恋する天使の裏の顔 〜恋愛アンチが嘘つき天使を堕とすまで〜

io

第1話 恋愛アンチの裏の顔


「私さ。氷野川さんと一緒にいると、不思議と心が落ち着いてくるんだ。どうしてだろうね?」


 暖かな夕陽が窓から差し込む、放課後の図書室で。

 書架を背にした彼女の目の前に立ち、そんな甘ったるい台詞を口にする。

 さらりと揺れる彼女の長い白髪は、西日を浴びて燃えるように輝いていた。


「氷野川さんの声を聴いてると、凄く心地よくてさ……ずっと聴いてたいって思っちゃうんだ。あはは、贅沢かな、そんなの」


 自分でもキモいことを言ってるなぁと思いながら、つらつらと歯の浮くような台詞を並べていく。

 しかし私を見上げる彼女の表情に変化はない。相変わらずの端整な顔立ちで、人形のごとき無表情を貫いていた。


 いくら打てども響く様子が見えず、手応えのない駆け引きに焦れた私は、やや強引な手段をとる。

 一歩距離を詰め、彼女の足の間に自分の太腿をねじ込んでみた。

 それから壁ドンの要領で背後の棚板に手を置き、彼女の耳元で優しく囁く。


「……氷野川さんって、凄く良い香りがするんだね。知ってる? 匂いが好みの人って、遺伝子的にも相性が良いって――」

「――水瀬さん」


 私のキモッキモな発言を遮って、彼女が短く声を発した。

 いきなり名前を呼ばれた私は、びくりと肩を震わせて言葉を止める。


 顔を離して彼女の表情を窺うと、そこには微妙に温度の下がった視線をこちらに向ける、サファイアのような冷ややかな瞳があった。

 忌々しげに瞼を閉じて、私の熱い眼差しを弾き返してから、彼女が続ける。


「……ちょっと、近いです。それと不用意に体臭について話を振るのは、同性だとしてもセクハラになり得ます。控えた方がよろしいかと」


 むぐっ、と口の中で呻き声を漏らす。

 そんなの、私だって言いたくて言ったんじゃないのに……!


