第四十九話 初めてのお願い

アミダが籠女かごめと出会ってから、四日が経った。


学校からの帰り道。

あの日、籠女に助けられて以来、二人は毎日連れ立って帰っている。


帰る方向が途中まで同じだった。

だから、学校が終わると校門前で待ち合わせる。


それが、いつの間にか当たり前になっていた。


「ホンマさぁ」


籠女は歩きながら、隣のアミダの横顔を遠慮なく眺める。


「なんでウチ、こんな顔面国宝に気づかんと、毎日学校通っとったんやろなぁ」


突然の言葉に、アミダは一瞬立ち止まりかける。


「が……顔面……こ、こくほー……?」


意味がうまく飲み込めず、言葉が途切れる。

籠女は軽く頷き、少し困ったように眉を下げた。


「学校同じで、学年も同じやのにやで?

そない綺麗な白い髪して、えらいべっぴんな女の子に気づかんかったん、ウチの一生の不覚やと思わん?」


その言葉を受けた瞬間、アミダは反射的に視線を落とした。


自分の見た目を褒められた記憶が、ない。


褒められたのは──

無言で激痛に耐え切ったとき。

指示されたことを、一つもミスせず完遂したときだけ。


それ以外は、怒声と暴力だった。


けれど、籠女は違う。

毎日何気ないように、当たり前のようにアミダを褒める。


この瞳のことも。

この長い舌のことも。

触れもしないまま、何も問わずに。


籠女はふと空を見上げ、独り言のように続けた。

 

「まぁ、ウチの教室からやと、アミダちゃんの六組とは正反対の校舎になるしな。

どっちかが会いに校舎跨んと、まず会えんわな」

 

アミダは下を向いたまま小さく返す。

 

「か、籠女ちゃん……"特級"……だもんね」

 

特級──通称、特等学級。

 

特級はとにかくすごい。


成績だけではない。

怪異としての資質や、因子の扱い、妖力の制御。

それらを総合的に教師が判断し、選ばれた生徒だけが所属する学級だ。


特等学級の本来の役割は──。

学校内で、生徒が因子の力を用いて他の生徒に危害を加えようとした際、

同学年の特級生が、それを制止すること。


学校では、妖気の発現は原則禁止されている。

授業も座学のみで、実地は行われない。


妖力をうまく扱えない生徒。

そもそも、妖力を出せない生徒。

その方が圧倒的に多いからだ。


それでも、抑えきれず妖気を出してしまう子はいる。

そんなとき、同じ目線で立てる存在として、特級の生徒が対応に当たる。


それがこの学校の仕組みだった。


その時、籠女が思いついたように口を開く。


「なぁアミダちゃん。明日ウチと遊ばへん? 明日学校休みやからさ」


その言葉に、アミダは思わず籠女の方を見上げた。


胸の奥が、きゅっと縮む。

他人からそんな誘いを向けられたのは、初めてだった。


けれど、すぐに現実が追いつく。


施設いえが、学校以外の外出を許すはずがない。

そんなことは、考えるまでもなかった。


アミダは、ほんの一瞬の沈黙のあと、籠女から視線を逸らしてしまう。


その仕草だけで、籠女は"何か"を察した。

足を止め、声の調子を落とす。


「アミダちゃん。なんでそんなに、怯えとるん……?」

 

言われて気づいた。

自分の身体が──震えていた。

 

それは、ほんの少し希望を抱いてしまったがゆえの震えだった。


毎日、何かしらの実験を受ける生活。

ここ数年は、一切の不満を態度に出さず、ただ静かに耐えてきた。


学校でも、自分が実験されていることは一度も口にしていない。

どれだけ"バケモノ"と呼ばれようと、すべて胸の内に押し込めてきた。


──だから。


もしかしたら。

ほんの少しのお願いなら、聞いてもらえるのではないか。


そんな考えが、頭をよぎってしまった。

だが同時に、はっきりと想像できてしまう。


アミダが"お願い"をした時に、口外されると警戒される。

そして「躾」と称して、長時間の苦痛を与えられる。


過去に、それを破ろうとした実験体がいた。

その裏切りは、他の実験体の目の前で「けじめ」として殺された。


その光景は、今も脳裏に焼き付いている。


だから──我慢すればいい。

何も望まなければいい。


いつも通りの日常として、耳を塞いでいればいい。


耳を塞いでいれば、

こうして心が揺らぐことも──。


思考は、どんどん飛躍していく。

必要のない想像まで膨らんでいく。


それは、長い年月をかけて積み上げられた"支配"だった。


ぐるぐると負の思考が頭を巡り、視界が狭まっていく──その時。

 

