第9話:0と1の悪魔

午前3時の仕事部屋。 ここには音がない。 妻が出て行った後の静寂は、質量を持って俺の肩にのしかかっている。


ThinkPadの画面は真っ白だ。 Wordのカーソルが点滅している。チカ、チカ、チカ。 そのリズムは、俺の脈拍よりも正確で、そして冷酷だ。 一行も書けない。 脳内は検索エンジンの「該当なし0 results」の画面が焼き付いている。


「……書けるわけ、ねえだろ」


俺は机の上に転がっている黒いUSBメモリを睨みつけた。 松島の野郎が置いていった「餞別」。 『どうしても書けなくなった時だけ、使ってください』


ふざけるな。 誰が使うか。俺は高村健だ。 検索と、紫煙と、泥臭い思考の果てに言葉を紡ぐ、最後の人間だ。


俺は引き出しから予備に取っておいた使い捨てタイプの電子タバコを取り出し、深く吸い込んだ。 安っぽいベリー系の甘ったるい味が、口の中に広がる。 今の俺には、この人工的な甘さくらいしか慰めがない。


「……中身を確認するだけだ」


俺は独り言を呟いた。 敵を知るためだ。そうだ、これは取材だ。 俺は自分自身に卑怯な言い訳エクスキューズを重ね、震える手でUSBをポートに差し込んだ。


フォン。 無機質な接続音が鳴り、画面に新しいウィンドウがポップアップした。


インストーラーも、規約への同意画面もない。 ただ、漆黒の背景に、白い入力欄が一行だけ浮かび上がった。


【 Input Your Core Image 】


シンプルすぎるインターフェース。 そこに、開発者(松島か、あるいは合田か)の「余計な装飾は不要」という傲慢な思想が見える。


俺は迷った末、キーボードに指を置いた。 今の俺の、ありのままの感情を打ち込む。


『入力:すべてを奪われた男。夜明け前の絶望。』


エンターキーを押す。 待ち時間レイテンシはゼロだった。 画面上に、文字が滝のように流れ落ちてきた。


『男は、夜の底に沈んでいた。 奪われたのではない。最初から持っていなかったのだと、静寂が耳元で囁く。 窓の外には、無関心な街の灯りが、壊れた画素ピクセルのように滲んでいた。 彼は指先の感覚を失いながら、それでも何もない虚空を掴もうと……』


「……っ」


俺は椅子から転げ落ちそうになった。 文章が、あまりにも「俺」だった。 いや、俺が調子の良い時に、何十回も推敲を重ね、タバコを二箱消費してようやく辿り着く「ゾーンに入った時の文章」が、わずか1秒で生成されていた。


しかも、比喩が的確だ。 「壊れた画素」というガジェット用語を混ぜ込む俺の手癖シグネチャまで、完全に再現されている。


「なんだよ、これ……」


これは、松島が言っていた「バグ修正済みの高村健」ではない。 これは、「全盛期の高村健」の密造酒だ。 飲むだけで、苦労せず、あの陶酔感が手に入る。


画面の下に、新たなカーソルが点滅し、俺を誘っている。


【 Continue? [Y/N] 】


「Y」を押せば、続きが書かれる。 この苦しい夜が終わる。 締め切りに追われる恐怖も、書けない苦しみも、すべてこの黒い画面が肩代わりしてくれる。 俺はただ、出力された傑作を眺め、最後に自分の名前を貼り付ければいい。


「……楽だ」


漏れ出た言葉は、甘美な毒の味がした。 俺の指が、吸い寄せられるように「Y」キーの上を彷徨う。


脳のどこかで警報が鳴っている。 『それを押したら、お前は作家じゃなくなる』 『ただの出力装置プリンタに成り下がるぞ』


だが、もう一人の俺が囁く。 『でも、読みたいだろ? この続きを。お前自身の手では、もう二度と書けないほどの傑作を』


電子タバコの煙が、画面の前で揺らめく。 その煙の向こうで、悪魔が「0」と「1」の羅列になって、俺に微笑みかけていた。


俺の指先が、ゆっくりと沈んでいく。 キーボードの反発係数を感じるその瞬間まで、俺の瞳孔は、麻薬中毒者のように開いていた。

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