第2話 恋する天使の裏の顔


 裏表のない人間なんて存在しない。人間なら誰だって、他人に見せられない裏の顔を持っているものだ。

 私――氷野川詩乃もまた、いくつもの仮面を使い分けて、無味乾燥な作り物の人生を歩んできた。


 日本有数の総合商社として、あらゆる産業や商材を取り扱う氷野川の跡取り娘。

 将来、その大き過ぎる看板を背負うことが宿命づけられた私には、使うことすら許されない言葉がいくつかあった。


 ――「できない」「苦手」「つらい」「やめたい」「疲れた」「不安」「寂しい」「苦しい」――


 あとは……「愛してる」とか。

 過度な執着は人の判断力を鈍らせるし、恋愛感情は冷静な思考を妨げる。上に立つ者として不要な感情は、徹底的に排除しなければならない。


 どんな時でも泰然と構え、決して第三者に本心を悟らせてはならない。一度でも腹の底を見せてしまえば、それは弱みになり得るからだ。


 そんな教えを幼少期から、文字通り体の隅々まで叩き込まれてきた。


 私は要領があまり良い方ではなく、親族が納得のいく結果を出すまでに、人の何倍もの時間と労力を費やす必要があった。弱音を吐けば即座に鞭が飛んでくるので、ひたすら感情を殺して自己を高め続けるしかない。


 その結果、今では〝桜丘学園の天使〟などという二つ名が付けられてしまったのだから皮肉なものだ。世の中の天使がみんな綺麗な顔で描かれているのは、私のように感情を消し去った結果なのかもしれない。


 物心ついた時から、自分の人生を生きている気がしなかった。ただ与えられた要求に応えるだけの、無機質な作り物の命。まるで人の形をした空っぽの器。


 そんな私に初めて〝恋愛感情〟という中身を注いでくれたのが――


 匂い立つような生々しい欲求を与えてくれたのが、高校生になって外部の公立校から入学してきた女子生徒、水瀬雫さんだった。



   *



 きっかけは些細な一言だった。

 ほとんど一目惚れと言ってしまってもいいかもしれない。


 私が図書委員の仕事で、一人図書室に残って配架作業をしていたある日。書架の上段の棚に、一冊の本が置き捨てられていることに気がついた。


 親族からの厳しい監視の目や、クラスメイトたちに向けられる期待の眼差しから逃れ、一人黙々と作業に没頭できるこの場所は、私が唯一安らげる居場所だった。

 十全に羽を伸ばすためにも、こういった不調和は見過ごせない。


 読書は昔から好きだったし、私の孤独に寄り添ってくれる娯楽が限られていたこともあって、本にはそれなり以上に愛着があった。所在なく横たわっているあの独りぼっちの本を、どうにかして元の場所へ戻してあげたいと思う。


「んっ、しょ……! ……ふぅ……くっ……んん……っ!」


 その場で背伸びをして目一杯に手を伸ばすが、指先が本に触れる気配はない。


 ならばとジャンプして再度手を伸ばしてみると、今度は爪が表紙を掠る手応えがあった。届きそうで届かないもどかしい距離感に焦れ、足場を持ってくることも忘れて何度か跳躍を繰り返していると、天井を見上げる私の視界に誰かの腕が割り込んでくる。