───ぎゅっ。


不意に世界が暗くなった。

思考が、ぴたりと止まる。


暗闇の正体は──籠女だった。


籠女が、何も言わずにアミダを抱きしめていた。


拒む暇もないほど、近く。

強すぎない、けれど確かな腕。


──あたたかい。


そう思った瞬間、せきが切れたように、言葉が涙と一緒に零れ落ちる。


「……助けて」


それは、初めて誰かに向けて発した──


本当の"お願い"だった。


 

 


アミダが施設いえを出てから、五年の月日が流れていた。


アミダが助けを求めた、あの日。


籠女は迷うことなく父親とミズトに事の顛末を伝えた。

そして、"ミズトの言葉"によって、アミダはその日からミズト邸で暮らすことになった。


───ドンドンドンッ。


朝の静けさを破るように、アミダの部屋の扉が叩かれる。

その向こうから、聞き慣れた関西弁が飛んできた。


「ほれアミダ!! 今日は流石に学校行くで!!」


───ガチャガチャ。


ドアノブが回されるが、内側から鍵がかかっているため、扉はびくともしない。


「んもおお、また鍵かけよってホンマにッ!!」

 

扉の外で籠女が騒いでいる。

アミダは布団にくるまったまま"動かない"。

 

少しすると、ガチャリと鍵が開く音とともに扉が開き、ぱたぱたと足音が近づいてくる。

 

すると、被っていた布団を引っぺがされた。

 

「お寝坊さーん、早う準備しい……ん?」


そこで、籠女の言葉が止まった。


布団の下にいたアミダは、目を開けたまま、一切動いていなかった。


学校に行きたくない、とごねるのは日常茶飯事だ。


だが、いつもなら布団を剥がした時点で、必ず抵抗する。

引っ張り合いになり、最後は笑い混じりの小競り合いになる。


「おい、アミダ……?」


返事はない。

冗談でも、拗ねてもいない。


まるで──人形。


そう思った時、アミダの瞼が、ゆっくりと瞬いた。


籠女はハッとして、すぐに声の調子を落とす。


「アミダ……?

大丈夫か? 体調、悪かったんか?」


次の瞬間。


「うわああッ!!」


アミダが悲鳴を上げた。


その声には、寝起きの不機嫌さなど微塵もない。

恐怖そのものが、喉を裂いた音だった。


籠女は即座にアミダの手を握る。


「どないしたん! 落ち着き!