 心の中で唱えた弁明など届くはずもなく、彼女は無慈悲に私の腕の檻からすり抜けていく。

 距離をとって小さく頭を下げると、「それでは失礼します」と言い残して、そのまま図書室を出て行ってしまった。


 みすみす彼女を逃した私は、深く肩を落としてその場に力なく座り込む。

 彼女の残り香が漂う図書室で――羞恥に顔を染めたまま、吐き捨てるように叫んだ。


「こっ……こんだけアピールしてるのに……! どうして私に惚れないんだよっ‼︎ 氷野川詩乃ぉ‼︎」



   *



〝恋愛なんて馬鹿がするものだ〟


 一分おきにスマホを開いて、好きな人からの連絡が来ていないかチェックしているあいつも。

 自分はあの子にどう思われているのだろうと、益体もない妄想に耽っているあいつも。

 周囲の視線など意に介さず、平然と駅の改札前で乳繰り合ってるあいつらも。


 いつの時代のどこを見たって、恋してるのは馬鹿ばっかりだ。

 本気で恋愛してるやつなんて全員馬鹿だ。

 周りのことなんて何にも見えちゃいない。

 自分が奈落の底へ落ちていることにも気づかずに、泥に塗れて欲を貪る虚しい獣。

 見るに耐えないとはこのことだ。


 私にとって、恋とは落ちるものではなく堕とすもの。

 恋心とは胸の中で大切に抱き締めるものではなく、金に換えるための資源なのだ。


 恋愛は金になる。

 賢い人たちは、みんなそうやって稼いでる。

 ホスト、アイドル、結婚相談所にマッチングアプリ。

 最近では、恋愛リアリティショーなんてものが配信プラットフォームを席巻してる。人間は他人の恋愛ですら、無関心ではいられない業の深い生き物だ。


 欲のあるところには常に金が生まれ、純真な恋心は金銭やブランド品となって容赦なく搾取されていく。それに気づかず深淵まで足を進めれば、待っているのは凄惨な破滅だけ。


 私は絶対に人を好きになったりしない。搾取される側にはまわらない。

 どこの誰が相手でも、最後まで搾取する側で居続けてやる。

 そう。たとえ、その相手が――学園の天使と名高い、〝氷野川詩乃〟であっても。



   *



 私――水瀬雫が、探偵事務所『アクアミラージュ』で働き始めたのは、中学一年生の頃だった。


 働くといっても、伯母が経営している事務所の中で、ほとんど雑用みたいなことをさせてもらってただけだけど。

 私が中学に上がってすぐ、母親がどこぞのホストにハマり、多額の借金をこさえて蒸発した。


 返済能力がなかった父に代わり、伯母がその借金を一括で返済してくれた。父はそのお金を伯母に返すため、昼夜を問わず馬車馬のように働いている。

 私も子供ながらにその一助になれればと、伯母に頼み込んで仕事を手伝っては、雀の涙程度のお小遣いをもらっていたわけだ。


 ただ、私たち家族が伯母に作った借金は、学生が普通のバイトをしたところで到底返し切れる額ではない。

 いつまでもチマチマ小銭を稼いでいたって仕方ない。大金を得るためには、手段を選んでなどいられなかった。


 幸いと言っていいのかはわからないが、伯母の事務所は法的にかなりグレーな稼業にも手を染めていた。

 探偵事務所に所属する特殊工作員――俗に『別れさせ屋』と呼ばれる少数精鋭の秘密組織。

 表向きには普通の事務員として雇われている彼・彼女らは、ひとたび依頼を受ければ凄腕の別れさせ屋へと変貌し、標的に近付いて仲を深めていく。

 そうして得た秘密や浮気の証拠写真を依頼人へと渡し、見返りとして通常の業務では得られない破格の報酬を受け取るわけだ。


 どうせこの事務所で働くのなら、別れさせ屋として働いた方が格段に割がいい。標的を堕とす能力さえあれば、いくらでも大金を稼げるのだ。

 羽振りの良い生活を送る先輩たちに憧れ、中学の三年間を、別れさせ屋として牙を研ぐことに捧げてきた私は――


「――ああぁぁぁ……完っ全に失敗だった……三年間もあれば、もっと他の稼ぎ方も色々考えられたんじゃないか……?」


 事務所の天井を仰ぎながら、そんなことをボヤいていた。

 今どき別れさせ屋なんて、そう頻繁に依頼が来るわけもない。

 まして未成年の私が潜入できる場所なんて、かなり限られているわけで……。


 自分へ割り振られる依頼の少なさと、それによって得られる収入の心許なさ。

 高校に上がってすぐ『別れさせ屋』としての業務を受け持ち始めた私の心は、すっかり不安と貧しさに支配されてしまっていた。


「将来のために、妹たちの学費も貯めておきたいし……まだしばらくは節約生活かな……」


 たまにはモヤシや特売の卵じゃなくて、半額でも良いから、分厚いステーキを食べさせてあげたいのだけれど。今月は難しいだろうか。

 育ち盛りの妹たちに申し訳なく思いながら、ソファーの背もたれにさらに深く凭れ掛かる。

 せっかく人を堕とすための技術や知識を磨いてきたのに、それを発揮する場所がないんじゃ宝の持ち腐れもいいところだ。


 ……はぁ。そろそろ真剣に、転職を考えた方が良いだろうか。

 通帳の余白に怯えてそんなことを考えていると、事務所の外から小さく、階段を上る足音が聞こえてきた。


 私が慌てて姿勢を正したところで――


「――うわ、マジで働いてるじゃん! ウケるー!」

「……は? え、えっと……どちら様で?」


 勢いよく事務所の扉が開き、ギャルのテンプレみたいな女子高生が飛び込んできた。