「――――っ⁉︎」


 驚愕に息を呑んだ私が振り返るのと、彼女が地面に着地するタイミングはほぼ同時だった。


 右手にしっかり本を掴んだ女子生徒――雫さんが、慌てて振り返った私を澄ました顔で見下ろしていた。

 何でもないことのように「ん」と言って、その本を私に差し出してくる。


 ……あの時の私が何を考えていたのか、改めて振り返ってみても、いまいち正確に分析することができない。


 油断して恥ずかしいところを見られた驚きと羞恥心。

 雫さんから漂う、気取らない空気感。静謐に満ちた図書室に突如として生まれた、無言のまま見つめ合うふわふわとしたひと時。


 その瞬間の光景や、私の中に流れ込んできた情感はどこまでもリアルに思い出せるのに、それを説明する言葉だけが私の中にない。


 雫さんの赤みがかった瞳には、こちらを値踏みしようとする高慢さも、上手く取り入ろうとする強かさも滲んでおらず。

 他の誰とも違う、あっけらかんとした光だけが浮かんでいた。


「…………あ、の…………」


 自分でも聞いたことのないような、情けない声。


 雫さんは少しだけ戸惑ったように首を傾け、右手に掴んでいる本を小さく揺らす。

 ハッと我に返って差し出されていた本を受け取ると、彼女はすぐさま踵を返して私の前から去ろうとした。


「…………っ‼︎ あ、あのっ‼︎」


 気付けば、場違いなほど大きな声で呼びかけていた。


 雫さんが再びこちらを向いてくれる。肩に掛かった彼女の黒髪が翻り、踊るような軽やかさで反転する体を追いかけていく。


「ん?」


 さっきと同じような、ひと言だけの短い声。だけどイントネーションが少し違うだけで、彼女の新しい一面を知れたようにドキドキしてしまう。


 彼女は私の顔を、不思議そうに見つめていた。

 いけない。これではただのおかしな人だ。

 呼び止めた以上、せめて何か言わなければ。


「あ、ありがとうございました! 本、その、取っていただいて……」


 深々と頭を下げながら、当たり障りのない感謝の言葉を口にする。


 尻すぼみに小さくなっていった私の台詞を聞いて、雫さんは一瞬きょとんと目を丸くした。それから「ふへっ」と笑って、子供のように目を細めて笑う。


「大袈裟でしょ、これくらいで」


 彼女は小さく肩を竦めながら言った。飾らない、澄んだ瞳を私に向けて、


「危ないから、次からは誰かに頼りなよ。それじゃ私、バイトあるから。またね」


 そう言って軽く手を振ると、今度こそ図書室を後にした。


 ――大袈裟でしょ、これくらいで


 一人残された私の脳内に、彼女の声が何度も何度も蘇ってくる。

 ひとつまみほどの衒いもない、本当に何気なく口にしただけの他愛のないひと言。

 それが、私の世界の全てを変えてしまった。


 ――次からは誰かに頼りなよ


〝誰かに頼りなよ〟――……?

 私にそんなことを言ってくれた人が、未だかつていただろうか。


 いるわけない。〝できない〟は私にとって禁句だし、周囲の人間に弱みを見せるわけにはいかないのだから。


 何でもできて当たり前。誰かを頼るなんて論外だ。

 だから、私は知らなかった。


 ――できない自分を受け入れてもらえることが、こんなにも心地よいものだったなんて!


 彼女は私を助けてくれた。

 できないことを当たり前に受け入れて、あまつさえ〝誰かに頼りなよ〟とまで言ってのけたのだ。天下の氷野川の跡取りに向かって!


『高い場所に置いてある物を取ってもらう』なんて、瑣末な出来事かもしれない。人によっては鼻で笑われてしまうくらいの可愛らしいエピソードだろう。

 それでも、私にとってはまさに青天の霹靂だったのだ。


 十五年間、無色透明な人生を送ってきた私は、その日初めて〝恋〟を知ったのだった。



   *



 ――と、そこまではまあ、淡い初恋のエピソードとしてぎりぎり成立するだろうけれど。

 そこは私だって、腐っても氷野川の一人娘。何か欲しいものができた時の、手段を選ばない強欲さは血筋としか言いようがない。


 どうにかして雫さんを私のものにできないかと、真っ先に行ったのが彼女の身辺調査だった。


 直属の使用人を総動員させて、雫さんの過去も現在も丸裸にしてもらう。

 どうやら彼女の家は伯母にお金を借りていて、返済資金の工面に苦悩しているらしい。

 わざわざ外部から厳しい試験を受けて桜丘学園に入学してきたのも、学費免除の特待生制度に惹かれたからだろう。


 さて、これは困った。

 使用人から上がってきた報告書を読んで、私は頭を抱えてしまう。


 別に借金があることはどうでもいい。自分が払ってあげればいいだけだ。

 私が自由に動かせるお金だけでも、彼女の人生を買い取るには充分すぎる。

『お金に弱い』という明確な弱点を手に入れたのだから、それ自体はむしろ喜んで然るべき情報のはず。


 では何が問題なのかと言えば、大きく分けて二つ。


『彼女が別れさせ屋で働いていること』と、『そのくせ雫さん自身は恋愛嫌いで、恋人を作りたがっていないこと』だ。


 特に後者は大問題だった。


 私が借金を肩代わりして、伯母である水瀬穂波に代わり彼女を手に入れてしまうのは簡単だ。だけど私は彼女の身柄をお金で買いたいわけではない。


 私は、彼女の心が欲しい。

 彼女からの愛情が欲しい。

 私は雫さんと添い遂げたいのだ。


 私がお金で彼女を縛ったところで、借金を返済されてしまえば関係はそれまでだ。それでは彼女の生涯の伴侶として、同じお墓に入ることは叶わない。

 恋愛嫌いをどうにかして克服してもらわないと、私は雫さんと恋愛することができない。


 でもそんなの、一体どうすればいいのだろうか?


 あれこれ策を巡らせながら彼女のことを調べ上げていくうちに、今度は『別れさせ屋で働いている』というのが大きな障害になってきた。


 つまり、嫉妬だ。

 別れさせ屋として、彼女が自分以外の誰かにアプローチを掛けるのが許せなくなった。いくら仕事とはいえ、その笑顔は私だけに向けられるべきだ。


 どうしよう。ただのクラスメイトである私が、「お金のことなら私がどうにかしますから、仕事を辞めてください」なんて言えないし――

 などとウダウダ考えていた私の頭に、ふっと天啓が降りてくる。


 彼女のターゲットを、私にしてしまえばいいのだ。

 彼女の心は買えなくても、別れさせ屋としての彼女の時間を買ってしまえばいい。


 そうと決まれば行動は早かった。


 使用人が集めた資料の中から使えそうな業者を選び、『レンタル彼女』を依頼する。


 この業者に依頼を出したのは、私たちと同じ学校に通う一つ上の先輩――月城初音が、名前を変えてひっそりと働いていたからだ。


 同じ学校に通っているという共通点があれば、月城先輩から雫さんに依頼を持っていく必然性が作りやすい。知らない人から名指しで依頼を持ち込まれ、たまたまターゲットが私だったというよりもリアリティがある。


