第四十一話 阿巳蛇の執着
──コイツ……なんでこんなにッ。
攻めているはずなのに、主導権は一向にこちらへ戻らない。
──アタシの動きが……全部、読まれる。
拳は最短で逸らされ、踏み込めば踏み込むほど、その先を塞がれる。
蹴りは角度ごと削がれ、体勢を立て直す隙すら与えられない。
無駄がない。
それどころか──。
まるで、屍々子の次の動きを、"最初から知っている"みたいに。
内側から拳を弾かれ、重心を崩した瞬間を逃さず、足払いの軌道を潰される。
屍々子が一歩後ろへ下がる直前、それを分かっていたかのように──阿巳蛇が一歩踏み込んだ。
耳元で落とされたのは、囁きにも似た確信。
「あたしの勝ち──」
次の瞬間、腹部へ蹴りが叩き込まれる。
───ドッ。
ためらいも、加減もない、純然たる一撃だった。
「──ぐっ!」
短く、呻くような声が漏れた。
屍々子の身体が宙に浮き、そのまま床を転がる。
数メートル先──。
「屍々子……!!」
声が飛ぶと同時に、籠女が駆け寄ってきていた。
呼吸が、乱れる。
吸っているはずなのに、肺が空気を拒む。
喉の奥が詰まり、息が途中で止まりそうになる。
──立たなきゃ……。
視界が揺れる。
反射的に上体を起こそうとしたその背を、籠女が背後から支えた。
その時、喉から込み上げる。
「……ごふッ──」
屍々子の口元から、血が噴き出した。
抑えきれず、喉の奥から溢れたそれが、床に落ちる。
外傷は、致命的ではない。
だが、確実に──内側が壊されていた。
その様子を確かめるように、阿巳蛇が歩み寄ってくる。
左右で交錯する茜と美鈴には、視線すら向けない。
「すごいね、確実に胃を破壊できる力で蹴ったのに……」
黒いレザーヒールの床を叩く音が、規則正しく近づく。
「……潰れた感覚がなかった」
やがて、二人の前で足が止まる。
「でも、あたしの勝ち」
見下ろす視線とともに、柔らかな声音が落ちた。
「どう?
少しは、聞く気になった? あたしの"提案"」
♦︎
姉さん。
その呼び方を、いったい何年ぶりに口にしたのだろう。
目の前に立っている、僕と同じ髪色で、同じ黒い瞳をしたそのメイドは──。
いつも笑ってた。
誰にでも優しく、誰からも愛されて。
その中で、僕にだけ少し厳しくて。
それでも、僕に向けられる笑顔だけは、特別だった。
でも、僕の前に立つ女は、"姉の形"をした──不快。
「姉さんと同じ顔をするなよ」
右目に、緑の妖気が灯る。
視界の奥で、それが静かに燃え上がった。
「……不愉快なんだよッ──」
地を蹴り、
右手の指先に妖気が絡みつく。
刃のように研ぎ澄まされた指が、そのまま首元へと伸びる。
だが、美鈴もすでに踏み込んでいた。
指先の軌道を視界に収め、重心を低く落とす。
左手で
───ズンッ。
確かな衝撃が、無兎の腹を打った。
「くっ……!」
それでも、無兎の動きは止まらない。
この一撃は、想定の内。
自分がダメージを負ってでも──"確実に当てる"ために。
無兎の左手がわずかに開かれ、指先へ緑の妖気が集束していく。
バチバチと弾ける光が、空気を焦がし、嫌な匂いを生んだ。
『
低く、押し殺した宣告。
───ズシュ。
次の瞬間、美鈴の右肩を激しい痺れが襲う。
「──ッ?」
肩から指先にかけて、感覚が急速に失われていく。
まるで、そこだけが他人の腕にすり替わったかのようだった。
力が入らない。
いや、力を入れているという感覚そのものが、消えている。
腹部へ伸ばしていたはずの右腕が、糸を切られた人形のように垂れ下がる。
無兎の左手の指先が、美鈴の右肩に突き刺さっていた。
「……このまま、ただの人形のままでいてよ」
右目の妖気が、バチリと弾けた。
「笑わない姉さんは……もう、僕の前で動かなくていい」
言葉が落ちた、その瞬間。
美鈴の全身を、痺れが一気に駆け巡る。
無兎は、美鈴の左肩から指先を乱暴に引き抜く。
支えを失った美鈴の身体が、そのまま力なく崩れ落ち──倒れた。
その異変は、
「……美鈴!?」
視線を走らせる──その途中。
前方から屍々子と阿巳蛇の姿が消えていることにも気づいた。
その時、割って入るように
「うおおぉい!! よそ見してんなよ──」
───ドゴッ。
言葉の途中で、乾いた衝撃音。
茜の蹴りが、鏑の顔面を正面から打ち抜いた。
低く、怒りを噛み殺した声が落ちる。
「……うるせぇよ。
あとで相手してやっから……今はすっこんでろ」
衝撃に押され、鏑は二、三歩、後ろへよろめく。
その一瞬を逃さず、茜は美鈴へ駆ける。
「美鈴……!!」
滑り込むように倒れた美鈴を抱え上げ、そのまま跳躍。
無兎との距離を一気に引き離す。
「おい、しっかりしろ!」
美鈴の目は閉じていた。
