第41話

 大晦日の夜。東京の空は、剃刀のように鋭く、冷たく澄み渡っていた。一年の終わりと始まりが交錯するこの夜、朝比奈家の空気は張り詰めている。


 防音室は、日本全国のお茶の間に繋がるコックピットとなっていた。優は黒いモーションキャプチャー・スーツを纏い、深呼吸を繰り返している。モニター越しに、NHKホールの大舞台が見える。数千の観客が振るペンライトの光の海。その光景はデジタル信号に過ぎないのに、優の肌は、ホールの熱気を感じていた。


 防音室から十数歩ほど離れたリビングルームは、優を見守る管制室となっていた。大型テレビの前には、父と母、そして松田と梨花が陣取っている。松田は今夜、NHKホールの現場ではなく、あえてここを選んだ。「家族と一緒に、優を見守りたい」という彼女の申し出は、優にとっても心強かった。テーブルには値の張りそうな寿司桶とオードブル盛り合わせが並んでいるが、誰も手をつけていない。父は何度も眼鏡の位置を直し、母は無言でビール缶の水滴を指で拭っている。梨花は膝の上で両手を固く握りしめ、祈るように画面を見つめていた。


 午後七時二十分。国民的番組『第××回 NHK紅白歌合戦』の放送が始まった。オープニングの喧騒が過ぎ、番組前半の見どころを紹介するVTRが流れる。その中で、今年の注目株として、"You" が紹介された。


『今年、インターネットから彗星のごとく現れた、正体不明の歌い手Vtuber "You"。その歌声は、またたく間に世界を席巻しました』


 ナレーションと共に、デビュー曲『Rebirth』のミュージックビデオが流れる。画面の中のアバターが、人間離れした高音を響かせた。


『彼の特徴は、最新技術で生み出されたリアルなアバター。そして何より、その歌声です。デジタルな存在でありながら、そこには生身の人間以上に、人間らしい感情が、痛いほど込められています。情熱、歌う喜び、そして癒し。その歌声は、今も世界中のリスナーを魅了し続けています』


 VTRは丁寧に作られていた。単なる「流行りのネット発アーティスト」という扱いではない。松田が懸念していたような、色眼鏡で見るような紹介ではなかった。さらに画面には、あの日、天音アカリのライブで会場を熱狂させた様子や、ライブ配信での辿々しい語り口が映し出された。


『圧倒的な歌唱力と、素朴で誠実な人柄。そのギャップもまた、多くのファンを惹きつけて止みません。彼はデジタルな身体と共に、私たちにどんな「癒し」を届けてくれるのでしょうか』


 VTRが終わると、リビングの空気が少しだけ緩んだ。松田は、ふぅ、と安堵の息を吐いた。


「……よかった。NHKのスタッフさん、本当によく調べて下さっている」


 松田の目には、制作陣への敬意が浮かんでいた。彼らは"You"という存在を、単なる色物ではなく、新たな表現者アーティストとして扱おうとしてくれている。ここまで丁寧に文脈を整えてくれたのなら、あとは優が歌うだけだ。最高の舞台が整ったと、松田は確信した。


 番組は進む。今年の司会を務めるのは、天然パーマがトレードマークの人気俳優と、NHKの看板女性アナウンサーだった。しかし、その進行は、生放送特有の危うさを孕んでいた。


「いやー、すごい熱気ですね! 僕もね、裏でちょっと歌ってこようかと思いましたけど、スタッフに止められちゃってね! ガハハ!」


 人気俳優の司会者は、場の空気を温めようと必死なのか、台本にないアドリブを連発していた。予定調和を嫌う彼の芸風は、バラエティ番組では爆笑を生むだろう。しかし、秒単位で進行が管理されるこの番組においては、不協和音でしかなかった。


 隣に立つ女性アナウンサーの笑顔が、時折ひきつるのを松田は見逃さなかった。彼女は苛立っている。台本通りに進まない進行、押していく時間。いつか取り返しのつかない失敗をするのではという焦燥が、画面越しに伝わってくる。