 喫茶店を借り切って月城先輩を呼び出し、事の経緯と依頼の内容を一から説明する。『私の彼女を装い、別れさせ屋としての雫さんのスケジュールを私で埋め尽くしてきてくれ』と。


「――は? いや、キモ……あんたってそんなキャラだったの……」

「その態度はいただけないですね。仮にも私の恋人を演じるなら、それなりの社交性を見せてもらわなければ説得力がありません。確か事務所のオプションで、レンタルした彼女の性格を選べましたよね。適したものを選びますので、いくつか演じてみていただけますか」

「勘弁してよ……」


 同じ学校の生徒にバレたことが嫌だったのか、かなり低いテンションで喫茶店に現れた月城先輩を指導し、共に架空の恋人というキャラクターを作り上げていく。


 ボロが出ないように細かく設定を決め、恋人らしいやり取りが自然にできるまで繰り返し練習を行う。月城先輩は酷くゲンナリした様子だったけれど、私だって今、隣で腕を組んでる相手が雫さんだったらと何度夢想したことか。


 終始面倒くさそうにしていた月城先輩だったが、「お金さえちゃんと貰えるなら」とこちらを牽制してきたので、札束で頬を叩いて無理やり納得してもらった。レンタル料に加え、雫さんへの依頼料も必要経費として色をつけて支払っておく。


 万全の準備が整い、いざ作戦開始。アクアミラージュに依頼を出してから数日後、雫さんは思惑通りに私にアプローチを掛けてきた。


 完璧な作戦のはずだった。雫さんの時間は私が独占し、私が何もしなくても、彼女の方からおのずと近付いてきてくれる。


 後は彼女と距離を縮めながら少しずつ私の魅力を伝えて、恋愛嫌いを克服してもらえば良い。


 悪魔的な企てに一人ほくそ笑んでいた私だったが――

 その策が綿菓子より甘く、ふわふわとした頼りないものであったことに気付くまで、それほど時間は掛からなかった。


「――氷野川さん、おはよ。今日も綺麗だね。天使が歩いてるのかと思っちゃった」


「――氷野川さん、それお弁当? へえ、手作りなんだ。氷野川さんと結婚できたら、きっと毎日幸せだろうね」


「――氷野川さん、凄いね! 難しい英文だったのに、あんなにスラスラ訳せるなんて!」


「――氷野川さん、また明日。気を付けて帰ってね。……あはは。ちょっとだけ寂しいかも。もっとたくさんお喋りしたかったな。早く明日にならないかなー……なんてねっ」



「………………ふぇぇぇ………………」


 生殺しとはこのことだった。


 雫さんが私を標的に定めたその日から、私の天国のような地獄の日々が始まる。


 私は雫さんのことが大好きだ。この世の誰よりも愛してる。

 だけど、その気持ちが雫さんに知られることだけは避けなければならなかった。別れさせ屋としての依頼が完遂されれば、雫さんが私と関わる理由は無くなってしまう。


 雫さんへの好意が露見しないよう、必死で〝恋人に一途な女〟を演じ続けなければならない。

 そしてその上で彼女を誑し込み、私に惚れさせて恋愛嫌いを克服してもらう必要がある。


 正直、自信はあった。自分を律し、試行錯誤の果てに結果を出すのは私の生存戦略だったから。


 しかしこの局面に至り、ようやく己のとんでもない思い違いに気付く――――


 ――好きな人が『自分を堕とすためにアプローチをかけてくる』のって……き、気持ち良すぎるぅぅぅ……っ‼︎


 自分はもっと理性が強い方だと思っていた。

 これまでの人生で強固に築かれた自制心は、ちょっとやそっとのことでは崩れないと信じていた。


 ふふふ。本当に、過去の私ときたら。馬鹿も休み休み言ってほしい。


 過去の経験から得た自制心なんて……そんなもの、好きな人の前では何の役にも立ちはしないというのに!


 果たして本物の〝恋の味〟を知ってしまった私に、この恋心を隠し通すことはできるのだろうか。


 私がとっくの昔に奈落の底へ堕ちていることを悟らせないまま、彼女を同じ場所まで引き摺り込むことができるだろうか。


 不安な要素は沢山あるけれど、それでもやるしかない。雫さんを手に入れるためには手段を選んではいられない。

 氷野川の名にかけて、必ず彼女を私のものにしてみせる……!


 ――こうして私と雫さんによる、めくるめく堕とし合いの日々が幕を開けたのだった。


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