第10首 処刑人見習いは、王子と目を合わせる



 その日、俺はパンを買いに丘を下りた。


 死体置き場の朝は、いつも通り冷たい。血と湿った石の匂いのあとで嗅ぐ焼きたてのパンの匂いは、妙に現実味がある。


(首を三つ落とした翌朝でも、腹は減るんだよな)


     ◇


 市場は、いつもよりざわついていた。


「昨日、また“カチリ”の音がしたんだってよ」

「やめろよ、その話……」

「今度は誰の首だ」「お前じゃね?」


 笑い声が少し高い。冗談と本気の境が揺れている。


(……“音”まで噂になってんのか)


 耳の奥に、あの小さな音がよみがえる。


 処刑台の上。王城の廊下。死体置き場の奥。

 全部、同じ「カチリ」。


「カイ!」


「うおっ」


 肩を叩かれて振り返ると、ミナがいた。


 処刑祭の日、一番前で姫の首を見ていた子ども。今日も泥だらけの靴で、頬を赤くしている。


「パン買いに来たの? また“処刑人のパン”?」


「そう呼ぶなって」


 苦笑すると、ミナはふざけて首を垂れる。


「カイさま、今日も立派に首を落とされましたか」


「落としてねえ。今日は“落ちたあと”の掃除だけだ」


「ふーん」


 ミナは、じっと俺の首筋を見上げた。


「ねえカイ。“線”、入ってる?」


 心臓が止まりかける。


「……なんの話だよ」


「ほら、最近流行ってるじゃん」


 ミナは広場の方を顎でしゃくる。


 子どもたちが輪になり、歌いながら遊んでいた。


「かっちりカチリで首が落ちる

 落ちた首から花が咲く

 誰の首かな 見てた首かな」


「……何だそれ」


「“首歌”だよ。処刑祭ごっこ。

 “カチリ”って鳴ったら首に線が入ってね、その首から順番に物語に出てくるんだって」


 背中に汗がにじむ。


「誰がそんな話、教えた」


「さあ。気づいたら、みんな知ってたよ」


 ミナは首をかしげ、自分の首筋を撫でた。


「わたしの首にも、線入ってるかな」


 襟の下からのぞく首が、やけに脆く見える。


(“処刑祭が大好きな子ども”……)


 リリエラの言葉が頭をよぎる。


「──入ってねえよ」


 わざと乱暴に、ミナの額を指で弾いた。


「いてっ」


「お前の首は、“泥だらけで転んで擦りむれる首”だ。物語に出る前に風呂に入れ」


「ひどーい!」


 ミナは笑って、俺の腕を小突く。


 その笑い声の奥で、小さく“カチリ”が鳴った気がして――俺は呻きそうになる喉をパン屋の列に押し込んだ。


     ◇


「道を開けてくださーい! 王城からのお通りだ!」


 兵士の声が、通りの向こうから響いた。


 ざわっと人が割れる。荷車が端へ寄せられ、露店が慌てて布をかぶせる。


 濃紺の幕に金の紋章――王家の馬車だ。


「陛下か?」「いや、今日は王子様の視察だ」「頭を下げろ、首が飛ぶぞ」


 人々が一斉に首を垂れる。


 けれど、その祈りのほとんどは軽かった。


(“落ちるのは自分の首じゃありませんように”……か)


 あの声が、脳裏で笑う。


『この国の祈りはね、神様に届かないわ。

 みんながお願いしてるのはただひとつ──

 “どうか、落ちるのは私の首じゃありませんように”ってことだけ』


(こんなときに思い出させないでください)


 心の中でだけ毒づきながら、俺も形式だけ頭を下げた。


 馬車の影が横切る。


 ──その一瞬、幕の隙間から覗いた顔と、目が合った。


 青白い顔。まっすぐな背筋。

 処刑台の上で姫の首を最後まで見ていた少年。


 レオン王子だった。


 彼も、こちらを見ていた。


 ほんの一瞬。それだけで、俺にはわかった。


(……首に、線が入ってる)


 王子の首筋に、細い影が一本走っていた。


 耳の奥で――


 ――カチリ。


 音が鳴る。


(今の、絶対同じ音だ)


