第14話

白虎びゃっこゆき大蛇オロチ高天原たかまがはらへと運び去った後、西の洞窟には桔梗ききょう一人が残された。洞窟全体は、先の激しい戦闘と、大蛇オロチの結界が崩壊した影響で、崩壊寸前の状態にあった。天井からは土砂が降り注ぎ、壁面は瘴気しょうきに侵され、不気味な脈動を繰り返している。だが、桔梗ききょうの瞳には、崩れゆく洞窟の様子など映っていなかった。彼女の視線はただ一点、洞窟の最奥から放たれる、淀んだ気の奔流へと向けられていた。


​「……ここが、西の龍脈りゅうみゃくの根元、か」


桔梗ききょうは、全身に金色の妖力を漲らせ、迫り来る崩落と瘴気しょうきを弾きながら、その道なき道を進んだ。彼女の足跡からは、清浄な光が瞬時に大地を浄化し、瘴気しょうきを後退させていく。奥へ進むほど、瘴気しょうきの濃度は異常なまでに高まり、空間そのものが歪んでいるかのように感じられた。耳鳴りのような不快な音が響き、視界は黒い霧に覆われる。


​やがて、桔梗ききょうは、洞窟の最奥にある、巨大な空間へと辿り着いた。そこには、まるで地脈そのものが剥き出しになったかのように、巨大な根のようなものが複雑に絡み合い、地中から天空へと伸びている。それが、西の龍脈りゅうみゃくの根元だった。しかし、その龍脈りゅうみゃくは、生気あふれる本来の輝きを完全に失っていた。清らかな気の代わりに、漆黒の瘴気しょうき龍脈りゅうみゃく全体を覆い尽くし、大地に沿って無数の枝分かれをし、脈動しながら各地へと漏れ出している。まさに、世界を蝕む病の源泉そのものだった。


​「……思ったよりも、限界を迎えているな」


​思わず息を呑んだ。八咫烏の報告よりも、白虎びゃっこの危惧よりも、龍脈りゅうみゃくの状況は深刻だった。このままでは、世界が瘴気しょうきに飲み込まれるのも時間の問題だろう。


桔梗ききょうは、すぐさま浄化の権能けんのうを最大限に展開した。彼女の全身から溢れ出る金色の光が、龍脈りゅうみゃく瘴気しょうきを包み込み、ゆっくりと、しかし確実に浄化を始める。瘴気しょうきは、焼かれるように悲鳴を上げ、後退していく。しかし、その作業は、桔梗ききょうが想像していたよりも、はるかに困難を極めた。


龍脈りゅうみゃくにこびりついた瘴気しょうきは、大地そのものと一体化しているかのように深く根を張り、枝分かれした先は、世界の各地へと延びている。根元からこれを浄化するには、膨大な時間と、莫大な妖力が必要となる。先の大蛇オロチとの激戦で、桔梗ききょうの妖力はすでにかなりの部分を消耗していた。浄化の光を放ち続ける彼女の額には、玉のような汗が滲み出る。


​「ちっ……これでは、埒が明かぬ」


桔梗ききょうは、焦燥に駆られた。時間がない。このままでは、浄化が間に合わず、龍脈りゅうみゃくが完全に崩壊してしまうだろう。彼女は、一つの決断を下した。


​【天照あまてらす神威かむい

桔梗ききょうは、一度、浄化の権能けんのうを収めた。そして、深く呼吸を整えると、その金色の瞳を、洞窟の天井、遥か高天原があるであろう方向へと向けた。彼女の全身から、今度は浄化の光とは異なる、神々しい金色の神威かむいが立ち上がり始めた。それは、太陽の如き圧倒的な輝きを放ち、洞窟の瘴気しょうきを一時的に押し返すほどだった。


​「日織ひおりめ……まさか、これほどの力を託すとはな」


桔梗ききょうの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。これは、日織ひおりから直接授けられた、天照大御神あまてらすおおみかみ神威かむいの一つ。「因果律を操る」権能けんのう―――決まった結果を書き換えるほどの、ことわりへの介入を可能にする、究極の力である。それ故に、使い所を間違えれば、世界そのもののことわりを崩壊させる危険を孕んでいた。まさに、九尾の身でありながら、神と肩を並べる桔梗ききょうにふさわしい、神々しくも危険な神威かむいだった。ただし、日織ひおりが際限なく行使できるのに対し、桔梗ききょうがこの神威かむいを行使すれば、その妖力のほとんどすべてを使い切ってしまう。まさに諸刃の剣であった。


​「……構わぬ。この日ノ本を、穢れた黄泉の国になどさせぬ」


桔梗ききょうは、決意を固めた瞳で、西の龍脈りゅうみゃくへとその手をかざした。彼女の体内から、膨大な妖力が、天照の神威かむいとして溢れ出す。その金色の光は、瘴気しょうきに覆われた龍脈りゅうみゃくへと収束し、根元から、その枝分かれした先まで、瞬く間に光で満たされていった。


​その頃、高天原の一室では、日織ひおり月読命つくよみが、布団に横たわる桜花おうかを見守っていた。呼吸は穏やかで、その表情も安らかに見える。だが突然、苦しげに顔を歪ませ、額には玉のような汗が滲み出る。呼吸が荒くなり、虚空へと手を伸ばした。


