花狩りと首狩り

もちもちしっぽ

第1話 首狩り


 しくじった。

 しくじった……。

 しくじった――!


 忸怩たる思いを掻きむしるように、男の四肢は土を掻いた。ぼうぼうに伸びた雑草を掻き分け、獣になりすまして森の奥深くへと逃げ込む。

 揺すられた草の陰で、秋の夜長を競って唄っていた虫たちのさざめきもぴたりと止んだ。今はただ、がさがさと草の鳴く音が宵闇を震わせる。


 道なき道を這いつくばって進む彼の軌跡は、臍の上を一文字に裂いた刀傷から流れる血で真紅に染まった。喉を通う細い息は金臭く、胃の腑からせり上がる嘔気にじりじりと気道を灼き焦がされる。反して、体の熱は急速に失われつつあった。

 こめかみを滴る汗が、氷雨を受けたかのように冷たい――。

 その冷たさが纏わりついて、彼の体は泥濘に沈むように重たくなり、それ以上先へ進むことが難しくなった。

 荒ぶる獣の気配が静まるのを感じてか、一旦は息を潜めた虫たちが再び声を揃えて唄い始めた。


 りんりんと響く鈴の音が、男の耳に亡き者の声を吹き入れる。


『諦めるな……』

『……斬れ』

『取り……返せ』


 草の間から首のない屍が這って現れ、男の脚を絡め取った――ように、彼は錯覚した。

 もう草は騒いでいない。虫たちが、しきりに唄い続けているだけだ。しかし彼には、次から次へと亡者が追い縋ってくる幻が見える。


「うっ……ああぁぁぁ!!」


 最後に残された息をすべて使い切って、彼――ツェヴェルの意識は闇夜に飲まれた。





……

…………




 そこで死ぬことができたなら、男は「首狩り」になどなっていなかった――。


 かつて彼を育んだエニスの地は、異教の民に悉くを奪われ名を失った。

 エニス最後の王は、弟のツェヴェルに一つの願いを託すと、自ら戦場へ立ち奮闘した。民を最後まで守り抜く勇姿を見せつけ、もはやここまでと悟るや潔く首を斬らせた。

 宙を舞う兄王の首が不敵に笑い、ツェヴェルに語りかける。


――これよりその身は、我が願いによって守られる。悲願を遂げるまで、死ぬることの許されぬ体……大いに生かしてエニスの誇りを取り戻すのだ。


 エニスの民は赤子に至るまで粛清されたが、美姫揃いと国の内外までその名を轟かせた後宮の妃が七人、戦利品として連れ去られていた。

 兄王は異教の民にエニスの地は奪わせても、その誇り高き血まで穢されることは許さなかった。

 異教徒と血を交えぬよう、妃たちの首を狩り集めよと、ツェヴェルに願いを……いや、呪いをかけたのだった。


 裂けた肉の間に土塊つちくれが潜り込み、じくじく膿んでウジが湧こうと彼が朽ちることは許されない。

 傷が乾き癒えるまで、肉を食い破られる激痛と不快感に意識を手放しては目覚める――その繰り返しだ。


 そうして、幾度目の目覚めか。

 蝿を嬉々としてたからせていた、腐敗した体液の匂いがしなくなった。鼻が麻痺したのかと思ったツェヴェルだが、どうやらそうではないことは空気が動くたびにくゆる香りが教えてくれた。


「――生きていますか」


 微かに誰かの声がした刹那、腐った皮膚が崩れ落ち、痛みは稲妻となって脊髄を突き抜けた。

 手放した意識の向こうで、ほのかにマシブの木肌の香りがする。マシブはエニスの後宮の建材に使われていて、妃たちの衣や髪には香では隠しきれない清涼な緑の香りが移っていた。

 かつてそれは男にとって、母の温もりとともに蘇る懐かしい香りであった。


 今はどうしたことか、女たちの涙と血の匂いがともに揺蕩っている。



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