第8話:家庭内の冷戦

玄関のドアを開けた瞬間、空気の「温度」が違うことに気づいた。 いつもなら漂っているはずの夕飯の匂いがない。 リビングの照明は消え、ルンバが充電ステーションで青いランプを点滅させているだけだ。 まるで、サーバーがダウンしたデータセンターのような静寂。


「……絵里子?」


声をかけるが、返答レスポンスはない。 靴箱を見る。彼女の靴がない。 リビングへ進むと、ダイニングテーブルの上に、一枚の便箋が置かれていた。 その横には、離婚届。緑色の用紙が、薄暗い部屋の中で蛍光色のように浮き上がって見えた。


俺は震える手で、便箋を手に取った。 手書きだ。そこだけには安心した。 だが、読み始めた瞬間、俺の背筋に冷たいものが走った。


『健さんへ。 突然の手紙でごめんなさい。 私たちは長い時間を共有してきましたが、お互いの人生の方向性の違いについて、冷静に見つめ直す時期が来たのだと思います。』


綺麗だ。 字も、文章も。 あまりにも論理的で、感情の乱れがない。 かつて喧嘩した時に彼女が投げつけてきた「稼ぎが悪い!」「いつまで夢見てるの!」という生々しい罵倒ノイズが、一切ない。


『これはどちらが悪いということではなく、私たちがそれぞれの未来をより良く歩むための、前向きな選択です。あなたの創作活動を尊重したいからこそ、私は私の足で歩むことにしました。』


「……『前向きな選択』、だと?」


俺は眉をひそめた。 絵里子はこんな言葉を使う人間だったか? 彼女は感情が昂ると主語が抜けるし、論理よりも今の気分別で話すタイプだ。「未来」とか「尊重」なんて教科書みたいな言葉、結婚してから一度も聞いたことがない。


違和感が拭えない。 まるで、役所の窓口で渡されるパンフレットを読んでいるようだ。 丁寧だが、そこには「体温」がない。 拒絶の壁が、完璧な敬語でコーディングされている。


俺は無意識のうちに、ポケットからスマホを取り出していた。 悲しみよりも先に、「検証したい」という作家としての(あるいは検索中毒者としての)業が鎌首をもたげる。


Googleアプリを起動。 便箋の冒頭の一文を、音声入力で吹き込む。


『検索ワード:私たちは長い時間を共有してきましたが お互いの人生の方向性の違いについて』


検索ボタンをタップ。 0.3秒で、残酷な真実リザルトが表示された。


【検索結果 1位】 『円満な離婚のための手紙作成プロンプト(ChatGPT対応) - 感情的にならずに相手を納得させるテンプレート集』


「…………は、はは」


乾いた笑いが漏れた。 クリックして中身を見る。 そこには、絵里子の手紙と一言一句同じ例文が掲載されていた。


『AI出力例: 相手はプライドの高い夫です。感情を逆撫でせず、しかし復縁の余地がないことを論理的かつ丁寧に伝える文章を作成してください。キーワードは「感謝」と「未来」で。』


「そうかよ……絵里子」


俺はスマホをテーブルに放り投げた。 膝から力が抜け、フローリングに崩れ落ちる。


お前もか。 佐伯も、牧野も、そして妻のお前までも。 自分の言葉ログで語ることを放棄したのか。 俺との10年の結婚生活の幕引きさえ、AIに「外注」したのか。


俺は涙さえ出なかった。 ただ、圧倒的な敗北感だけがあった。 人間らしい泥沼の喧嘩や、涙ながらの罵り合いすら、今の時代には「非効率」なコストなのだ。 AIが書いた「綺麗な手紙」一枚で、俺たちはバグのように処理フィックスされた。


ポケットを探る。 故障した電子タバコが出てくる。 吸い口を噛む。プラスチックの硬い感触だけが、唯一の現実リアルだった。


「……誰も、いねえのかよ」


誰もいない。 俺の言葉を聞いてくれる人間は、もうどこにもいない。 俺は世界からログアウトされたのだ。


その時。 郵便受けに何かが投函される音がした。 コトン、と乾いた音。


俺は這うようにして玄関へ向かう。 床に落ちていたのは、茶封筒だった。 差出人の名前を見て、俺は息を飲む。


『松島 誠』


今日、俺をクビにした編集者だ。 封筒の中には、USBメモリが一本だけ入っていた。 黒く、無機質なスティック。 同封されたメモには、手書きで一言だけ添えられていた。


『餞別です。どうしても書けなくなった時だけ、使ってください。』


俺はそのUSBを握りしめた。 冷たい。 まるで悪魔の指先のように冷たい。


だが、今の俺には、その冷たさだけが、触れられる唯一の「繋がり」だった。

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