妻と息子と俺
花音ちゃんが出産して一週間が経った。
ついに退院ということで、俺は休みをもらって花音ちゃんと藤也を迎えに行った。
「手続きは大丈夫です。帰りましょう、藤乃さん」
「うん。チャイルドシート、つけてきたよ。泣かないといいけど」
藤也はぽやっとした顔で花音ちゃんの腕に抱かれていた。
駐車場で抱っこを代わって、藤也をチャイルドシートに乗せる。
チャイルドシートに対して藤也が小さくて、本当にそれでいいのか不安になった。
「産まれて一週間ですし、そんなもんですよ」
「そうかなあ。とにかく帰ろうか」
いつもよりかなりゆっくり運転して帰った。
藤也はぽやっとした顔で外を見ていた。
人生初の車で、人生初の外だ。それは、この赤ん坊の目にどう映っているのだろう。
家について、花音ちゃんが藤也を抱っこした。俺は荷物を抱えて先に玄関の扉を開ける。
親父がばたばた出てきた。
「おかえり、花音ちゃん。おい藤乃。藤也にはなんて言えばいいんだ。ようこそ……?」
「何だろう? ようこそでいいんじゃない?」
俺と親父のバカなやり取りに花音ちゃんは笑って、藤也を差し出した。
「お義父さん、藤也を抱っこしててもらえますか」
「えっ、いいの?」
「はい。私、手を洗ってきます。その後はリビングの藤也の寝床と、二階のベッドも確認したいです。藤乃さんは手を洗って荷物を片付けてください」
花音ちゃんはテキパキと指示を出して洗面所に行ってしまった。
「よろしく親父」
俺もその後を追って手を洗う。
今日はじいさんはお得意様のところに仕事に行ってるし、母親とばあさんで花屋に出ているから家のことは親父が担当だ。
荷解きを終えて二階に上がると花音ちゃんが寝室にいた。ベビーベッドの掛ふとんをたたんでいる。
「花音ちゃん、荷解き終わったよ」
「ありがとう、藤乃くん」
「どういたしまして。お疲れさま」
腕を広げると、花音ちゃんの顔がくしゃっと歪んだ。
ヨタヨタと胸に収まったので、少し強めに抱きしめる。
「お疲れさま、花音ちゃん」
「……寂しかった」
「うん。俺も寂しかった」
肩を震わせる花音ちゃんが満足するまで抱きしめた。俺は全然物足りないけど、藤也を親父に預けっぱなしにはできないし。
「藤也の様子を見てくるから、花音ちゃんは休んでて」
「うん。泣いてたら教えて。ミルクあげるから。でも藤乃くんが迎えに来る直前に飲んでるから、たぶん大丈夫」
「わかった」
花音ちゃんはふわふわと欠伸をしてベッドに横になった。
少しだけキスして部屋を出た。
家に花音ちゃんがいるのが嬉しくて、浮かれそう。たぶんちょっと浮かれてる。
親父は結婚して三十年以上経つけれど、未だに「桐子さんが家にいるなんて、なんて幸せなんだろう」と言っていて、俺もたぶんあと三十年経っても同じことを言って藤也に呆れられるんだろう。
リビングに行くと親父がソファで藤也を抱っこしていた。
「おい、寝ちゃったんだけど、ここからどうしたらいいんだ」
親父がヒソヒソと話しかけてきた。
「そこの布団に下ろせば?」
「起きちまわねえかな」
「さあ? 起きたら、また抱っこすればいいよ」
「せっかく寝てるのにさ」
「じゃあ抱っこしてなよ」
「何をしているのよ」
うだうだ言い合ってたら母さんが帰ってきた。昼を食べに来たらしい。
「お帰りなさい、桐子さん。台所に昼飯あるよ」
「ありがとう。藤乃もお帰りなさい。花音ちゃんは?」
「疲れたからって休んでる」
「病院のベッドって硬くて寝た気しないものね。藤也は寝ちゃってるのね。ふふ、おじいちゃんの抱っこに安心したのかしら。藤乃もあなたが抱っこするとすぐ寝たものね」