 困惑しながら立ち上がって、ずかずかと室内に踏み込んでくるギャルの姿を観察する。


 ド派手な金髪に、オレンジをベースにしたナチュラル系のメイク。着崩したホワイトベージュのカーディガンがよく似合っている。

 この制服姿と、肩に提げている学生鞄を見て、彼女が私と同じ学校に通っている生徒であることがわかった。


 ただ、その顔は記憶の中には見当たらない。まだ五月の半ばとはいえ、一ヶ月以上も通えば同学年の顔くらいは大体覚えてくるものだ。彼女のように目を惹く容姿なら尚のこと。


 となると、先輩だろうか。

 とりあえず向かいのソファー席に座らせて、お客様用のお茶をテーブルに置いてから、私も改めて腰を下ろす。

 ニコニコと口元を緩ませて私の一連の接客を観察していた彼女は、待ちわびた様子で声を掛けてきた。


「ねっ、水瀬雫ちゃんで合ってるよね? 桜丘学園、一年生の! 高校からの外部入学組で、友達が少なくて、休み時間はいつも本を読んで過ごしてる典型的な隠キャの――」

「喧嘩を売ってるなら買いますが?」


 いきなり私のプロフィールが語られて、込み上げた怒りが口から飛び出てきた。

 かなり悪意と偏見に塗れた情報を仕入れてきたようだけれど、彼女はどこで私の話を聞いてきたのだろうか。


「ふっは、めっちゃウケる。意外と血の気多いんだね。……あ、ごめんごめん! そんな睨まないでよ。ただ雫ちゃん本人だって確認したかっただけだからさ」

「……私が水瀬で合ってますよ。友達が少ない、典型的な陰キャの水瀬ですが何か」

「だからごめんて。まあ、その綺麗な黒髪とか、いかにも真面目ちゃんっぽい雰囲気とかで、絶対間違いないだろうなとは思ってたんだけど。一応ね」


 私の肩まで伸びたストレートの黒髪を見ながら、彼女が言う。

『私は裏で真面目ちゃんなどと呼ばれてるのか……?』と、内心で震えながら尋ねる。


「で、何のための確認だったんですか? 何か私に用事でもありました?」

「いやー、ちょっと雫ちゃんにお仕事をお願いしたくてさ。大事な依頼だから、雫ちゃん以外に頼めないんだ!」


〝依頼〟という言葉を聞いて、私の警戒心が一気に高まる。

 にこやかなビジネススマイルを浮かべ、取り繕うように答えた。


「依頼と言われましても、私はただのバイトですので。用件をお伺いすることは可能ですが、実際に業務にあたるのは他の従業員になるかと」

「あー、そういうのは大丈夫。そっか、先にこれを渡すべきだったね。失礼、失礼」


 彼女は鞄の中をゴソゴソと漁ると、クシャッと丸められた小さな紙クズを取り出した。


 渡されたその紙クズを広げると、他愛のないメモ書きに偽装された私への指示書になっていた。この筆跡は間違いなく伯母の――この事務所の所長、〝水瀬穂波〟のものだ。


 頭の中で文字を組み替え、暗号を読み解きながら、穂波さんからの指示書に目を通していく。


「……なるほど。穂波さんからの紹介だったんですね。私に『別れさせ屋』としての業務を依頼したいと」

「そういうこと。うちは月城初音。桜丘学園の二年生ね。初ねーちゃんって呼んでいいよ!」

「よろしくお願いします、月城先輩。それでは改めまして、月城先輩からの依頼内容をお伺いさせていただきます」


 姿勢を正して、微妙に不満そうな顔をしている根明ギャルに向き直った。

 彼女が穂波さんとどんな繋がりを持っているのかはわからないけれど……もしかしたら中々依頼を受ける機会がない私のために、穂波さんが仕事を取ってきてくれたのかもしれない。


 理由は何であれ、私にとってこれはチャンスだ。ただでさえ私が受けられる依頼は少ないんだから、この仕事は確実に完遂して、事務所内での実績を積まなければ。

 メラメラと野心を燃やして、金づる……じゃなかった。依頼人の話に耳を傾ける。


「あんねー。うちねー。実は今のかのぴと別れたいなーって思っててぇ」

「……か、かのぴ……?」

「彼女のことね。うち、女の子と付き合ってるの」

「あ、ああ。なるほど」


 聞き馴染みのない言葉に動揺しながらも、どうにか話を進めていく。

 月城先輩は女性とお付き合いをされていて、何か理由があって別れたいと思っていると。


 まあ今は多様性が幅を利かせる令和の時代だし、先輩が同性と付き合おうが、逆に別れようが何とも思いはしないけれど……。

 そんなもの、ひと言『別れましょう』と言えば済む話ではないだろうか。


 それができず、わざわざこの事務所に話を持ってきたということは――


「何か、すんなりと別れられない理由でもあるんですか?」

「んー。まあ、そんな感じかなー?」


 月城先輩はどこか含みのある言い方で会話を切ると、スマホの画面を開いて私に見せつけてきた。

 彼女のスマホには、腕を絡ませた二人の女性が写っていた。

 一人は当然、月城先輩だ。そして、その隣に並んでいるのは――


「……あれ? この人、確か……氷野川詩乃さん?」

「うん、そー。もちろん雫ちゃんも知ってるよね、詩乃っちのこと」

「ええ、まあ……有名人というのもありますが、彼女は私のクラスメイトですから」


 日本を代表するトップ企業、氷野川商事を経営する創業者一族の末娘。

 格式の高い家柄の子女が多く通う桜丘学園の中でも、飛び抜けて〝お嬢様〟という言葉が似合う彼女は、一年生ながら全校生徒の畏怖や羨望を集める、いわば高嶺の花のような存在だった。