メイド服の白いエプロンに、右肩から滲み出た血がじわりと広がる。
茜は膝を落とし、しゃがみ込む。
美鈴の身体を抱え、負担がかからぬよう、太ももで頭を支える姿勢を取る。
無兎が一歩、距離を詰めようと身構えたその時、阿巳蛇が声で制止した。
「無兎……もう大丈夫」
そう言われて、無兎は立ち止まり、妖気を閉じた。
その美鈴の姿を、ただ見つめていた。
阿巳蛇はそのまま、視線を籠女へ滑らせる。
「ねぇ籠女……子供の頃みたいにさ──」
それは、絶対的自信。
「──お話しよ?」
その声は、相手にいつでも死を匂わせる、"他愛もない会話"だった。
籠女は阿巳蛇を睨み据える。
自分の選択ひとつで、誰かがここで失われる。
この局面で導ける、最善の一手は──。
籠女は、片膝で身体を起こしかけている屍々子を背後から支えながら、低く切り出した。
「だったら……こっちも"提案"や」
言葉の途中、阿巳蛇の死角になるように、籠女は屍々子の左手をわずかに引く。
そのまま屍々子の手のひらに、人差し指と中指を、まっすぐに揃えて当てる。
屍々子はその"合図"を、静かに受け取った。
籠女の言葉に、阿巳蛇の口元がわずかに緩んだ。
だがそこに、耳を傾ける気配はない。
「昔から変わってないんだね。
こういうときに、強気になるところ」
籠女は吐き捨てるように笑う。
「そういうアンタは……変わり果てたな。真逆や。
傲慢で、自分の力を振りかざして……。
昔、アンタをいじめとった連中と、同じことしとる」
阿巳蛇は、短く息を漏らすように笑った。
「そうだね。でもね、籠女。
力がなければ……淘汰されるんだよ」
顎をわずかに持ち上げ、見下ろす。
その眼差しには、疑うという選択肢そのものが存在していない。
「排除も、支配も、恐怖も、孤独も。
力さえがあれば、自分が被害者になることはない」
発音の一つひとつに呼応するように、阿巳蛇の妖気が濃度を増していく。
「五年前、あたしがミズトから与えられた"それら"のせいで──あたしは強くなったんだよ?」
籠女の眉が、わずかに跳ねた。
──五年前。
籠女の父親が、眠りについた日。
「……まだ、それを──」
思わず、籠女の身体が立ち上がっていた。
「──あれはアンタのせいやないって、ウチはずっと言っとった!
それでもアンタは信じんと、あの屋敷を出て行ったっきり、戻ってこんかったんやろ!」
阿巳蛇の喉から、含み笑いがこぼれる。
「籠女は優しいから、いつもあたしを庇ってくれてたっけね。
でも……ミズトは違った……」
表情が、ゆっくりと冷えていく。
「ミズトは、あたしを"支配"した。
そのせいで、あたしは淘汰された」
呼吸が荒くなり、声が微かに震える。
「だから……次は、あたしの番。
今日も、支配する側に立つ」
視線が、鋭く据わる。
「……ミズトを殺す。
そのためだけに、今日まで血反吐を吐いてきた」
吐き出された憎悪に、籠女は息を失った。
大通路を満たす空気が一段沈み、殺気が重く絡みつく。
その静寂を破ったのは、屍々子だった。
「阿巳蛇……。お前の言い分はわかった。辛かったな」
一瞬の沈黙。
阿巳蛇の視線が、鋭く屍々子を射抜いた。
「……は?」
屍々子はゆっくりと立ち上がり、真正面からその視線を受け止める。
「だけど……」
視線が、茜へ。
美鈴へ。
そして籠女へと滑る。
「アタシの目の前で──」
両腕が前へ突き出される。
「──仲間が傷つくのは、また別な話だ」
白い妖気が、両の手のひらから奔流となって噴き上がった。
阿巳蛇の口元が歪む。
「まだ、戦える気力あったんだ。
ふふっ、今すぐ潰してあげる」
阿巳蛇の身体を包む妖気が、さらに濃く膨れ上がる。
その瞬間、屍々子は右手のひらを上に向け、指先をくいと内へ引いた。
阿巳蛇がその仕草の意味を探ろうとした刹那。
背後に異変──。
反射的に振り向いた視界の先。
「──ッ!」
無兎と鏑のさらに後方から、直径一メートルほどの空気の塊が、砲弾のような速度で迫ってきていた。
迎え撃つ構えに入った、その目前。
空気の塊は、阿巳蛇の眼前で細かく砕け、霧散する。
狙いは最初からそこだった。
屍々子は、衝撃が自分と籠女へ及ばぬよう、圧力そのものを制御していた。
次の瞬間、背後から低い声。
「おい──」
振り返った、その顔面に。
───ドゴァッ!!
解放された右拳の空気圧が、容赦なく叩き込まれる。
阿巳蛇の身体は宙を舞い、十数メートル先の床を転がった。
屍々子は見下ろし、そして吐き捨てる。
「お前の提案なんか、聞くか。バーカ」
──反撃と、狼煙と──
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