第10話

三者同盟さんしゃどうめいが結成され、日織ひおり桔梗ききょう白虎びゃっこ瘴気しょうきの根源について議論を交わし始めた直後のことだった。


日織ひおり様! 申し上げます!」


高天原たかまがはらの静寂を切り裂くように、一羽の烏が、破壊された宮の広間を飛び越え、日織ひおりたちのいる和室へと一直線に飛来した。 その烏は、三本足を持つ神の使い、八咫烏やたがらす。常に世界各地の情報を日織ひおりへと届ける、重要な伝令役である。 八咫烏やたがらすは、和室の外廊下に着地すると、人の姿へと変化した。黒い狩衣かりぎぬまとい、背中には大きな翼を収めた、精悍な顔つきの青年である。その顔には、事態の深刻さを物語る、焦りの色が濃く浮かんでいた。


八咫烏やたがらすか。落ち着きなさい。一体、何があったのだ?」


日織ひおりは、穏やかな口調を保ちながらも、そのただならぬ様子に、即座に事態の重大さを察した。

八咫烏やたがらすは、息を整える間もなく、膝を突き、切迫した声で告げた。


「西の地より、緊急の報せにございます! 西の主――大蛇オロチ様の結界が、極限まで弱まっております。瘴気しょうきの侵食により、結界の維持が限界に達している模様。このままでは、大蛇オロチ様自身が、完全に正気を失ってしまうやもしれません!」


その報告に、日織ひおりの表情が凍り付いた。桔梗ききょうもまた、その金色の瞳を鋭く細める。 そして、その報せを聞いていた白虎びゃっこは、顔色を変えず、ただ静かに問うた。


「……結界が限界、とな。そして、西の龍脈りゅうみゃくは、いかなる状態にあるか?」


白虎びゃっこの問いは、核心を突いていた。大蛇オロチの結界が破れることは、西の龍脈りゅうみゃく瘴気しょうきに完全に染まることを意味する。それは、世界そのものの崩壊へと繋がりかねない。


龍脈りゅうみゃくの状況は、外からは定かさだかではございません。しかし、結界が崩壊すれば、西の地全ての瘴気しょうきが一気に開放され、そこから世界全体へと逆流し始めるでしょう!」


八咫烏やたがらすの報告は、彼らが今議論していた、世界の危機が、すでに目前まで迫っていることを示していた。

日織ひおりは、即座に決断を下した。


「……白虎びゃっこ。お主の推測が正しかったようだ。四神柱ししんちゅうに頼る時間は、もはやない。白虎びゃっこ、そして桔梗ききょう。そなたたち二人は、直ちに西へ向かいなさい」


桔梗ききょうは、頷きながらも、横たわる少女おうかに視線を送った。未だ意識は朦朧もうろうとし、その体は不安定な状態である。

日織ひおりは、桔梗ききょうの懸念を理解していた。


「心配いらぬ。我の弟、月読命つくよみにも、桜花おうかの警護を任せよう」


月読命つくよみ。夜と月を司る神。高天原たかまがはらにありながら、日織ひおりのように表立って政治に介入することは少なく、その姿を見た者は少ない。しかし、その力は日織ひおりに匹敵する、偉大な神である。


「……なるほど。彼(か)の神ならば、この高天原たかまがはら清浄せいじょうを保ちつつ、あの娘の守護も務まるだろう」


桔梗ききょうは、納得したように頷いた。

白虎びゃっこは、この流れを冷静に見つめていた。そして、日織ひおりに厳かに告げた。


日織ひおりよ。月読命つくよみに任せるにせよ、事態は緊急を要する。我らは直ちに出立する故、その手配を急がれよ」


「分かった。八咫烏やたがらす月読命つくよみを呼んで参れ!」


日織ひおりは、八咫烏やたがらすに命じると、自らも立ち上がり、緊急の対応に動き始めた。

日織ひおり月読命つくよみの手配を急ぐ間、桔梗ききょうは、襖を背にして立っている白虎びゃっこへと歩み寄った。


白虎びゃっこよ。お前が、この高天原たかまがはらに来る前、西の森で何をしていたのか……少しは想像がつく。まさか、あの頃から、大蛇オロチの様子がおかしかったのか?」


桔梗ききょうの問いに、白虎びゃっこは表情を変えなかったが、かすかな苦悩の色が浮かんでいた。


「……しかり。大蛇オロチは、元より荒々しい気性。そして、西の龍脈りゅうみゃくは、瘴気しょうきに侵された八岐大蛇やまたのおろちの血を引く者が守護しておるがゆえに、他の三方さんほうよりも安定し辛い。その脆弱ぜいじゃくことわりが、この未曾有みぞう瘴気しょうきに晒されたのだ」


