蠢く理想

誉嗣

第1章 — 静かな崩壊 —


加藤湧(かとう ゆう)が自分の腹をつまんだのは、朝シャワーを浴びながら鏡越しだった。

 濡れた髪から滴る水が胸を流れ、たぷん、と腹の肉に当たって跳ね返る。


 ――……今日も、ひどいな。


 鏡の中の自分は、まるで別人だった。

 大学一年の頃はまだ「ちょっと太っている」程度だった。

 だが、三年になる頃には完全に“肥満体”と呼べる領域に突入していた。


 身長 175センチ。

 体重 97キロ。


 数値だけ見ればギリギリ二桁。

 それでも鏡を見れば嫌でも分かる。


 ――もう、隠すことなんてできない。


 肩幅は痩せ型なのに、腹だけが異様に膨らみ、

 横から見れば球体のように丸く見えた。

 二十を越えた男の“肉付き”としては明らかに不自然、というレベルの太り方だ。


 ため息を吐き、湧は鏡の前から目をそらした。

 両親を失った幼少期、慰めるように祖母が作ってくれた大盛りの料理。

 家計が苦しくても必死に食べさせてくれた祖母と祖父の温かさは忘れられない。

 その記憶が、美味しさと結びついていた。


 気付けば、食べることで自分を保っていた。


 ――分かってる。逃げてるだけなんだ。


 今日だって、講義に行くのが憂鬱だった。

 特に、同じ学科の男子たちがいる講義は地獄だ。

 「デブ」「豚」「汗臭そう」――影で聞こえるその囁きは、もはや日常のBGMだった。


 深呼吸しながらシャワーを止め、湧はタオルで体を拭いた。

 スマホが震え、メールの通知が表示される。


 ――“【新規臨床試験被験者募集】短期間で理想体型へ”


「またかよ……」


 最近、こういうのが妙に多い。

 太っている人だけに送られているのか、迷惑メールなのか。

 湧は軽くため息をついて画面を閉じた。


 ――もちろん、応募なんかしない。


 だって、どう見ても胡散臭かったからだ。


 しかし、この“怪しいメール”が、彼の運命を決定的に変えることになるとは、

 この時の湧はまだ知らなかった。


 大学へ向かう道、湧は極力人と目を合わせないよう歩いた。

 通り過ぎる学生の視線が、自分の体型に刺さるようで苦しかった。


 キャンパスに入ると、明るい声が聞こえてくる。


「え、聞いた? あの“臨床試験”のメール!」


「聞いた聞いた! あれ、誰が応募すんの? 完全に怪しいじゃん」


「てかさ、太ってる人にしか届かないんでしょ? うち来てないしー」


「うわ、それ本気でかわいそうじゃない? “あなた太ってます”って公式に言われてるみたい!」


「でさ、佐伯さんも来たんじゃない?」


 ――佐伯?


 その名前に、湧は少しだけ反応した。

 同じ学科の女子。

 クラスでも比較的地味で、けれど雰囲気は柔らかい。

 湧は特に意識したことはなかったが、“まぁ見たことはある”という程度の存在だった。


 女子達が、高めのヒールをコツコツ鳴らしながら笑っていく。

 声がひどく耳に残った。


「まさか応募しないよね? あはは! 冗談だって!」


 ――冗談、じゃないだろ。


 彼女達の口調には、

 “太っている人間を笑うのが当然”

 という悪意が隠されてもいなかった。


 その時、視界の端に佐伯梨々香(さえき りりか)の姿が見えた。


 梨々香は、瞬間的に立ちすくんでいた。

 彼女の手は震え、目は見開かれ、頬がみるみる赤くなり――

 すぐに伏せられたまつ毛の先から、ぽたり、と涙が落ちた。


 女子達は気付かないふりで去っていく。


 ――ああ、これが、日常なんだ。


 湧は胸の奥をぎゅっと掴まれる感覚がした。

 梨々香の泣き顔に、自分の過去が重なったからだ。


 けれど、声は掛けなかった。


 “同情されたくないだろう”

 “自分が声を掛けたところで、何にもならない”


 そう言い訳をしながら、湧は自分の弱さにまたうんざりした。


 講義が終わると、湧は人の少ないベンチに座っていた。

 スマホの画面には、朝来た臨床試験のメールが開いている。


「……参加した方がいいのか?」


 そんなこと、考えたくなかった。


 だが今日の出来事は、湧の心を大きく揺らしていた。


 ――“誰が応募するの? 怪しすぎて笑えるんだけど”


