第三十五話 白馬の王子様
天井は低く、照明は白く滲んでいる。
どこか既視感のない、説明のつかない匂いが鼻腔にまとわりつく。
籠女は、台の上に仰向けに寝かされていた。
両手首と両足首は、台の縁から伸びた金属具によって固定されている。
わずかに身じろぎしただけで、冷たい金属が擦れ、低く軋む音が返ってくる。
左右から、断続的な呻き声と、押し殺しきれない叫び声が聞こえる。
この部屋には、籠女を含む三人しかいない。
目を覚ました籠女の意識は、
否応なく──自分の口の中へと引き戻される。
金属の味。
強烈な違和感が、思考を塗り潰す。
舌に広がる、はっきりとした金属の味。
血の味とも違う。
歯を噛みしめた時の鉄臭さとも違う。
喉の奥まで、じわじわと広がっていく。
最悪の想像が、頭の隅を掠める。
考えたくない。だが、無視できない。
──これ……嘘やろ。
今のところ、身体に異変は感じられなかった。
あるのは、引き抜いた鉤爪の傷が残す鈍い痛みと、阿巳蛇に蹴られた腹部の重たい衝撃だけ。
そして──
首元に、あるはずの重みがない。
鳥籠がまた、消えていた。
不安に身を委ねても意味はない。
精神ではなく、頭と理性で感情を切り替える。
その時、部屋の奥──右手側から、扉の開く音がした。
籠女は、反射的に目を閉じる。
視覚を遮り、聴覚だけを研ぎ澄ませる。
複数の足音。
硬い床を踏みしめる、ためらいのない歩調。
その中の一人が、右側で叫び続けている男の方へ歩み寄りながら、軽い調子で声をかけた。
「お、"特殊"実験体06
女の声だった。
落ち着いていて、温度がない。
「今はちょっとキツいかもしんないけど、もう少しの辛抱だよ?」
返事はない。
男は答える代わりに、声を荒げ、意味を成さない叫びを続けていた。
やがて、足音がこちらへ向かってきた。
籠女は、瞼の裏に意識を沈める。
表情を動かさず、指先一つ反応させない。呼吸の深さすら、慎重に整える。
足音は、籠女の頭上で止まった。
短い沈黙のあと、同じ女の声が落ちてくる。
「あれ? まだ何の変化もしてない感じ?
その一言で、籠女の胸奥にあった最悪の想像が、はっきりと形を持った。
やはり、この口の中に広がる金属の匂いは、因喰が原因だった。
女の問いに応じるように、少し離れた位置から男の声が返る。
「……だいたい二十分前くらいですかね」
女が軽く驚いたように息を弾ませた。
「えっ、そんなに経ってるなら
克服者になっててもいい頃合いじゃない?
"
籠女は、意識の底でその言葉を反芻する。
──しきじつ、用? なんや、それ。
それに……克服者って。
女は少し考え込むように間を取り、続けた。
「それなら、もうちょい様子見るかぁ。
他の怪異より妖力量が多い人は、"侵色"が始まるまで時間かかるしね」
籠女は目を閉じたまま、思考だけを走らせる。
──侵色……? どういうことや?
因喰が体内に存在していても、潜在妖力を空にしなければ侵色は起こらない。
それが、これまでの常識だった。
現に籠女は、目覚めてから一切、妖力を使っていない。
それなのに、女は断言した。侵色が始まる、と。
もしそれが事実なら、籠女に侵色が起きるのも、もはや時間の問題だ。
──どないしたら、ええ。
今もなお、絶え間なく叫び続けている、あの男。
もし彼も、籠女と同じように因喰を飲まされているのだとしたら──。
一つ、確かなことが見えてくる。
あの男の状態。
それは、侵色が始まった直後に現れる初期症状と、完全に一致していた。
──つまり、ウチが飲まされた因喰は……。
侵色を、無理矢理引き起こすためのもの。
確証はない。
だが、背筋を撫でる嫌な予感だけは、やけに生々しかった。
そして、もうひとつ。
頭の片隅に、引っかかったままの言葉がある。
克服者。
──言葉通りの意味やったら……まさかな。
侵色を、克服した存在。
そんな都合のいい話があるはずがない。
そう思いながらも、他に当てはまる解釈が浮かばなかった。
思考が堂々巡りを始めた、その時だった。
足音が遠ざかる。
籠女の右側ではなく、左──呻き続けている男の方へ向かっていく気配。
女の声が、興味深そうに響いた。
「あれ? 今さらだけどさ、この男……。
"適合者部屋"にいた特殊実験体14じゃない?
