第29話

 日嗣ひつぎの宮の広間には、日織ひおりの召集により、月読命つくよみ四神柱ししんちゅう桔梗ききょう桜花おうか、そして、新たに思金神おもいかねが集まっていた。


 ​思金神おもいかねは、深みのある濃紺のうこん狩衣かりぎぬを纏い、長身で痩せた青年神だ。彼の黒髪は長く滑らかだが、後頭部で一つにきっちりと束ねられている。そして、その片目に装着された銀縁の片眼鏡の奥で、彼の瞳は鋭い知性の光を宿し、広間に緊張感を広げていた。

 ​日織ひおりは、重苦しい沈黙の中、まず側近の八咫烏やたがらすへ発言を促した。


 ​「八咫烏やたがらすよ。まずは、最新の被害報告と、異形怪異の発生状況を報告せよ」

 ​「はっ。只今集計された最新の報告によりますと、幸いなことに、異形の怪異の発生は、前回報告時より鎮静しております。しかし、河辺や山奥で、周辺に棲まう妖怪たちの気性が著しく荒くなっており、近隣の人里にわずかながらも被害が出始めております。異形の跋扈ばっこは止まりましたが、新たな不安が生じております。よからぬことが起きなければ良いのですが……」

 ​日織ひおりは、神々へ向かい、これまでの考察を改めて説明した。


 ​「うむ……この因果の歪みは恐らく、世界の根源、すなわち黄泉の国へと深く根を下ろしている。皆も知っての通り、母上である伊邪那美いざなみは、今や黄泉津大神よもつおおかみとして、黄泉の国の王となられた」

 ​視線を月読命つくよみに向け、続けた。


 ​「そして、黄泉の国へと続く黄泉比良坂は、今や瘴気しょうきが溢れ出し、神威かむいすら不安定になる、危険な道と化している。その道の、まさに枝分かれした先に存在する国こそ、我がもう1人の弟……須佐之男すさのおが束ねる根の国がある」

 ​「この世界に流入する異質な瘴気しょうきは、黄泉の国の王となった母上、あるいは須佐之男すさのおが、我々よりも早く、その根本に触れている可能性がある。我らの間には大きな遺恨があるが、この世界の存亡を前に、個人の感情は捨てる。故に、我々は根の国を統治する須佐之男すさのお、引いては母上の協力を、是が非でも仰がねばならぬ」

 ​その提案に、月読命つくよみが懸念を表明する。


 ​「姉上、正気か? 彼奴は……須佐之男すさのおは、過去の経緯を考えれば、容易に力を貸すとは思えぬ。それに……」

 ​その時、思金神おもいかねが、眼鏡を押し上げながら、冷静沈着な声で口を開いた。


 ​「月読命つくよみ様の懸念はごもっともです。しかし、日織ひおり様の提案は、論理的観点から見て、現状で最も合理的かつ最短の解決ルートであると結論付けられます」

 ​思金神は続けた。

 ​「八咫烏やたがらすの報告からも明らかな通り、異形の鎮静と引き換えに、妖怪たちのことわりに乱れが生じています。これは、世界の階層が持つ『調和の綻び』であり、瘴気しょうきという外のことわりが、この世界の根幹を揺るがし始めている動かぬ証拠です。黄泉の国と地続きである根の国の王、須佐之男すさのお様に協力を求めることは、感情的な遺恨を排し、純粋にこのことわりの根源に最も近づくための、必須の戦略的選択となります」