「……ちょっと、雲行きが怪しいわね」


 松田が呟いた。

 その不安は、的中することになる。


 番組も中盤に差し掛かり、ついに "You"の出番が訪れた。ステージ上の巨大なスクリーンに、ノイズのエフェクトが走る。次の瞬間、NHKホールの暗闇に、等身大の"You"のアバターが浮かび上がった。


『キャァァァァーッ!!』

『Youーーッ!!』


 会場から、地鳴りのような歓声が上がった。ペンライトの光が一斉に揺れる。

 防音室の優は、その熱量を肌で感じながら、深く一礼した。


「……こんばんは。Youです。今夜は、この夢のような舞台に立てて、本当に光栄です」


 緊張はあったが、声は震えていなかった。リハーサル通り、完璧な第一声だ。台本では、ここから司会者との短いトークに入る手筈だった。「緊張していますか?」「今年の思い出は?」といった、当たり障りのない会話を交わし、曲紹介へと繋げる。無難な段取りのはずだった。


 女性アナウンサーが、穏やかな表情で語りかける。


「Youさん、こんばんは。会場の盛り上がり、すごいですね。今のお気持ちは……」


 しかし、彼女の言葉を遮るように、もう一人の司会者が一歩前へ出た。彼はこの得体の知れないデジタルな存在に、純粋な好奇心を刺激されてしまったようだった。あるいは、ここで気の利いたことを言って、爪痕を残そうとしたのかもしれない。


「いやー、すごいねえ! 本当にそこにいるみたいだ! でさあ、You君!」


 彼は、台本を無視して質問をぶつけた。


「さっきから気になってたんだけど、その声! めっちゃくちゃ綺麗だよねえ。高くて、艶っぽくて! ……それって、ボイチェンとかじゃなくて、地声なの? 君、男だよね? なんでそんなに高い声なの?」


 ――時が、止まった。


 リビングルームの全員が、息を呑んだ。

 松田の顔から血の気が引く。

 NHKホールのステージ上では、女性アナウンサーが凍りついていた。


(……読まなかったの!?)


 彼女の脳裏に、制作統括から渡された分厚い資料がよぎる。そこには、"You"に関するNG事項が赤字ではっきりと記されていた。


 『身体的特徴、特に声質の由来に関する質問は厳禁』

 『声質の由来は、事故による後遺症であると本人が公表済み』

 『センシティブな話題のため、絶対にバラエティの文脈で言及しないこと』


 踏んではならない地雷を、踏んでしまった。


 忙しさにかまけて資料を読み飛ばしたのか、それとも現場の興奮で忘れてしまったのか。無邪気なその質問は、全国放送の電波に乗って、日本中へ届けられてしまった。


「なんでそんなに高い声なの?」


 優が苦悩し続けるコンプレックスに、土足で踏み入る問いだった。

 会場の空気が、張り詰めてゆく。


 防音室の中、優は立ち尽くしていた。 モニター越しに、司会者の笑顔が歪んで見える。


 ――男だよね? ――なんで?


 その言葉が、耳の奥で反響する。不意打ちのように放たれた言葉の矢は、優の胸の脆くて傷つきやすい場所を、正確に射抜いていた。

 ネットのコメント欄で投げつけられた悪意ある言葉たちが、次々とフラッシュバックしてゆく。


 優は、言葉を失っていた。その顔は、動揺と痛みの感情で覆われている。

 防音室のモーションキャプチャ用カメラは、優の表情筋を精密にトラッキングした。

 それはアバター "You"の表情を形づくり、日本中の視聴者に、優の生々しい感情を届けてしまった。

 残酷なほどに、克明に。

 

 2、3秒ほどの沈黙だった。

 その短い沈黙は放送事故寸前の重苦しさを孕んでいて、永遠にも等しい長さに感じられた。

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