なんで"克服者部屋"にいるの?」
隣で誰かが、短く肯いた気配。
「はい。適合者部屋にいた実験体で間違いありません。阿巳蛇様の判断です」
男は淡々と続ける。
「この男は"
身体の強度を見込んで、克服者に回せ、との指示でした」
一拍、間が空いた。
「……五つ?」
女の声に、隠しきれない驚愕が滲む。
「それ、さすがに化け物でしょ。
因喰が完成する時点で、元になった怪異のほとんどは死ぬのに……。
すごいね、"適合者"としての鑑だね」
その言葉を聞いた瞬間、籠女の中で点と点が音を立てて繋がった。
──因喰の餌……。なるほどな。
胸の奥が、冷たく沈む。
因喰──。
怪異の命を削り、踏み潰し、その果てに生成される代物。
──因喰が生成されるときに、その怪異が死なんければ……その怪異は"適合者"になるっちゅうわけか。
仮説ではなく、確信だった。
ここは実験場。
そして、ここに横たえられている存在は──材料だ。
逃げ出そうにも、首元にあるはずの鳥籠はない。
それがなければ、戦うことすら叶わない。
さらに厄介なのは、自分の体内に入り込んだ因喰の存在だった。
それは外に出すことも、止めることもできない。
父の意識を取り戻す。
その一点のためだけに、痛みも、苦しみも、孤独も受け入れてきた。
どれだけ削られても、どれだけ壊れても、
「なんとかなる」と自分に言い聞かせて、ここまで来た。
すべては、父への思いがあったからだ。
それなのに──。
今日は、どうしてか感情ばかりが先に立つ。
理屈よりも、覚悟よりも、制御できない何かが胸の奥で騒いでいた。
諦めたいわけじゃない。
逃げ出したいわけでもない。
籠女自身、その理由を理解していなかった。
だが、ただ一つだけ確かなことがある。
それは──
ほんの少しでいい。
誰かに、
その名を呼ぶつもりなど、なかったはずなのに。
声にすらならないその想いは、自然と形を持っていた。
──
胸の内で、確かにそう呼んでいた。
その時、部屋の外から衝撃音が轟いた。
♦︎
籠女が白い部屋で目が覚める、約五分前。
───ブオォン!!
繁華街の大通りを切り裂くように、白と黒、二台のバイクが疾走する。
車の合間を縫い、信号も視線も置き去りにして、その進路はただ一つ──
屍々子は、白いバイクの後部座席に乗せられていた。
前にいる茜の背中にしっかりと腕を回し、風圧に耐える。
減速はない。
躊躇もない。
茜は、疾風のようにアクセルを開け続けていた。
その後ろに一定の間隔で張り付き、茜の後ろを黒のバイクが走る。
運転しているのは
───ブァォン!!
白いバイクがわずかに車線を詰めた、その瞬間。
茜の肩が、ぴくりと揺れた。
「……来たな」
低く呟くような声が、風に混じる。
「屍々子。籠女の匂いがしてきた。
やっぱ蛇ノ目の方向から感じる」
その言葉に、屍々子の胸の奥がわずかに緩んだ。
匂いが残っている──それは、まだ生きている証拠だった。
茜は妖気をふわりと纏わせた。
そして視線を前に据えたまま、感覚を研ぎ澄ませる。
──ここから辿れる残り香は……。
蛇ノ目タワー。六十階──。
そこに、籠女はいる。
白いバイクは速度を落とさないまま、茜が声を投げる。
「おい屍々子。どっちがいいか、お前が決めろ」
唐突な言葉に、屍々子は問い返す。
「どっちって?」
茜の口元がわずかに歪む。
「籠女の居場所は掴んだ。
だから、これからあたしが言う選択肢を、お前が選べ」
「一つは、時間もかかるし、面倒だが一番安全な方法。
もう一つは、ミスったらあたしもお前も死ぬかもしれねぇが、直で籠女のところに行く方法だ。
どっちにする?」
屍々子は、即座に答えた。
「死ぬわけねぇだろ、アタシが」
その声には、迷いも躊躇もなかった。
そして、短く笑う。
「一択だろ、んなもん」
♦︎
──屍々子……。
その名を、
祈るように心の底でなぞった瞬間──
───ガジャァァン!!
白い部屋の外で、何かが叩き潰される破壊音が轟いた。
金属と壁材が引き裂かれる、乾いたようで重い音。
「な、なんの音!?」
女が声を上げる。
その場にいた男たちも、反射的に視線を音の方へ向けた。
籠女も思わず瞼を開いた。
次の瞬間──理解する。
この音は、遠くで起きている事故ではない。
───ブォオン!!
耳を突き刺すエンジン音。
金属を震わせる振動が、床を通して直接伝わってくる。
一直線だ。
迷いがない。
こちらへ──この部屋へ、一直線に迫っている。
──な、なんや?
思考が追いつくよりも早く──
───バゴォォオ!!
轟音とともに、壁が内側へ爆ぜた。
粉塵と破片を巻き上げ、白と黒の二台のバイクが、部屋の中へ強引に突入してくる。
理屈も手順も無視した、あまりにも乱暴な侵入。
茜は、研究員たちの呆然とした視線を正面から射抜く。
「お前ら、そこ邪魔だ。轢くぞコラ」
ブレーキをまともにかけることもなく、研究員たちの方向へバイクを突っ込ませる。
悲鳴が上がった。
研究員の女が反射的に身を投げ出すように横へ逸れる。
白いバイクはそのまま室内を切り裂き、
器具を弾き、棚を薙ぎ倒し、机を吹き飛ばしながら──
籠女の頭上近くで、荒々しくドリフトをかけて停止した。
爆音が収束し、粉塵がゆっくりと落ちてくる。
籠女は、状況を理解するまでに少し遅れた。
だが、その遅れはすぐに埋まる。
後部座席。
そこにいたのは、見間違えるはずのない顔だった。
屍々子が、まっすぐこちらを見ていた。
「なに呑気に寝てんだよ、帰んぞ──」
その名を呼ぶ声音だけが、まっすぐ籠女に届いた。
「籠女」
──白馬、降臨──
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