 ​日織ひおりは、思金神おもいかねの補足に深く頷き、言葉を続ける。

 ​「故に、この決定は、世界のことわりを司る神々で、その正当性を確立せねばならぬ。我の神威かむいが彼の国に干渉すれば、新たな戦の火種となるだろう」

 ​日織ひおりは、視線を月読命つくよみ桔梗ききょう、そして桜花おうかへと移した。


 ​「故に、この難事を、其方らに託したい」

 ​「月読命つくよみ。そなたは、須佐之男すさのおの弟であり、最も穏健な外交役となる。この事態の重大さを、ことわりをもって説得せよ」


 ​「桔梗ききょう。そなたは、穢れと因果律、そして新しいことわりの目撃者。須佐之男すさのおは、力に裏打ちされた真実しか認めぬ。須佐之男すさのおから受け継いだ、天叢雲剣あまのむらくものつるぎの力ではなく、自身の力を示せ。己が彼のことわりをねじ伏せる覚悟を持て」

 ​そして、日織ひおりの視線が、最後に桜花おうかに注がれた。


 ​「そして、桜花おうか。そなたが、この密命の鍵となる」

 ​桜花おうかは、緊張しながらも日織ひおりの言葉を待った。

 ​「そなたは、因果の代償によって生み出された存在でありながら、そのことわりを浄化し、世界を救う力を宿す。須佐之男すさのおは、世界の根源を知る者。彼のことわりに、そなたの新しいことわりをぶつけ、認めさせるのだ」

 ​日織ひおりの言葉には、娘をを戦場へ送り出す、母のような苦悩が滲んでいた。


 ​「根の国への道のりは、穢れと瘴気しょうきの巣窟だ。月読命つくよみ桔梗ききょうは、そなたの護衛役であると同時に、そなたの力を実戦で鍛えるための指南役となる」

 ​「そなたの未熟な力では、須佐之男すさのおの前に立つことすら叶わぬ。この旅路こそが、そなたに課された最初の試練、そして救世主としての修行だ。根の国への道で、八つの権能けんのうを完全に制御できるようにならねば、我々は解決の糸口すら掴めない」


 ​日織ひおりの言葉に、桜花おうかは力強く頷いた。

 ​「はい! 桜花おうか須佐之男すさのお様に、この世界を救うことを、必ず認めさせます!」


 ​桜花おうかを抱きしめる桔梗ききょうの腕に力が籠る。月読命つくよみは、静かに目を閉じ、この重すぎる密命の受け入れを表明した。

 月読命つくよみを先頭に、桔梗ききょう、そして桜花おうかが、準備の為に神殿を後にする。


 ​日織ひおりは、密命を下した後、その瞳を広間に残る、四神柱ししんちゅうと、思金神おもいかね八咫烏やたがらすへ向けた。

 ​「そなたたちに残された任務こそ、この日ノ本ひのもとの根幹を守るものとなる。思金神おもいかねよ、防衛策の優先順位を」


 ​「承知いたしました。我々が定めた対策の最優先事項は、各地の龍脈りゅうみゃくの保護です。根の国への密使が成功するまでの間、この世界の因果が崩壊せぬよう、四神柱ししんちゅうの方々には防御線を張り巡らせていただきます」


 ​日織ひおりは、四神柱ししんちゅうへと厳命を下した。

 ​「そして、最も重要なこと。新たな瘴気しょうきが溢れ出た時の緊急体制を、常に万全とせよ。この高天原と下界の均衡きんこうは、そなたたちの双肩にかかっている」

 ​一斉に深く頭を下げ、最高神の厳命を拝受した。


 ​月読命つくよみ達3人の気が高天原から遠ざかるのを見届けた日織ひおりは、広間に再び訪れた静寂の中で、深く目を閉じた。

 ​(須佐之男すさのおよ……そなたの根の国は、黄泉の国と地続き。世界の底だ)

 ​(もし、観測者側の世界が崩壊し、その『観測』が、今もたった一人、その誰かによって続けられているのだとしたら……)

 ​(根の国のことわりを知る須佐之男すさのおこそが、黄泉津大神よもつおおかみとなった母上・伊邪那美いざなみが座す黄泉の国に最も近く、その真実に辿り着く唯一の道筋となる……)

 ​最高神の孤独な苦悩は、解決どころか深まるばかりであった。

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