第15首 王子と処刑人見習いは、首の約束を結ぶ




 王城の朝は、何も変わっていないように見えた。


 侍女たちは廊下を行き来し、兵士たちは交代の挨拶をし、

 厨房からはスープの匂いが上ってくる。


 ただ一つだけ違うのは──


(首筋に入った線を、知ってしまった者が増えている)


 レオンは、廊下ですれ違った若い兵士を、思わず振り返った。


 男は首を押さえて立ち止まり、さっと襟を直す。

 その仕草は、他人から見ればただの癖に見えるだろう。


 だがレオンには、さっきかすかに聞こえた。


 ――カチリ。


 歯車が噛み合うような、小さな音。


(また一人、数えられた)


 昨日、丘の下の死体置き場で見た石壁。

 びっしりと刻まれた線の群れ。


 あれは、「首を見てしまった者」の数だと、処刑人見習いの少年は言った。


 そしてその中に、自分の首の線も、きっと含まれているのだと。


「殿下?」


 侍従が怪訝そうに首をかしげる。


「お加減でも?」


「……いや。少し、風に当たりたいだけだ」


 レオンはそれだけ告げると、廊下を引き返した。


 向かう先は決まっている。


 丘の下の洞窟。

 首と死体を一晩だけ預かる、忌まわしい場所。


     ◇


 死体置き場の扉を叩くと、すぐに中から鍵の外れる音がした。


「開いてますよー」


 眠そうな声。

 扉を押し開けると、ランプを片手にした少年がこちらを見上げた。


「おはようございます、殿下。……早いですね」


「首の音がうるさくて、あまり眠れなかった」


 自嘲気味に答えると、カイは肩をすくめた。


「慣れますよ、そのうち」


「慣れたくはないな」


「じゃあ、もっとひどくなります」


 さらっと言ってから、カイは身を引いた。


「中へどうぞ。今日は“数え方”の続きでいいんですよね?」


     ◇


 洞窟の奥の小部屋には、昨日と同じ石壁があった。


 ただ、壁の端に、昨日はなかった新しい線が一本刻まれている。


「……増えているな」


「夜のあいだに三本増えました。さっき刻んだのが、その最後の一本です」


 カイは壁にもたれ、指先で線をなぞった。


「礼拝堂で祈ってた侍女が一人。

 自分の帳簿を燃やそうとした会計係が一人。

 あと、城門の兵士が一人」


「……会計係は、どうなった」


「帳簿と一緒に、首なしで見つかりました」


 カイは淡々と言う。


「線が入って、数えられた首は、だいたいどこかで落ちます。

 自分から落ちに行くやつもいれば、誰かに落とされるやつもいる」


「“首姫の呪い”のせいか?」


「呪いって言えばそうですし、ルールって言えばルールです」


 カイはレオンを見た。


「殿下。壁の線は、“誰が誰を殺したか”の記録じゃありません。

 “誰の首を、誰が見てしまったか”の記録です」


「……どう違う」


「殺すのは、わりと誰でもいいんですよ」


 カイは苦笑した。


「首を落としたって、自分の首を見ないやつは、何も数えられない。

 逆に、何もしていなくても、ただ見てしまっただけで線が増える」


 処刑台の上で、姫の首が飛んだ瞬間。

 自分だけが最後まで目をそらさなかったことを、レオンは思い出す。


(あのときから、俺の首はここに刻まれていたのか)