ウチや! ウチやって!」


必死に、何度も言葉を重ねる。


その声に、アミダはびくりと身体を震わせ、籠女の顔を見た。


「……え……か、籠女……?」


籠女は、安堵したように息を吐き、アミダの頭を撫でる。


「せやで? 籠女ちゃんや。

何をそんなびっくりしとったん」


すると、アミダは籠女の手を両手で強く掴んだ。


爪が食い込むほどの力で──。


「……私……」


喉が震え、言葉が掠れる。


「私、また……"支配"される……!」


その一言に、籠女は言葉を失った。


アミダの言っている意味は、分からない。

何を指しての言葉なのかも、どうしてそんな発想に至ったのかも、籠女には掴めなかった。


けれど──。


アミダは、籠女に嘘を吐いたことがない。

都合のいい嘘も、相手を安心させるための嘘も。

これまで一度もなかった。


だから、籠女は問い詰めない。否定もしない。

ただ受け止めるために、息を整えた。


「……何があったん」


声の調子を、出来る限り柔らかくする。


「ゆっくりでええから。話してみ」


そう言って、籠女はアミダの隣へ回り込み、添い寝をするようにベッドへ横になった。


そして──。


ぎゅっと。


アミダの顔を、自分の胸元へ引き寄せるように。

両腕で包み込むようにして、しっかりと抱きしめた。


力は強くない。

だが、離すつもりもない抱き方だった。


「……大丈夫や」


囁くように、言葉を落とす。


「ウチは、ここにおる」


心臓の音が、規則正しく伝わる距離。

体温が、否応なく伝わる距離。


今は、理由も、説明も、正しさも要らない。

まずはこの震えを、止めること。


籠女は、アミダを静かに抱き続けていた。



♦︎



アミダが「支配される」と口にしてから、一週間が経過した。


その間、アミダに目立った異変は見られなかった。

だが、籠女の胸の奥には、言葉に出来ない引っかかりだけが残り続けている。


ある日の夕方。

籠女は自宅のリビングで、父親にそのことを切り出した。


「なぁ、オトン。アミダが先週から"支配される"って言うとった話、ウチ前にしたやろ?」


籠女の父親──乱丸らんまるは、リビングの椅子に腰を下ろし、机の上に広げた分厚い資料に目を通していた。


何種類もの紙が束ねられ、年季の入った書き込みも多い。


視線は資料に落としたままだが、耳は確実に籠女へ向いている。

それが分かるから、籠女はそのまま続けた。


「アミダな、一日のどっかで必ず"知らんうちに時間が経ってる"らしいねん。

気ぃついたら、数十分とか、下手したら半日とか、記憶が抜けとるって」


少し言葉を選びながら、首を傾げる。


「……よう、わからへんやろ?」


その時だった。


───ブッ。


間の抜けた音が、リビングに響いた。

籠女が即座に声を張り上げる。


「なッ! ウチが真面目に話しとる時に、屁ぇこくなや!!」


───ブッ。


追撃のように、もう一度。


「こらオトン!!」


籠女は机を叩く勢いで叫んだ。


「屁で返事すんなや! けつ穴塞いだろか!!」


ようやく乱丸は資料から目を離し、籠女の方へ視線を向けた。

どこか悪びれない表情で、口の端を上げる。


「なんや。屁ぇぐらい、ええやろ」


そう言って、軽く笑う。


籠女は思わず溜息を吐きながらも、その表情にいつも通りの安堵を覚える。


ふざけた態度の裏にある揺るがなさを、幼い頃から知っているからだ。


こういうところも含めて、籠女は父親のことが好きだった。


「次、オカンに夢で会ったらな──」


籠女はジトっと睨みながら冗談めかす。


「──オトンが、可愛い可愛い娘の真剣な話を、屁で遮るって言いつけとくからな?」


そう言ってから、ふと視線をリビングの棚へ移した。

そこには、額縁に収められた一枚の写真が飾られている。


柔らかく微笑む、亡き母の姿。


籠女が生まれた後すぐに、母親はすでにこの世を去っていた。


籠女にとって、記憶の中に母は存在しない。

それでも、その存在は確かに、この家の空気の中に息づいている。


その母が、代々大切にしていた形見として、籠女に受け継がれた物がある。


那由多なゆた


籠女の一族の霊子れいしが封じられた呪物。

精巧な鳥籠の内側に絡みつくそれは、祝福と呪いの境界にあるものだった。


那由多に宿る呪いは、籠女の一族以外には決して触れられない。

もしも血縁でない者が扱おうとすれば──命を落とす。


それを籠女は、まだ知らない。



♦︎



同じ日の夜。


アミダは夕食を終え、静かにダイニングルームを後にした。


実験を受けていた頃から、アミダの舌は他人よりも何倍も敏感なままだ。

味の濃淡も、わずかな違和感も、すぐに拾ってしまう。


それでも、この屋敷で出される料理だけは、違った。


仕えるメイドたちは、アミダの舌を理解しているかのように、過不足のない味付けを施してくれる。


敏感な味覚のままでも、きちんと「美味しい」と感じられる。


やっぱり──。

今は、幸せだと思っていたかった。


自室へ戻るため、ロビー中央の太い階段を上る。

広い空間に響くのは、アミダ自身の足音だけ。


部屋は三階にある。

いつも通りなら、何事もなく辿り着くはずだった。


だが、その途中で意識がふわりと遠のいだ。


──また、この感覚だ。


一日のどこかで起こる、無意識中の時間経過。


だが、アミダはこれに慣れてきていた。


完全に意識を失うその直前。

ギリギリのところで、耐える。


──早く、部屋に戻らなきゃ。


だから、自室には必ず鍵をかける。

無意識のまま外に出て、誰かに迷惑をかけないようにするためだった。


その時、アミダはハッキリと感じ取った。


──"温度"。


部屋の暖かさではない。空気でもない。


妖気の──温度。


しかも、それは自分のものではなかった。

今、妖気を出していないことは分かる。


仮に出していたとしても、それが自分か他人かくらい判別できる。


けれど、その温度は。


首元。

両腕の関節。

指先。

両脚。

そして、踵。


身体の至るところから、同時に伝わってくる。


まるで、均等に張り巡らされた"糸"が、身体を包み込んでいるかのような──。


その時、遠のきかけた意識の中で、頭上から声が降ってきた。


「何を、耐えているのかな……?」


反射的に、顔を上げる。

二階の踊り場に立っていたのは──ミズトだった。


アミダは、思わず目を見開く。


「……え」


ミズトから感じる"温度"。

それは、今アミダの身体にまとわりついているものと、まったく同じだった。


ミズトは、穏やかに微笑む。


「キミは……耐えられるのか。それは、厄介だね」


その言葉が落ちた瞬間。

アミダの意識はどこかへ落ちた。



──支配に、希望はない──

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