第16首 侍女ミリアは、首の音を聞く



 礼拝堂の朝は、いつも同じ祈りから始まる。


 鐘が三度鳴る。

 神官が定められた文句を唱えはじめる。

 貴族たちは順番にひざまずき、額を床に近づける。


「我らが罪をお赦しください」

「我らの家と財と首の安全をお守りください」


 ミリアも、他の侍女たちと同じ列に並び、両手を組んで目を閉じた。


(……首の安全、ね)


 小さく胸の中で、言葉を反芻する。


 首は見ない。

 処刑台にも近づかない。

 その代わり──


(せめて、落とされる首が少しでも少なくなりますように)


 彼女はいつも、そう祈ってきた。


 誰かの首が落ちたあとで、

 残された家族が泣かなくて済むように。

 レオン殿下が、これ以上「首のことで」苦しまなくていいように。


(殿下の首も。お守りください)


 思わず、祈りの言葉にひとつだけ勝手に付け足す。


 その瞬間。


 ――カチリ。


 耳の奥で、小さな音がした。


 歯車が噛み合うような、高くて乾いた音。

 礼拝堂のどこにも、そんな音を立てる機械はないはずなのに。


(……今の、なに?)


 ミリアは目を開けかけて、慌てて閉じ直した。

 両隣の侍女たちは、いつもどおり祈りの文句を口にしている。

 誰一人、顔を上げたりはしない。


 耳鳴りだと思おうとした。


「我らの首の安全を──」


 もう一度、その言葉がくり返されたとき。


 ――カチリ。


 さっきより、はっきりと鳴った。


 今度は、耳の外でも内側でもなく、

 首のすぐ後ろで鳴った気がした。


(…………)


 祈りの列を崩すわけにはいかない。

 ミリアは必死に表情を変えないようにしながら、

 そっと自分の首筋に触れる。


 指先に、かすかな違和感。


 薄い線が一本、横に走っている。


 髪を結ったときにできた跡とも違う。

 かすかにひりついて、脈打つたびにそこだけ熱い。


(……まさか)


 礼拝堂の空気が、急に遠くなった。


 神官の声も、貴族たちのざわめきも、

 耳に届くまで一瞬遅れているように感じる。


 首に線が入るのは、罪人だけじゃない──

 そんな噂話を、台所の隅で聞いたことがあった。


 処刑台の近くに立ちすぎた兵士。

 首なし死体をのぞき込んだ使用人。

 処刑祭で、転がった首から目を離さなかった子ども。


(でも、わたしは首なんて見てない)


 ミリアは強く目を閉じる。


 処刑台のある広場には近づかないようにしている。

 処刑祭の日は、具合が悪いふりをして部屋にこもったことだってある。


 首を見なければ、首は落ちない。


 そう信じていたのに。


 首筋の線が、どくん、と鼓動に合わせてうずいた。


     ◇


 祈りが終わると、礼拝堂はいつもの喧騒に戻った。


 貴族たちが連れ添って立ち上がり、

 侍女たちはそれぞれの主のもとへ散っていく。


「ミリア、顔色が悪いわよ?」


 同僚の侍女が心配そうに覗き込んだ。


「い、いえ。少し寝不足なだけで……」


 ミリアは慌てて笑ってごまかす。


 首のことを口にするのが怖かった。


(“首に線が入りました”なんて言ったら、どうされるんだろう)


 礼拝堂の奥には、線の入った者だけに刻印を授けるという神官がいる。

 城の地下には、「首を祀る部屋」があるという噂もある。


 どの話も、ただの噂であってほしかった。


「ねえミリア。さっきの祈り、聞いた?」


 別の侍女がひそひそ声で近寄ってくる。


「陛下が神官様に、『“首姫の噂”は鎮まりつつあるか』って」


「……」


「首なし死体、最近よく出るでしょう?

 あれは“首姫の呪い”で、贅沢した順に首を取られるんだって」


 うすら寒い話をしながら、彼女たちは笑う。


「わたしたちには関係ないわよね。贅沢なんてしてないし」

「そうそう。祈りさえしていれば、首は大丈夫って神官様も──」


 その言葉の途中で、ミリアはたまらず口をはさんでしまった。


「……“首が落ちませんように”って祈るだけで、本当に大丈夫なんですか?」


 二人の侍女が、きょとんとした顔で振り返る。


「なにそれ?」

「ミリア、変な夢でも見た?」


「い、いえ……」


 言いかけて、言葉を飲み込む。


 祈りの列の中で感じた違和感が、まだ胸に残っている。


 礼拝堂の祈りは、たしかに首の安全を願っている。

 けれど、それはいつも「自分の首」だけだ。


(誰かの首が落とされることは、前提のままなんだ)


 誰も、「誰も斬られませんように」とは祈らない。


 落とされる首があることも、

 その首を見て笑う自分がいることも、

 すべて当たり前のこととして祈りを捧げている。


 そのことに気づいてしまった瞬間、

 ミリアの首筋の線が、じくりと熱を持った。


 ――カチリ。


 また、音がした。


 今度は、はっきりと「自分だけ」の耳に届いたとわかった。


     ◇


 その日の午後、ミリアはレオンの私室の前にいた。


 扉の前には、いつもの衛兵が立っている。

 王子付きの侍女として、訪れるのは珍しいことではない。


「殿下はいま?」


「お部屋におられます。……ただ」


 衛兵は言いよどんだ。


「今日はあまり、誰にも会いたくないご様子で」


「少しだけお顔を見て、すぐに下がります」


 ミリアがそう言うと、衛兵は困ったように眉をしかめ、

 結局は「くれぐれも短く」と念を押して扉を開けてくれた。


 部屋の中は、薄暗かった。


 窓は半分だけ開いていて、外の光が細い帯になって床に落ちている。

 机の上には書状が山のように積まれ、

 その向こうで、レオンが椅子に深く腰を沈めていた。


「殿下」


 声をかけると、彼はゆっくり顔を上げた。


 目の下に、薄い影。

 首筋には、細い縦の線。


 その線がかすかに脈打っているのが、ミリアには見えた。


(……線)


 思わず、喉が鳴る。


「ミリアか。どうした」


「お加減が悪いと伺ったので……お顔だけでもと」


 いつもどおり頭を下げたつもりだったのに、

 その動きの途中で、首筋がぴきりと痛んだ。


 ――カチリ。


 レオンの首の奥。

 自分の首の奥。

 重なった場所で、同じ音が鳴った気がした。


(え……?)