 女子達の言葉が何度も頭を回る。


 自分を変えたい。

 でも、変える勇気がなかった。


 「怪しい」

 「危険かもしれない」

 「詐欺かもしれない」


 分かっている。

 それでも――


「……俺は、変わりたいんだよ」


 ひどく小さな声だった。

 誰にも聞こえない程度の呟き。


 本当は、昔から願っていたのだ。


 いじめられず、

 後ろ指をさされず、

 普通に笑って、生きたい。


 そのために、何かにすがりたかった。


 湧はメールの「応募フォームへ」を押しかけて――

 指を止めた。


「……いや、まだだ。ちょっと考えよう」


 すぐに応募しなかった。

 それだけ、恐怖が勝っていた。


 

 一方その頃――

 佐伯梨々香は、女子トイレの片隅で泣いていた。


 声を殺し、手で口を押さえて。

 肩が震え、涙が止まらない。


 ――どうして、私はこんな体なんだろう。


 60キロ。

 決して異常な肥満ではない。

 むしろ、ぽっちゃり体型程度だ。


 でも、彼女の心は壊れかけていた。


 中学、高校でも似たような仕打ちを受けてきた。

 「デブ」「太ってるよね?」の言葉は、刃物より鋭い。


 だからこそ、大学では少しでも綺麗になろうと努力してきた。

 でも体質なのか、ストレスなのか、なぜか痩せない。


 ――変わりたい。


 その思いは湧よりも強かった。


 鞄からスマホを取り出すと、朝のメールを開く。


“【新規臨床試験参加者募集】

 短期間で理想体型に近づきたいあなたへ”


「……怪しいよね、普通なら」


 分かっている。

 それでも気持ちが揺れた。


 なぜなら、梨々香は“湧の過去”をすでに知っていたからだ。

 同じゼミの友達が、“彼氏が湧と同じ小中高だった”という話をよくしていた。


 ――似たような苦しみを経験してきた人がいるんだ。


 知ったとき、梨々香は胸が痛んだ。

 それから、自然と湧に目が向くようになった。

 彼が泣いていたら、きっと自分も泣いてしまう。


「……私も、変わりたい」


 そう呟き、

 震える指で「応募」を押し――――

 押しかけて、手を止めた。


「……ううん、まだ。

 まだ……ちょっとだけ考える」


 湧と同じ。

 応募する勇気はなかった。


 だけど、確実に心は動いていた。


 

 その日の夜。


 湧はベッドに寝転び、天井を見ていた。

 スマホの画面には、臨床試験のメール。


 ――“あなたを変えるチャンスです”


「変われるなら……本当に、変われるなら」


 声は震えていた。

 今日の女子たちの笑いが、まだ耳に残っていた。


「……俺は、変わりたい」


 湧は、ゆっくりと画面に指を伸ばした。


 ポチ。


 応募完了の画面が表示される。


「……やっちまったな」


 だが後悔は、ほんの少しだけだった。

 それよりも、胸の奥で小さな光が灯っていた。


 ――変われるかもしれない。



 その頃、梨々香もまた――

 同じようにベッドで携帯を握りしめていた。


「……私も、変わりたい。

 変わって……笑えるようになりたい……」


 ぽたり、と涙が落ちた。

 自分を責める涙ではなかった。

 “希望”の涙に近かった。


 震える指で、応募ボタンを押す。


「……押しちゃった……」


 胸が苦しくて、でも少しだけ軽かった。


 この選択が破滅の始まりだと知らずに。



 その夜、東京のとある廃病院跡。


 薄暗い部屋の奥で、白衣の女がモニターを見つめていた。


「二名、応募……と」


 白鷺冴(しらさぎ さえ)は、ゆっくり指を動かして画面をスクロールする。

 不気味なほど整った顔。

 若く見えるが、その瞳には年齢を重ねた者にしかない“狂気”が潜んでいた。


「ほら見なさい、美玖。

 “追い詰められた者”は、希望にすがるものよ」


 背後で控えていた高科美玖が、妖しく微笑む。


「ええ。……実に美しい心理ですね、冴様」


 冴は口角を上げた。


「これでまた、“素材”が手に入ったわ」


 廃病院の外では、夜風が不気味に吹いた。


 まだ誰も知らない。

 湧も、梨々香も、他の被験者も。


 ――この応募が、地獄への招待状であることを。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る