 その純白の髪を靡かせた人目を惹く容姿と、穏やかで慈悲深い性格から、〝桜丘学園の天使〟などと呼ばれているらしい。彼女がまだ学園の初等部に通っていた頃から、熱心なファンを数多く獲得していたそうだ。


 特待生に与えられる学費免除と手厚い補償内容に食いついて、外部から紛れ込んだ私のような異物とは、まさに対極に位置する存在だった。


「学園の天使に恋人がいるなんて噂、聞いたことありませんでしたが……まさか月城先輩とお付き合いされていたとは」

「んー、まあ……そーだねぇ」


 月城先輩は歯切れの悪い相槌を挟むと、複雑そうな笑みを見せつつ語る。


「ほら、詩乃っちって凄い人気者だし、何となく〝みんなのもの〟みたいな感じあるでしょ? それにお家の人も厳しいらしくて、バレたら面倒なことになるって言うからさ。周りには内緒で付き合ってたんだよね」

「ああ……確かに、ファンクラブなんてものまであるみたいですからね。平和に付き合っていきたいなら、わざわざ公表するのはデメリットの方が大きいかもしれませんね」


 私がそう言うと、月城先輩は渋い顔をしてこくこくと頷いていた。

 それからスマホをソファーの上に放り投げ、「でもねぇ」と沈んだ声を漏らす。


「それって付き合ってる意味ある? とか考えてたら、なんかうちの方が冷めてきちゃって。お互いのためにも、パパッと別れて次に行こーかなって思ったんだ。……だけどさぁ……」


 そこで月城先輩の声色が変わり、唐突に不穏な気配を漂わせ始めた。言葉を選ぶように視線を左右に泳がせると、「……ま、いいか」と呟いてこちらを見つめてくる。


 私は少しだけ体を前に倒して、彼女の話に静かに耳を傾けた。


「詩乃っちって何というか、めんど……いや、んー……めっちゃ〝重い〟んだよね。うちが『別れよう』だなんて切り出したら、ほんと、何されるかわかんないっていうか……」

「え……そんな感じなんですか、氷野川さんって」

「意外でしょ。お堅い家庭で育った影響なのかなー? 一途と言えば聞こえはいいけど、うちとはちょっと性格的に合わないかもなーって思って」


 人には誰しも裏の顔があるものだ。私が学校で優等生を演じながら、放課後には『別れさせ屋』なんていかがわしい仕事に従事しているように。


 だけど、まさか氷野川さんが、恋人の前ではそんな面倒な一面を見せる女だったなんて。クラスメイトたちが知ったらどう思うだろうか。


 そんなことを考えていた私に、縋るような期待を視線に込めた月城先輩が言った。


「だから詩乃っちのクラスメイトで、『別れさせ屋』でもある雫ちゃんにお願いしたいんだ! どうにか詩乃っちと距離を縮めて、詩乃っちの目をうちから逸らしてあげてくれないかな」


 氷野川さんの目を、私に向けさせる。

 それはつまり――


「氷野川さんを、私に惚れさせろってことですか。氷野川さんの方から月城先輩に『別れたい』と言わせるために」

「そうそう、そういうこと! 詩乃っちの恋心がうちから雫ちゃんに移れば、うちと詩乃っちは円満に別れられるっしょ?」


 その場合、氷野川さんの重い恋心の矛先が私に向いてしまうわけだが……依頼を達成した後、私は氷野川さんから無事に逃げられるのだろうか。

 まあ、その辺りを上手くコントロールして落とし所を作るのも、別れさせ屋としての仕事の範疇と言えるのかもしれないけれど……。


 今回はクラスメイトが相手だ。完全な他人を標的にする、普段の依頼とは微妙に毛色が違う。

 せっかく穂波さんが私のために取ってきてくれた案件だけれど、これを引き受けるかは慎重に検討した方がいいかもしれない。下手したら、私の平和な学園生活が一瞬で崩壊してしまう可能性だってある。


