第15話

洞窟の最奥に広がる巨大な空間。そこは、すでに黄金と漆黒が激しくせめぎ合う戦場と化していた。


桔梗ききょうは、全身を光の奔流に変えながら、天照の神威かむい-因果律を操る権能けんのうを最大出力で西の龍脈りゅうみゃくへと注ぎ込んでいた。その力は、世界のことわりを書き換えるに足るものであり、一時、漆黒の瘴気しょうきの奔流を押し返し、龍脈りゅうみゃくの根元に清浄な気を呼び戻し始めていた。


​「くっ……うぅ……!」

​しかし、その代償はあまりにも大きかった。桔梗ききょうの強靭な九尾の妖力も、因果律への介入という途方もない負荷の前には、無尽蔵ではない。妖力は沸点を超えて蒸発し、その肉体と魂を内側から焼き焦がし始めていた。血管が浮き上がり、肌は青白く、額からは血の汗が流れ落ちる。浄化の光が強まるたびに、彼女の意識は遠のいていく。


​「もはや、儂の力の全てでは、この得体の知れない瘴気しょうきことわりを、書き換えるには……時間が、足りぬ……」

桔梗ききょうの視界が、ぐらりと揺らいだ。天照の神威かむいは、一瞬にして世界を変える力を持つが、それを維持し、龍脈りゅうみゃく全体に浸透させるには、あまりに時間がかかりすぎる。先に、彼女の命が尽きるだろう。


​その時、空間のことわりが、裂帛れっぱくの音と共に、引き裂かれた。神威かむいの極致をもって空間を操る、強引な力の行使。


​「無事か、桔梗ききょう!」

白虎びゃっこの甲高い声と共に、金色の稲妻が走った。洞窟の入り口など、とうに土砂で塞がっているはずだ。しかし、白虎びゃっこは自身の神威かむいを用いて、空間のことわりを無視し、高天原からこの最奥へと直接、強行突入してきたのだ。桔梗ききょうは、朦朧とした意識で、その声を聞き取り、疲労困憊した顔をゆっくりと振り返った。


​「ば、く……!何故、戻っ……!?」

​そこに立っていたのは、白虎びゃっこの姿と、その傍らに立つ、来ることの無いはずの少女おうか、そしてゆきだった。

桔梗ききょうの瞳が、驚愕に見開かれた。力の行使による苦痛を忘れ、信じられないものを見るかのように声を絞り出す。


​「何故だ……何故、非力なこの子らまで連れてきたのだ!この状況で……戻ってきてどうするつもりだ、白虎びゃっこ!」


白虎びゃっこは、桔梗ききょうの問いに答える時間すら惜しむかのように、一瞬たりとも視線を切らずに告げた。

​「時間が惜しい!さあ、八咫鏡やたのかがみを!」


桜花おうかは、抱きしめるように持っていた手のひらサイズの鏡を、まっすぐに掲げた。

​「うん……!」

​それは瞬時に膨張。辺り一面を覆い尽くすほどの巨大な、輝く円盤へと姿を変えた。八咫鏡やたのかがみ神威かむいは、桔梗ききょうたち四人の頭上、この最奥の空間全体を覆うように展開された。途端、瘴気しょうきの黒い粒子が、鏡の光によって弾き飛ばされ、この空間における瘴気しょうきの影響は、完全に無効化された。


​「な……これが、本来の八咫鏡やたのかがみの力……!」

桔梗ききょうは、呼吸が楽になったことで、ようやく肺に清浄な空気を取り込み、驚きの声を上げた。

​時間の猶予はない。結界の展開により、瘴気しょうきは一掃されたが、桔梗ききょうの命の炎が燃え尽きるのも時間の問題だ。


ゆきは、躊躇なく龍脈りゅうみゃくの根元へと駆け寄り、その複雑に絡み合う巨大な根に、そっと手を添えた。

​「桔梗ききょう様……私は、長年大蛇オロチ様と共に、この西の龍脈りゅうみゃくの流れを観察してきました。私が、力の流れを……調整します!」


ゆきは、大蛇オロチの妻として培った龍脈りゅうみゃくの知識と、巫女としての霊力を用い、桔梗ききょうが注ぎ込む天照あまてらす神威かむいが、龍脈りゅうみゃくのどの部分に、どれだけ、正確に、効率よく行き渡るよう調整すべきか、その気の流れを指先で誘導し始めた。


​そして、桜花おうかは、ふらつく桔梗ききょうの横へと移動した。彼女は、桔梗ききょうの燃え盛るような熱を持った身体に、両手を添える。


​「桔梗ききょう……何をしているのか、わかる気がする……この、暖かい光が、苦しんでいるのを……」

桜花おうかは、目を閉じ、集中した。自分がどういうふうに未知の力を扱えばいいのか、何を引き出し、何を成すべきか。理性ではなく、魂の奥底にある感覚だけで、桔梗ききょうと同じ因果律の力を再現しようとする。


​(教えて……この力の事……そして、桔梗ききょうのこと)