​「……んんっ……苦しい……痛い……金色の……光……全部、吸い込まれて……消えて、しまう……」


​その言葉に、日織ひおり月読命つくよみは、ハッと息を呑んだ。


​「まさか……桔梗ききょう神威かむいを、感覚で感じ取っておるのか!?」

月読命つくよみが、驚愕の声を上げた。この少女おうかは、遠く離れた西の地で、桔梗ききょうが天照の神威かむいを行使している状況を、自身の感覚で感じ取っていたのだ。

日織ひおりは、額にそっと手を当てた。少女おうかの肌は、熱を持っている。


​「桔梗ききょう……やはり、あの神威かむいを行使しているのか。これほどまで、龍脈りゅうみゃくの状況が切迫していたとは……」

日織ひおりは、苦悩に顔を歪ませた。高天原にいる自分たち神は、地上で神威かむいを行使することができない。古くから定められた禁則である。


​「日織ひおり様……桔梗ききょうを、助けて差し上げられないのですか……?」

月読命つくよみが、悔しそうに拳を握りしめた。日織ひおりは、ただ唇を噛み締めるしかない。少女おうかの苦痛に満ちた表情と、遠く離れた地で独り戦う桔梗ききょうの姿が、日織ひおりの脳裏を駆け巡る。

​その時、和室の障子の向こうから、強大な神威かむいが急速に近づいてくる気配がした。そして、障子がいきおいよく開けられる。


​「日織ひおり様よ!無事、帰還した!」

​そこに立っていたのは、ゆきを抱きかかえ、もう片腕に意識を失った大蛇オロチを抱えた、白虎びゃっこだった。息一つ乱さず、しかしその表情には、疲労と使命感がにじみ出ている。だが、白虎びゃっこもまた、桜花おうかの異変にすぐに気づいた。

​「これは……日織ひおり様よ、一体どうされたのだ!?」


​「……待ちなさい、白虎びゃっこ桔梗ききょうが、あの神威かむいを行使しておる。それを感じ取って……」


日織ひおりの言葉を聞き、白虎びゃっこの顔色が変わった。桔梗ききょうが妖力のほとんどを使い切る覚悟で、因果律を操る神威かむいを発動していると知ったのだ。

​その時、横たわっていたゆきが、弱々しい声で白虎びゃっこに懇願した。


​「白虎びゃっこ様……もう一度、あの場所へ、私を連れて行ってください……!大蛇オロチ様を、救ってほしい……。私が、龍脈りゅうみゃくの流れの操作を、手伝います。時間が無いのでしたら……私も、覚悟を決めます……」


ゆきの瞳には、夫を救うためなら、どんな危険も厭わないという、強い意志が宿っていた。彼女は、大蛇オロチの妻として、長年龍脈りゅうみゃくの傍にいたため、その気の流れをある程度理解していたのだ。


​そして、さらに驚くべきことに、苦しげに喘いでいた桜花おうかが、細い声で頼んだ。

​「……私も……連れて行って……桔梗ききょうが、何をしているのか、わかる……同じ力を、感覚で使える気が、するの……」


桜花おうかは、日織ひおり月読命つくよみ、そして白虎びゃっこの顔を、真っすぐに、しかし必死に見つめた。

日織ひおりは、突然の願いに、鬼の形相で頭を抱え始めた。


​「な、何を言うか!そなたはまだ不安定なのだぞ!?あんな瘴気しょうきの只中へ、連れて行けるわけが……一体、その体で何ができると言うのだ!」

日織ひおりは、少女おうかの身体の弱さを指摘し、厳しく諭そうとした。しかし、その瞳に宿る真剣な光を見て、日織ひおりの言葉は途切れる。

日織ひおりの脳裏には、桔梗ききょうが妖力を使い果たし、限界を迎える可能性が過る。


​「……ぐぬぅぅぅ……だが、もし桔梗ききょうが限界だとしたら……ゆき白虎びゃっこだけでは、どうにもならないかもしれない……この子には桔梗ききょうの力が……ゆき瘴気しょうきでやられたら……我も動けぬ……んぐぐぐぐ……!」

日織ひおりは、文字通り頭を抱え、苦悶の表情を浮かべる。高天原から動けない自分にとって、これは究極の選択だった。

​やがて、日織ひおりは顔を上げ、苦渋の決断を下した。


​「……分かった。白虎びゃっこ。そなたに、ゆきとこの子を頼む。二人のためにも、そしてこの世界のためにも……必ずや、桔梗ききょうを助け、龍脈りゅうみゃくを浄化するのだ」

日織ひおりは、そう言うと、傍に置いてあった神代からの神宝、「八咫鏡」その本体を取り出した。それは、天照大御神あまてらすおおみかみの神体の一つであり、あらゆる瘴気しょうきや穢れ、邪悪な力を跳ね返す、究極の防御の神威かむいを宿していた。


​「これを持っていきなさい。これは所有者の意志に応じて大きさを変えられる特別な鏡だ。瘴気しょうきやあらゆるものを跳ね返し、そなたたち二人を守ってくれるだろう。決して、手放してはならぬ」

日織ひおりは、重々しい口調で告げ、少女おうかの掌に、手のひらサイズの小さな八咫鏡をそっと持たせた。鏡は、桜花おうかの小さな手に収まり、神々しい光を放っている。日織ひおりの瞳には、不安と、しかしそれ以上の希望が宿っていた。高天原の主、天照大御神あまてらすおおみかみ日織ひおりは、今、二人の娘に、世界の命運を託したのだ。

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