 耳の奥が、じくじくと痛んだ。


「……線が入った首を、助けることはできないのか」


 気づいたら、その言葉が口から出ていた。


 カイが目を瞬く。


「助ける?」


「昨日、壁を見たときに思った。

 あの線の中には、まだ首のついている者たちも混ざっているのだろう?」


「ええ。いますよ。今も増えてます」


「彼らの首が落ちる前に、何かできないのか」


 レオンの問いに、カイは少しだけ黙った。


 やがて、机の上から一冊の薄い帳面を取り上げる。


「……この国では、処刑人が“首を落とす側”のルールを守ってます。

 でも、“首が落ちる側”のルールを決めてるのは、処刑人じゃない」


 帳面のページがめくられる。


 そこには、日付と場所と、短い名前だけが並んでいた。


「これ、なんだ」


「線が入った首のリストです」


 カイは説明する。


「礼拝堂で線を授かったやつ。

 処刑台で首を見てしまったやつ。

 “カチリ”を聞いて首筋を押さえたやつ」


「……そんなことまで、全部記録しているのか」


「斬った首を忘れろって言われたのに、

 忘れられなかったバカがここに一人」


 カイは自分のことを言うように、肩をすくめる。


「でも、この帳面をつけ始めてから気づいたんです。

 “落ち損ねた首”がたまってくると、別の場所で帳尻を合わせようとするって」


「帳尻?」


「本来処刑されるはずだった罪人が病死したら、

 まったく別の場所で、関係ない首が一つ落ちたりする」


 レオンは眉をひそめた。


「それは……公平ではない」


「公平にしようとしてるのが、たぶん“首姫”です」


 カイは、壁の線を顎で指し示す。


「姫様は、王と教会が数えそこねた首を拾ってる。

 だから“呪い”みたいに見える」


 レオンは、布の下で笑う首を思い出した。


『どの首も、きっといい音を立てて転がるわ』


 血に濡れた唇で、彼女は楽しそうにそう言っていた。


「……もし俺が、“落ちるはずの首”を守ると言ったら?」


 カイの手が止まった。


「それは、王子としてですか。それとも、“見てしまった首”としてですか」


「両方だ」


 レオンははっきりと言った。


「俺は、ただ首を数えるだけの王子にはなりたくない。

 数えられた首の中から、守るべき首を選びたい」


 カイはしばらくレオンを見つめ、それから小さく笑った。


「……無茶言いますね」


「できないのか」


「できますよ」


 あっさりした返事に、レオンは目を見張った。


「ただし、代わりの首が要ります」


 カイは壁に刻まれた線を指さす。


「“この首を落とさない”って決めたら、どこかで別の一本が濃くなる。

 帳面の数字をごまかしたら、姫様が怒る」


「怒ると、どうなる」


「見境なく、首を拾い始める」


 想像するだけで、背筋が寒くなった。


 それでも、レオンは引かなかった。


「……それでも、試したい」


 カイは深く息を吐いた。


「殿下。本当に、王子の首でそこまでやるつもりです?」


「王子の首だからこそだ」


 レオンは、自分の首筋にそっと触れる。


 そこには、もう消えない縦の線が一つ刻まれている。


「この線は、どうせどこかで斬られる首だと教えてくれた。

 なら、落ちるまでのあいだに、何本か別の線を薄くできるか、試してみたい」


 カイはしばらく黙っていた。


 その沈黙の中で、洞窟のどこかから水滴が落ちる音がした。


 やがて彼は、帳面のあるページを開く。


「……今日、新しく線が入った首です」


 そこには、三つの名前が書かれていた。


 一人は城門の兵士。

 一人は礼拝堂の侍女。

 そしてもう一人は──


「ミナ?」


 レオンは目を見開いた。


 その名前には見覚えがある。


 城下町の処刑祭で、何度か見かけた子ども。

 首飾りに安物の白百合を付けて、処刑台を見上げていた少女。


「ミナを、知っているんですか」


「処刑祭のたびに一番前にいる子だ。

 ……線が入ったのか、あの子にも」


「昨夜、処刑祭の“夢”を見て、首を押さえて目を覚ましたそうです」


 カイは淡々と言う。


「本来なら、数年後の処刑祭のどこかで、あの子の首は落ちたはずです。

 でも殿下の首が動き始めたせいで、予定が早まったのかもしれない」


 レオンは唇を噛んだ。


「……ミナを、守りたい」


 口にした瞬間、胸の奥で何かが決まった気がした。


 カイはじっとレオンを見つめる。


「本当に? その子を一人守るために、誰か別の首が落ちても?」


「俺が、その誰かを選ぶ」


 それがどれだけ傲慢な宣言か、レオン自身が一番よくわかっていた。


 それでも、言わずにはいられなかった。


 カイは短く笑い、手を差し出した。


「じゃあ、取引しましょう、殿下」


「取引?」


「処刑人見習いとしての俺と、王子としてのあんた。

 “落とさない首”と、“落とさなきゃいけない首”を、一緒に数える」


 レオンは、その手を握り返した。


 掌が触れた瞬間、耳の奥で──


 ――カチリ。


 はっきりと音がした。


 壁のどこかで、一本の線が濃くなる。


 首になった姫が、遠くの暗闇で微笑む気配がした。


『いいわね。王子と処刑人が、首の取り引きごっこ』


 まだ誰も、その一回の“カチリ”が、

 王城と処刑台と処刑祭の運命を、

 大きく狂わせはじめた音だと気づいていなかった。

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