 顔を上げると、レオンがじっとこちらを見ていた。


「……その首」


 低い声。


 ミリアは反射的に手を当てた。


 指先に触れた線は、朝よりもはっきりしていた。

 薄い赤い跡が一本、横に走っている。


「殿下、これは、その……寝違えただけで……」


「嘘だ」


 レオンは静かに言った。


「線だよ、ミリア。

 “線首”の印だ」


 その言葉に、足元が崩れるような感覚がした。


 ミリアは慌てて否定しようとする。


「わ、わたし、首なんて見ていません。処刑台にも近づいていません。

 処刑祭のときだって──」


「知っている」


 レオンの目が、わずかに穏やかになる。


「君は、首を見ない人だ。だから礼拝堂の祈りでいつも胸を痛めている」


「……どうして、それを」


「君はわかりやすいからな」


 短い冗談めいた言葉のあとで、

 レオンは少しだけ視線を落とした。


「線は、首を“見た”者だけに入るわけじゃない」


 その声には、自分自身にも言い聞かせているような響きがあった。


「誰の首が落ちるべきなのか、考えてしまった者。

 誰かの首のために祈ってしまった者。

 ……そういう首にも、線は入る」


 ミリアの胸がぎゅっと縮まった。


 今朝の祈りを思い出す。


 自分の首じゃなく、

 レオンの首と、まだ落ちていない誰かの首のために求めた言葉。


(それ、だけで……?)


 そんな理不尽な、と叫びたくなる。

 けれど同時に、ほんの少しだけ納得している自分もいた。


 祈りながら感じた違和感。

 「自分だけ助かりたい」と願う声が溢れる中で、

 自分の祈りだけが場違いに思えたあの瞬間。


 あのとき、すでに線は首に刻まれていたのかもしれない。


「……怖く、ありませんか?」


 やっとのことで出たのは、その言葉だった。


「線が入ると、首が落ちてしまうって、皆言います。

 “首姫”が数えているって」


「怖いさ」


 レオンは、素直に頷いた。


「できれば、自分の首も、君の首も、こんな線とは無縁でいてほしかった」


 その告白が、妙におかしくて、ミリアはかすかに笑いそうになった。


「殿下のくせに」


「王子だからだ。王子でさえなければ、首など――」


 そこまで言いかけて、レオンは言葉を飲み込む。


 部屋の中の空気が、一瞬静まった。


 ――カチリ。


 ふたりの首に、同時に音が落ちる。


 それは、合図のようにも、契約のようにも聞こえた。


「ミリア」


 レオンが、まっすぐこちらを見る。


「君の首は、俺が数える」


「……え?」


「線首は、放っておくと“見てしまった”ほう側に引きずられる。

 だから誰かが、『どの首を守るか』を決めなければならない」


 レオンは自分の首筋を指で押さえた。


「俺は、王子として、いくつかの首を選ぶつもりだ。

 落とす首と、守る首。

 君の首は、その中で“守る首”に入れる」


 そんなの、簡単に言わないでほしかった。


 ミリアは、胸の奥が熱くなるのを感じた。


「……わたしなんかの首のために、殿下がそんな」


「“なんか”じゃない」


 レオンの声が少し強くなる。


「君は、首を見ないでいてくれた。

 俺が首を見ているあいだ、礼拝堂で、広間で、祈りの列の中で。

 ずっと“見ない側”に立っていてくれた」


 それがどれほど救いだったか、彼にしかわからないのだろう。


「だから、君の首だけは俺が見る。

 線の濃さも、カチリの回数も。

 ……落とさないために」


 ミリアは、うまく言葉が出なかった。


 ただ、首筋に触れる。


 そこにはまだ細い線が一本あるだけだ。

 けれど、その線の向こう側で、


 ――カチリ。


 別の音が鳴った気がした。


 城の地下。

 首を祀る部屋。

 布の下で眠る、首になった姫。


     ◇


「ふふ」


 リリエラは、布の中で微笑んだ。


 遠くから聞こえる、二つ分のカチリ。


「ミリアって言ったかしら。殿下付きの侍女」


 首だけの喉が、くすぐったそうに鳴る。


「いいわね。“見ない首”が、線をもらう瞬間って、とても綺麗」


 石の壁の向こうで、水滴がひとつ落ちる。


「ねえ、カイ」


 誰もいない部屋に向かって、彼女は声を投げる。


「近いうちに、“守られる首”の数を、ちゃんと決めておかないといけないわ」


 カチリ。


「落とす首と、守る首。

 王子が何本選ぶのか、楽しみね」


 その頃、レオンの部屋では。


 ミリアが深く頭を下げていた。


「……殿下。

 わたしの首、どうか上手に数えてください」


 それは、祈りでもあり、契約の言葉でもあった。


 レオンは静かに頷く。


「約束しよう、ミリア。

 君の首は、簡単には落とさない」


 ――カチリ。


 王子の首と、侍女の首。


 ふたつの線が、同じ物語の枠の中で、初めて「隣に並んだ」夜だった。

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