白虎びゃっこは、淡々とした口調で語る。


「我は、故郷である西の地の異常を察し、人間に化けて、密かに森の奥へと立ち入った。大蛇オロチに直接、事態を改めるよう促すためであった。しかし……」


白虎びゃっこは、そこで言葉を切った。


「しかし、大蛇オロチは、既に瘴気しょうきの影響を受け、我の言葉に耳を貸さなかったのだ。我の存在を、過去の遺物として拒絶し、縄張りに立ち入るなと、警告するのみであった」


白虎びゃっこの口調には、かつての主としての、深い後悔と無念さが滲んでいた。 彼は、自分には、もう大蛇オロチに直接介入する正当な権限がないことを知っていた。そして、大蛇オロチが自分を受け入れないことも。故に、高天原たかまがはらに来る直前まで、西の森で、苦しむ生命を救う活動を続けていたのだ。


「……そうか。だからお前は、この高天原たかまがはらに来て、日織ひおりに助力を求めたのだな」


桔梗ききょうは、白虎びゃっこの行動の真意を理解した。白虎びゃっこは、かつて自分が守れなかった西の地を、今度こそ救おうとしていたのだ。

白虎びゃっこは、静かに頷いた。


「……西の龍脈りゅうみゃくが破れれば、この世界は終焉しゅうえんを迎える。それを阻止するためならば、我は如何いかなる手段もいとわぬ」


桔梗ききょうは、腕を組み、口元にわずかな笑みを浮かべた。


「良い覚悟だ、白虎びゃっこ。だが西には、大蛇オロチの嫁の、人間の娘もおる。無事だと良いがな」


桔梗ききょうの言葉に、白虎びゃっこの瞳が微かに揺れた。


「……大蛇オロチは、あの娘を愛している。その結界も、あの娘を守るため、辛うじて維持されておる。無事であれば、大蛇オロチの正気が完全に失われることはないはず。……故に、我は信じる。あの娘、ゆきの無事を」


白虎びゃっこは、そう言い切ったが、その声には、微かな不安が混じっていた。 人間の娘を愛し、守ろうとする大蛇オロチの姿は、白虎びゃっこの心に、過去の深い傷を思い出させていた。

その時、八咫烏やたがらすに連れられ、一人の青年が和室の前に現れた。 夜空を思わせる濃紺の狩衣かりぎぬまとい、その瞳は、月光のような静謐せいひつな銀色に輝いている。 天照大御神あまてらすおおみかみの弟、月読命つくよみである。


「……日織ひおり。呼んだか」


月読命つくよみの声は、静かで感情の起伏きふくが少ないが、確かな威厳を伴っていた。

日織ひおりは、彼に事の次第を簡潔に説明した。少女おうかの守護、そして高天原たかまがはらの結界の強化。 月読命つくよみは、一言「承知した」とだけ応じると、少女おうかの傍らに静かに座り込んだ。 彼の存在だけで、部屋全体の気が、清らかで安定したものへと変わった。


桔梗ききょう白虎びゃっこ。行け。この高天原たかまがはらのことは、我に任せるのだ。そして、何としてでも、西の龍脈りゅうみゃくを救うのだ」


日織ひおりは、二人に力強く告げた。


「承知した、日織ひおり


桔梗ききょうは、そう言って、白虎びゃっこと共に和室を出た。


「……必ず、西のことわりを、立て直して見せよう」


白虎びゃっこは、静かに日織ひおりに誓いを告げると、桔梗ききょうと共に、西の空へと飛び立った。



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