母さんは笑って昼を食べに行った。
俺の昼飯もあるというから、ありがたくいただこう。
親父は母親のセリフに気を良くして、ニコニコしながら藤也を抱っこしていた。
「父親のほうが、赤ん坊はよく寝るらしいわね」
「そうなん?」
昼を食べていたら母親が言った。
「ええ。母乳の匂いがしないから。小腹が空いたときに焼き肉の匂いがしたら寝られないでしょ」
「たしかに」
「安定感もあるしね」
さっさと食べて、母親はばあさんと交代する。戻ってきたばあさんも母親と同じようなことを言った。
「藤乃も小春に抱っこされるところっと寝たし、小春もじいさんが抱っこするとすぐ寝てたわね」
ばあさんも、さっさと昼を済ませて藤也をニコニコ眺めて店に戻った。そもそもがばあさんの趣味で始めた店だから、また携われるのが楽しくて仕方ないらしい。
「しかも責任があんまりない。あー、楽しい」
ということだ。
三人分の食器を片付けたところで親父が「さすがに腕が痺れてきた」と根を上げたので、藤也を受け取って二階のベビーベッドに寝かせた。
花音ちゃんはスヤスヤと眠っている。
うーん。花音ちゃんと藤也が並んで寝ているのを見ると、胸がいっぱいになって、泣きそう。たぶんアルファ波とか出てる。
夕方、納品に来た瑞希が、家にも顔を出した。
「よーう。花音と藤也が戻ってるって聞いたから見に来た。これ、うちの親と澪から差し入れ」
「サンキュ」
受け取った紙袋には赤ん坊用のボディクリームと、花音ちゃん用らしいハンドクリーム、あとなんか高そうなタオル。
「お袋が、産後はめちゃくちゃ手荒れしたっつって。あと赤ん坊は意外と乾燥するからってさ。タオルは澪の趣味。ふわふわとかふかふかとか好きだから」
「ありがと。瑞希はガチガチとかムチムチなのにね」
「うるせえな。俺は心がふわふわなんだよ」
「へえ……知らなかった……」
「馬鹿、引くんじゃねえよ。あ、花音」
振り向いたら花音ちゃんが欠伸をしながら階段を降りてきた。
「お兄ちゃんがうるさいから目が覚めた」
「お袋と澪から差し入れ持ってきてやったんだっつうの」
「ありがとう。お兄ちゃん大好き」
「へいへい、藤也は?」
「寝てるよ。見てく?」
「寝てるならいいや。見世物でもねえしな」
「俺、瑞希のそういうところ好きだよ」
「だろ? じゃあまたな」
「ありがとね、お兄ちゃん」
瑞希を見送って、花音ちゃんは紙袋を覗き込んで歓声をあげた。ボディクリームとハンドクリームがすごくいいブランドだったらしい。
二階から、微かに声が聞こえた。
花音ちゃんの顔が、一瞬で妹から母親になる。
「はいはーい」
俺は一階で粉ミルクを用意して二階に向かった。母乳を飲みおえた藤也を、花音ちゃんが俺に差し出す。
「ミルクを上げてください、お父さん」
「うん」
藤也がぽやっと俺を見上げた。
哺乳瓶を咥えさせると見た目よりもずっと強い力で吸われる。
なんていうか、生きてるって感じ。
「たくさん飲んで食べて、大きくなって」
思わずそう言うと、花音ちゃんが微笑んだ。
「藤乃くん、すっかりお父さんですね」
「そうかな。花音ちゃんがお母さんの顔をしてたから、俺も頑張らないとって思ったんだ」
「うん。一緒に頑張ろう」
飲み終えた藤也を抱え直してゲップをさせた。
小さな手が俺にしがみついていて、泣き虫な俺はやっぱり泣きそになっていた。
たくさん飲んで食べて、大きくなって。
君が元気に大きくなるのを、俺は、俺達は楽しみにしてる。
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