第22話

 啜り泣く優の体に、ふっと温かいものが触れた。梨花が、その身へ宿った熱に突き動かされ、優の身体を抱きしめたのだ。


「大丈夫、大丈夫だから……!」


 優の耳元で、梨花の声が震えている。彼女もまた、涙を流していた。


「ユウ君は、ユウ君だよ。歌姫とか、ネットの評判とか、そんなの関係ない。ユウ君は、ここにいるじゃない……!」


 梨花は、背中へ回した腕に、再びぎゅっと力を込める。


「きっとまた、私に聴かせてくれたみたいに、歌えるようになるから。私は、何があってもユウ君の味方だから。私にできることなら、何でも力になるから! 今は私も、どうすれば良いかわからないけど……一緒に悩んで、一緒に探そうよ。一緒に考えよう、これからのことを」


 梨花の腕の中にいる優の体は、酷く強張っていた。抱きしめたその感触は、梨花がかつて憧れ、夢想していたものとはかけ離れていた。ときめきや甘やかさはどこにもない。まるで冷たく硬い、木製のマネキン人形を抱いているような、無機質な感触だった。魂が抜け落ち、ただの物体と化してしまったかのような、優の身体。


 梨花は腕を緩めず、しばらくの間、抱きしめ続けた。自分の体温を、鼓動を、生命力を、優の空っぽの器へ分け与えるように。ただひたすらに、ぎゅっと抱きしめ続けた。


 やがて、じんわりと優の身体に熱が移り始める。梨花自身の体温だった。


 ――暖かい。


 人の身体とは、人の肌とは、こんなにも暖かいものなのか。優の身体は、梨花の突然の抱擁に驚き、強張った。しかしその強張りは、密着する梨花の体温により、優しく解かれてゆく。


 その温もりは、凍りついていた優の血液を溶かした。春の雪解けのように。その血液は全身を駆け巡り、優の身体を解きほぐしてゆく。強張っていた肩は自由になり、優の腕は、おずおずと梨花の背中に回された。

 

 そうして抱き合ううちに、優の体温もまた、梨花の肌へと伝わってくる。二人の体温は混ざり合い、密着する肌同士の境界線は、無くなっていく様な感触がする。二人を隔てる輪郭が、溶けて無くなったかの様だった。その一体感を、しっかりと確かめ合う。やがて二人で示し合わせたかのように、ゆっくりと身体を離した。


「……ありがとう、リカ」


 その声には、恥ずかしげな、照れ隠しのような色があった。しかし、微かな熱が宿っていた。優の瞳に、淡い光が戻る。梨花の目に映る優の輪郭は、くっきりと力強くなっていた。


「明日からは……学校にも行くから」


「うん……うん、待ってる」


 梨花は、濡れた瞳を拭いながら優しく微笑んだ。


 ***


 帰り際、優は梨花を玄関まで見送った。外はもう、夕闇に包まれる時間だった。


「じゃあ、また明日。シンジとマユミも心配してるから。元気な顔を見せてあげて」

「うん、また明日」


 ありふれた挨拶。けれど、「また明日」という言葉が、これほど暖かく響いたことはなかった。その暖かさを分かち合い、梨花が玄関のドアを開けようとした、その時だった。

 

 ぐぅー、と。間の抜けた音が、玄関に響き渡った。優の、腹の虫だった。

 一瞬の静寂の後、優は耳まで真っ赤にして俯いた。


「……ごめん。ろくに食べてなかったから、その……急に」


 梨花が、きょとんとした顔をし、次の瞬間、ぷっ、と吹き出した。


「あはは! すごい音!」

 

「わ、笑わないでよ……」

 

「よかったぁ。お腹が空くってことは、元気になった証拠だね!」


 梨花は、もう仮面を被ってはいなかった。そこにあったのは、飾らない、太陽の様な笑顔だった。


「また明日ね、ユウ君!」


 彼女は軽やかな足取りで、優の元を去った。


 一人残された優は、空腹を訴え続ける腹をさすりながら、キッチンへと向かった。冷蔵庫には、昨日父が作り置きしてくれたカレーの鍋が入っていた。冷えたままのそれを皿に盛り、レンジで温める。


 湯気の立つカレーライスを、優は貪るように口へ運んだ。味がする、美味しい。スパイスの刺激と、肉の旨味が、空っぽだった胃袋に染み渡っていく。それは、自身の抱える問題と向き合うために必要な、最初の燃料補給のように思えた。

 完食して、皿を洗う頃。腹が満たされるのと同時に、現実へ立ち向かうための準備が出来上がっていた。


 ***


 翌朝。優はいつもの時間に登校した。教室の扉を開けると、ざわめきが一瞬止まり、視線が集まる。優は自分の席へ向かい、鞄を置いた。すると、すぐに慎二と真由美が駆け寄ってきた。


「おいユウ!お前、大丈夫だったのかよ!?三日も連絡つかねーし、心配させやがって!」

「……本当だよ。病気なら病気、って言って欲しかった。みんな心配してたんだから」


 二人の剣幕に、優は苦笑しながら頭を下げた。


「ごめん、ちょっと色々あって……。でも、もう大丈夫だから」


 その言葉に嘘はなかった。問題は何も解決していない。歌声は出ないままだし、"歌姫You"の幻影は消えていない。けれど、優はもう一人ではない。


 ふと視線を感じて顔を上げると、少し離れた席で、梨花がこちらを見ていた。優と目が合うと、小さく、けれど力強く頷いてみせた。優もまた、小さく頷き返した。


 二人でこの問題に取り組んでいこう、という合図だった。

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