 レオンの指が、ほんの一瞬自分の首筋に触れた。


 幕が閉じ、人々のざわめきが戻る。


 誰も「首の線」なんて言わない。見えていないのか、見ないふりなのか。

 あの瞬間だけ、世界に取り残されていたのは、俺とレオンだけだった気がした。


     ◇


 死体置き場に戻ると、洞窟の冷気がまとわりついてくる。


「ただいま戻りました」


「遅かったじゃない」


 籠の方から声。

 布を少しめくると、白銀の髪と青い瞳がのぞく。


「どうせまた、首を見てたんでしょう?」


「パンを買ってただけです」


「首つきの?」


「パンに首はついてません」


 ため息混じりに笑ってから、俺は王都でのことを話し始めた。


 “首歌”のこと。

 子どもたちの遊び。

 ミナの「線」発言。


 そして――王子の馬車のこと。


「……レオン殿下を見ました」


 リリエラの瞳が揺れる。


「王子が、城の外に?」


「はい。視察だそうです。馬車の中から、こっちを見てました」


 首筋の線と、“カチリ”の音を説明する。


「……やっぱり」


 姫は、ふっと笑う。


「聞こえてるのね、“首の音”」


「“やっぱり”ってことは……」


「レオンは、“首を斬る側”の席にいながら、ずっと“首の方”を見ていた子よ」


 リリエラは暗い天井を見上げた。


「処刑台で私の首が飛ぶとき、最初に目をそらしたのは王様で、最後まで見ていたのは、あの子だった」


「……知ってたんですか」


「首はね、自分の落ちる瞬間に、“一番よく見ていた目”を覚えているの」


 ぞくりとする。


「祈りなんてどうでもいいの。

 この国の祈りは、神様には届かない。

 『どうか落ちるのは私の首じゃありませんように』って願いばかりだから」


 さっき見た祈りの光景が、言葉として胸に突き刺さる。


「だから、“ちゃんと首を見てしまった人”だけに線が入るの」


「……ミナも、ですか」


「さあ。あの子はまだ、“処刑祭が楽しい首”だから」


 リリエラはくすりと笑った。


「でも、あなたとレオンは違う。

 あなたたちは、“最後まで目をそらさなかった首”。」


「……線が入った首は、やっぱり、全部“落ちる”んですか」


 しばらく考えるふりをしてから、姫は言う。


「“物語に出てくる首”ってことよ」


「物語……」


「ええ。カチリって音は、『ここから先は物語です』って首に刻まれる合図。

 物語に出てこない首は、何度死んでも誰にも数えてもらえない」


 洞窟の空気が一瞬重くなる。


「でも、“見られた首”──誰かの目に映った首だけが、物語になれる」


「物語になれるって……それは、いいことなんですか」


「首にとってはね」


 姫は、少し優しく言う。


「どんなひどい落ち方をしても。

 誰かが『見た』と言ってくれるなら、その首は“ひとつの世界”を生きたってことになるから」


 喉の奥に、言葉が詰まった。


(“処刑される側”の景色を、本当に見ようとした首だけが──

 誰かの斧と、誰かの手の中で、“次の世界”に行ける)


 以前聞いた言葉が、今の話とぴたりと噛み合う。


「……レオン殿下の首も」


「“まだ落とさない首”よ」


 リリエラは、少し楽しそうに笑った。


「落としたいのは山々だけどね。

 あの子はまだ、自分の首でちゃんと見ようとしているところだから」


     ◇


 夜。ランプの火を落とし、寝台に横になったあとも、耳だけが冴えている。


 子どもたちの首歌。

 市場のざわめき。

 王子の首筋の線。


「──カイ」


 暗闇から、姫の声。


「何ですか」


「怖い?」


 素直な問いだった。


「……はい」


「自分の首が?」


「それもですけど」


 ミナの首。

 レオンの首。

 師匠の太い首。


 いろんな首が、頭の中をぐるぐる回る。


「“どの首が、どこまで行くのか”の方が、怖いです」


「いいわね、それ」


 リリエラはくすくす笑う。


「あなたがそう思っているあいだは、この国の首は、まだ全部は死なないわ」


「意味がわからないんですけど」


「そのうち、わかる」


 そのすぐあと――


 ――カチリ。


 今度は、はっきり音がした。


「……今のは」


「王城の方ね」


 姫が、少し真面目な声になる。


「たぶん、あの子よ。

 『自分の首から目をそらさない方』を、選びかけてる」


 レオンの顔が、暗闇の向こうに浮かぶ。


 処刑台の上で。

 馬車の幕の隙間で。

 そして今、王城のどこかで。


(あいつの首にも、ちゃんと線が入ったってことか)


 鼓動と一緒に、“カチリ”が耳の奥で鳴り続ける。


 ──この物語に数えられた首の中に、

 処刑人見習いカイの首も、もうしっかり紛れ込んでいることを。


 このときの俺は、まだ知らない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る