「……変わりたい……」


 気づけば、鏡の中の自分に向かって呟いていた。



 この日の2限目、湧は教室の最後尾の席に座った。

 できるだけ端、できるだけ壁に近い位置。


 教室全体を見渡せるが、誰からも視線が届きにくい“安全地帯”。


 教授が入ってくると、静かに講義が始まった。


 そのとき――

 湧の斜め前方に座っていた女子が、ちらりと後ろを向いた。


 佐伯梨々香だった。


 目が合いそうになり、梨々香は慌てて前を向いた。

 耳まで赤くなっているのが分かる。


 湧はその様子に気づいたものの、「自分が見られるわけない」とすぐに視線を外した。


 ――なんでこっち向いたんだ?


 ほんの少しだけ胸がざわついた。

 気のせいだと分かっていても、自分が“誰かの視界に入った”ということ自体が珍しかったからだ。


 講義中、梨々香は何度か後ろの湧を見た。

 だが、湧は一度も気づいていない。


 ――どうして私は……この人のことが気になるんだろう。


 答えは分かっていた。

 自分と似た傷を抱える人だと知っていたから。


 ただ、その感情を口にするのが怖かった。

 もし自分の“好意”が彼にとって重荷になったらどうしよう。


 そんな思いが、梨々香をいつも押しとどめていた。



 昼休みになると、湧は学食の隅でそっと席を取った。

 人目が少ない、壁際の席。


 トレーには唐揚げ定食。

 高カロリーなのは分かっている、それでもほとんど“習慣”で選んでしまう。


 食べ始めようとしたところで、近くの席から声が聞こえた。


「ねぇ、聞いた? 佐伯さん、昨日泣いてたらしいよ」


「マジ? あの子も太ってるし……ほら、例のメール来てたでしょ」


「え、じゃあ応募すんの? あれに?」


「さぁ? でも必死なんじゃない?」


「……かわいそ……いや、別に〜」


 湧は箸を握る手を止めた。


 佐伯梨々香――昨日、泣いていたあの子の話だ。

 胸がチクリと痛む。


 ――あぁ……分かるよ、その感じ。


 自分が笑われていた頃と全く同じ空気。

 他人の声が針のように刺さり、存在価値を根こそぎ奪われる感覚。


 湧は深く俯いた。


 絡む視線。

 見えない悪意。

 広がる無神経な言葉。


「……っ」


 胸の奥で、何かが音を立てて崩れる。


 ――もう嫌だ。

 ――もう、こんな生活は嫌だ。


 気づけば、スマホを取り出していた。

 昼食を前に、画面に映し出されたのは、臨床試験のメール。


『応募受付完了

 近日中にオリエンテーション会場のご案内をお送りします』


「……来る、よな。通知が」


 胸の奥で重さと期待が混ざり合った。



 一方の梨々香は、友達と一緒にランチをしていたが、ほぼ会話に入れていなかった。

 スマホを気にする仕草が増え、食欲もあまりない。


「梨々香、なんか元気ないね? 大丈夫?」


「……うん。ちょっと寝不足かな」


 曖昧に笑って誤魔化す。


 友達は優しい。

 でも優しい言葉が、逆に胸に重く響くこともあった。


 ――私は、私のままじゃダメなんだ。


 その思いが、涙を呼び出しそうになる。

 ぐっと堪えて、スマホを握った。


 そこには、受信設定済みの臨床試験メール。


『参加者確認中です。

 あなたのような方を歓迎します』


 まるで“あなたの不安を理解します”とでも言いたげなその文面に、心が揺れた。


「……私は、変わりたい」


 梨々香は心の中で強く呟いた。



 その日の夜。


 湧はベッドに寝転び、スマホを握って時間が過ぎるのを待っていた。

 通知はまだ来ない。

 だが、胸の奥は落ち着かない。


 いつの間にか眠りに落ち、

 夢の中で“細くなった自分”が誰かと笑っていた。


 ――変われるなら。


 その夢が、少しだけ彼を救った。


 


 同じ夜。

 梨々香もまた、スマホの画面を見つめていた。


 通知は来ない。

 けれど、胸がずっとざわざわしていた。


 ふと思い浮かんだのは、湧の姿。


 ――あの人も、きっと辛いよね。

 ――同じなんだ、私と。


 知らない相手なのに、なぜか胸が痛んだ。


 スマホを胸に当て、そっと目を閉じる。


「……変わりたい。

 ちゃんと、笑える私になりたい……」



 同時刻――


 白鷺冴は、薄暗い研究室で画面を見つめていた。

 顔を照らす青白い光が、怪物のように美しい輪郭を浮かび上がらせる。


「ふふ……順調ね。追加の応募者が増えているわ」


 高科美玖(たかしな みく)が後ろから静かに近づき、報告書を差し出す。


「今回の被験者は、皆“単独で行動しがちなタイプ”が多いですね」


「当然でしょう」

 冴は微笑した。

「孤独な者ほど“救いの言葉”に弱い。

 追い詰められた心は、簡単に手を伸ばしてくれる」


「ええ……そして、簡単に壊れる」


 美玖の声は甘く、冷たい。


「冴様、準備は万全です」

「ええ。そろそろ“選別”が必要ね」


 冴の指が画面を滑る。

 映し出されたのは――


 “加藤湧”

 “佐伯梨々香”


 そして数名の候補者。


「さあ、美玖。

 新たな“素材”が揃ったわ」


 廃病院の外では、黒い影が風に揺れた。

 月は雲に隠れ、世界は静かに、地獄へと進んでいく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る