第10話 最後から2番目の声
陸斗が引き籠もってから、六年後の夏。
県大会を勝ち抜いた海斗は、ついに――
兄と一緒に追いかけてきた夢の舞台、甲子園出場を決めた。
そして出発の前日。
海斗はいつもの時間、ユニフォーム姿のまま、陸斗の部屋の前に座っていた。
「兄ちゃん……
明日から、しばらく会話できないよ。」
扉を見つめながら、ぽつりと続ける。
「だって、すぐに帰ってきたら、僕たちの夢は叶わ
ないってことだから……。」
その時、静かな音を立てて、ドアが少しだけ開いた。
前に見たときよりも、太く鍛え上げられた腕。
そこから、懐かしい声が聞こえた。
「海斗。
……帽子、貸してくれないか?」
突然のことに息をのむ。
頭が真っ白になりながらも、海斗は慌てて帽子を脱ぎ、陸斗の手にそっと置いた。
陸斗はそれを受け取り、何も言わずに再びドアを閉めた。
「……え?」
あまりの展開に、思考が追いつかない。
海斗は天を仰ぎ、どうにか現実を整理しようとする。
しばらくして、再びドアが少しだけ開いた。
さっき渡した帽子と、見たことのないグローブが差し出される。
戸惑いながらもそれを受け取ると、また静かにドアが閉まった。
不思議な感覚に包まれながらグローブを見ていると、不意に帽子が手から滑り落ちた。
拾い上げた瞬間、つばの裏に書かれた文字が目に入る。
Entrust your dream
ー夢はお前に託すー
「……兄ちゃん。」
急いでグローブを見ると、そこには«魂»の刺繍。
そのとき、ドアの向こうから声が届いた。
「エントラスト ユア ドリーム……
夢はお前に託す。」
少しだけ照れたような声が続く。
「そのグローブ……俺が高校で使っていたやつなん
だ。
俺の魂……一緒に連れていってくれるか?」
希望に満ちた陸斗の声が、静かに宙を舞う。
海斗は帽子を深く被り、グローブをはめ、ゆっくりと立ち上がる。
自然と、手がドアノブへ伸びた。
そっとドアを開けた。
時間が止まった−−
そこには――
六年前と同じユニフォームを着た陸斗が立っていた。
「お前が甲子園で優勝して帰ってきたら、
皆の前に出て祝おうと思ったんだけどな。」
少しだけ照れくさそうに笑う。
「どうしても先に、お前に会いたくてな。
どうだ? 一緒に写真、撮らないか?」
海斗は涙を拭き、大きくうなずいた。
笑いながら何度もシャッターを切る弟に、
陸斗も同じように笑って応えた。
話したいことは山ほどあった。
聞きたいことも、伝えたいことも、数え切れないほどあった。
けれど今は、目の前にいる兄の温もりを確かめるだけで精一杯だった。
気がつくと、日付が変わっていた。
ソファーに座ったまま眠る海斗を見て、
陸斗はそっとスマホを手に取る。
スマホの中には、自分を超えた、勇敢な海斗の姿。
その姿を、穏やかな笑顔で切り取った。
そして、静かに、最後から三番目の声をかける。
「海斗……お父さんとお母さん……頼んだぞ。」
そう言って、眠る海斗を抱きかかえ、ベッドへ運んだ。
タオルケットをかけ、もう一度、そっと微笑む。
「海斗……大好きだぞ。おやすみ。」
それが、最後から二番目の声だった。
翌朝。
目を覚ました海斗は、ユニフォームを着ていることに気づき、
昨日の出来事が夢か現実か、頭の中で必死に整理しようとした。
充電されていたスマホを手に取り、昨日撮った写真を確認する。
そこに映っていたのは、確かに、陸斗だった。
「……夢じゃなかったんだ。」
部屋を出ると、陸斗の部屋の前で立ち止まり、小さく息を吸い込んだ。
「俺たちなら、優勝できるよね……?」
«トンッ トンッ»
大きなノックの音が、返事の代わりに聞こえた気がした。
「だよね!」
海斗は笑って続ける。
「優勝してくるからさ。絶対テレビ見てよ。
行ってきます!」
力強い言葉を部屋の前に置き、海斗は父の運転する車に乗り込み、家を後にした。
その車が見えなくなるまで、陸斗は部屋の窓から、まっすぐにその背中を見つめ続けた。
「……六年間、長かったな。」
ぽつりと、誰も居ない家にこぼす。
「これで、俺の選択が正しかったら……
次も引き籠もるか……。」
冗談のように笑ってみせる。
だが、その笑いはすぐに消えた。
「本当はもっと一緒にいたかった……
もっと野球をしたかった……
もっと……生きたかった……。」
自分で決めたとはいえ、苦しかった六年間を振り返り、
これからのことを思うと、嬉しさよりも悲しみの方が勝ってしまう。
陸斗のまつ毛を伝った涙が、ゆっくりと床に落ちた。
カーテンを握る手に力がこもり、そのまま膝から崩れ落ちる。
それでも、顔を上げた先には――
甲子園へ向かう弟の背中が、まだはっきりと焼き付いていた。
「まだ…、諦めないぞ…」
第11話へ続く
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