少女おうかの声が、直接、桔梗ききょうの意識の奥底に、静かに語りかけた。


​「お主、何を、一体どうやっている……!?」

桔梗ききょうは、意識が朦朧とする中で、驚愕した。

​「儂の意識に、直接……!?感覚だけで、儂と同じことを……まさか、お主……」

桔梗ききょうの驚きと戸惑い、そして微かな喜びが、桜花おうかの心に流れ込む。桜花おうかは、その全てを受け止め、強く、深く頷いた。


​「もう、大丈夫だよ……私が、やる」

​次の瞬間、桜花おうかは体の奥底にある自身に根ざす、天照の権能けんのうを解放した。

​幼い体に宿された、世界のことわりを書き換える神の力。その力は、桔梗ききょうが扱っていた神威かむいとは、性質が異なっていた。


桔梗ききょうが「術(すべ)」として天照の神威かむいを借り受けているのに対し、桜花おうかは、その力が魂の根源から湧き出る、体に根付いた、幼神おさながみとしての真の力だった。


桔梗ききょうは、その力の純粋さと、底知れぬ奔流に、本能的なおぞましい結末を予感した。

​「やめろ!それは、お主の未完成の体では持たぬ!辞めるのだ!」

桔梗ききょうは、強い口調で諭し、手を離そうとする。

​だが、もはや、桔梗ききょうには自らの天照の神威かむいを止める術(すべ)はなかった。そして、無垢な少女を止める余裕すらも、完全に失っていた。


​――途端、世界が一変した。

桜花おうかの小さな体から、全てのことわりを凌駕する力が溢れ出した。それは、金色の光ではなく、暖かく、優しい、春の風だった。風は、激しく吹き荒れた。瘴気しょうきに汚染され、生命の欠片すら失われたかのような暗黒の大地、その岩盤に、光と共に命が芽吹いた。根元が腐り果てた木々の幹が、一瞬で蘇り、枝には白と淡い桃色の花々が咲き乱れる。やがて、その白く清らかな花々は、巨大な桜へと成長し、辺り一面が桜吹雪で満開になった。


桜花おうか神威かむいは、桔梗ききょうの浄化の光とは異なり、因果律を根源から書き換えた。「瘴気しょうきが満ちた」という結果を「清浄な気が満ちた」という、創世のことわりへと一瞬で上書きしたのだ。西の龍脈りゅうみゃくは、根元から、そして枝分かれしたその先の大地まで、一瞬にして浄化された。

​凄まじい神威かむいの奔流が収まった後、洞窟の最奥は、嘘のように穏やかで、清らかな空気に満たされていた。桔梗ききょうは、力が完全に抜け落ちた体で、呆然と立ち尽くす。


​「……これは……」

白虎びゃっこは、その場で動きを止め、ゆき龍脈りゅうみゃくの根元に手を添えたまま、信じられないものを見るように、辺りを見渡した。


​「狐に摘まれたよう……とは、まさにこのことか」

桔梗ききょうは、そう呟き、辺り一面の桜吹雪を見上げた。

​しかし、その中で一人だけ様子だけがおかしい。


桜花おうかは、力を使い果たした様子もなく、ただ淡々と、周囲を見つめていた。その瞳は、先ほどまでの怯えや感情を失い、まるで遥か遠くの宇宙を見通すかのような、虚無的な光を帯びている。


​「……浄化は完了しました。龍脈りゅうみゃくの流れも、創世のことわりへと戻されています」

淡々とした口調。その声は、桜花おうかの普段の幼い声とは異なり、どこか冷たく、他人行儀で、まるで他人事かのように聞こえた。


白虎びゃっこは、異変に気づいた。目の前にいるのは、先ほどまで抱えていた、無垢な幼子ではない。

​「……お主……気配が先程までとまるで違う。お主は誰だ!」

白虎びゃっこは、警戒心を剥き出しにして問いかけた。


​先程まで共にいたはずの者は、白虎びゃっこの問いに、表情一つ変えずに答える。

​「……今もこの先も、お伝え出来ることはありません」

​その魂の奥底から響く声は、まるで全てを見通す、世界の観測者のようだった。


​「この幼子は、神々の権能けんのうに無尽蔵に力が逆流したことで、全てを垣間見てしまいました。創世の時代から、過去、現在、未来に至るまで、あらゆる事象を観測したのです。天照の因果律を歪める神の力を行使するには、体が未完成でした。故に……」


​自らの胸元に、神々しい八咫鏡の光が反射する中で、静かに告げた。

​「この幼子の魂が、ことわりの循環から外れ、消滅しかけています」

白虎びゃっこ桔梗ききょうの顔が、同時に、絶望に歪んだ。


​「しかし、この幼子の命の灯火だけは、消させる訳にはいきません。これから、最も重要なことわりをお伝えします。今から言うことを、天照大御神あまてらすおおみかみにお伝えください」

​その瞳が一度だけ、日織ひおりのいる高天原の方向へと向けられた。

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