 そんな風に、私が渋い顔をして悩んでいたところへ。


「あ、ちなみに依頼料はこれくらい出せるよ。しかも依頼が完遂されるまでは、ちゃんと毎月更新して支払いをさせてもらうし」

「…………ごっ⁉︎ え、ちょ、つ、月城先輩⁉︎ これ本気で言ってます⁉︎」

「もちろん。それで、依頼が成功した暁には…………ほれ」


 スマホの電卓を弾いて、月城先輩が見せてきた成功報酬の額に――


「…………う、受けます‼︎ その依頼、アクアミラージュの水瀬雫が承りましたっ‼︎」


 ――すっかり目が眩んだ私は、まんまとこの怪しい話に食いついてしまったのだった。



   *



 で、現在。

 図書委員である氷野川詩乃にアプローチをかけて、あっさり玉砕した私は、沈んでいく夕日を眺めながら途方に暮れていた。


「……ガードが固すぎる……どうして私が話しかけた時だけ、あんな冷たい態度になるんだよ……」


 他の生徒たちには天使みたいな顔で接してるくせに、私が彼女を堕としてやろうと距離を詰めていくと、途端に氷のような眼差しを向けてくるのだ。


 美人の無表情とか本気で怖すぎる。これが仕事じゃなかったら、私はとっくに彼女と仲良くなることなど諦めていただろう。


 どうにも警戒心が強く、心の扉を開いてくれそうにない。鉄壁すぎる攻略対象に、既に私の心は半ば折れかけていた。


「……いやいや、絶対に諦めるもんか。この依頼を成功させれば、借金を全額返済した上で、妹二人に自由な進路を選ばせてあげられるんだから」


 月城先輩から提示された金額は、毎月の依頼料も相場よりかなり高めだったけれど、それ以上に成功報酬の額がとんでもなかった。


 どうして月城先輩がそんな大金をポンと出せるのかはわからないけれど、そんなことはどうだっていい。この学校に通ってるくらいだし、どうせ親が金持ちとかそんなんだ。

 それより重要なのは、月城先輩の気が変わって依頼が打ち切られてしまう前に、氷野川詩乃を私に惚れさせること。依頼を完遂させ、成功報酬を満額得ることだ。


 そのためには、あの冷め切った無感情な瞳に、私への恋心を宿らせる必要があった。例え、どんな汚い手を使ってでも。


「……別れさせ屋として……プロのプライドにかけて、絶対に口説き堕としてやるからな‼︎ 覚悟しろ、氷野川詩乃っ‼︎」



   *



『――覚悟しろ、氷野川詩乃っ‼︎』


 図書室の中から、私の名前が聞こえてくる。

 ああ――本当に迂闊な人。外で誰かが聞き耳を立てているなんて、きっとあなたは想像すらしていないのでしょうね。


 廊下を見渡して、他に誰もいないことを確かめる。巨大な校舎の端にあるこの第二図書室に足を運ぶ物好きなんてそうそういないけれど、念を入れておくに越したことはない。


 近くに人の気配がないことを確認して――ついに耐えきれなくなった私は、その場で無様に腰を抜かしてしまった。


「――――っ、はあっ……はあっ……はっ……ふ……ふふ……ふふふ…………」


 荒い息遣いと共に、欲望に塗れた醜悪な笑い声が喉の奥から溢れてくる。慌てて口元を押さえて、まだ図書室の中にいる雫さんに気付かれないよう気配を殺す。

 歪に吊り上がった口元に触れる手は汗でしっとりと濡れ、激しい興奮に細かく震えていた。


 心臓の音が脳を支配し、これまで懸命に持ち堪えていた自制心が崩壊していく。

 お腹の奥で暴れ狂う激情が、ついに私の理性に牙を剥いた。自分はこんなにも誘惑に抗えない、浅ましい人間だっただろうかと、熱っぽい頭の片隅で思う。


 震える指先に噛み跡を残しながら、小さく掠れた声で彼女への愛を叫んだ。


「ああ……好き……雫さん、大好きっ……『良い香りがする』だなんて、そんなの、頭がおかしくなってしまいそう……っ‼︎」


 先ほどの雫さんの言葉を思い出して、脳内で何度も反芻する。


 私だって、あのまま雫さんの香りに溺れてしまいたかった。彼女の細い腕に抱き締められて、彼女の匂いに包まれたまま、耳元で愛を囁いてもらいたかった。


 だけど――


「心から愛しています、雫さん――でも、ごめんなさい。この想いだけは、知られるわけにはいかないのです。『別れさせ屋』のあなたにだけは、絶対に――――」



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