第7話:File_07 同居人
【編集部による追記】
これまでの連載は、ライターK氏から送られてくる原稿をそのまま掲載する形をとっていた。
しかし、第6話の原稿が納品された直後から、K氏との連絡が一切取れなくなった。
電話は繋がらず、メールへの返信もない。
当初は取材に没頭しているのかと思われたが、第6話の内容があまりに常軌を逸していたこと、そして後述する近隣住民からの苦情が管理会社を通じて寄せられたことから、事態を重く見た私(担当編集者M)は、K氏の安否確認のために彼のアパートへ向かうこととなった。
本稿は、K氏本人の手によるものではなく、私が現地で目撃した惨状と、関係者への聞き込み取材をまとめた報告書である。
これを読む読者諸賢には、あらかじめ警告しておく。
ここにあるのは、一人の人間が「向こう側」へ完全に足を踏み入れた末路の記録である。
調査日:202X年10月15日
調査対象:東京都内某アパート K氏宅周辺
【証言記録1:隣人の主婦 Oさん】
(アパートの2階、K氏の部屋の隣に住む30代女性へのインターホン越しの取材)
編集M:突然すみません。お隣のKさんのことで、少しお話を伺いたいのですが。
Oさん:……ああ、やっぱり。警察の方ですか?
編集M:いえ、仕事の関係者です。連絡が取れなくて困っておりまして。最近のKさんの様子で、何か変わったことはありませんでしたか?
Oさん:変わったことだらけですよ。ここ一週間くらい、本当に気持ち悪くて……管理会社にも何度か電話したんです。
編集M:具体的には、どのようなことが?
Oさん:まず、音です。話し声。
あの部屋、単身者用ですよね? Kさんも一人暮らしのはずですよね?
なのに、夜になると大勢の人が集まっているみたいな音がするんです。
編集M:大勢、ですか。飲み会か何かでしょうか?
Oさん:それが、違うんです。
普通の飲み会なら「乾杯!」とか笑い声とか、もっと騒がしい感じじゃないですか。
でも、お隣から聞こえるのは、もっとボソボソとした……お経を唱えるような、低い話し声なんです。
しかも、それが何十人もいるような感じで。
壁に耳を当ててみたことがあるんですけど、全員が同じタイミングで喋ってるみたいで、ゾッとしました。
編集M:Kさんの声は聞こえましたか?
Oさん:ええ。時々、やけに明るい声で「そうだね」「楽しいね」って相槌を打ってるのが聞こえました。誰かとお話ししてるみたいに。でも、相手の声は聞こえないんです。Kさんの声と、バックで流れてるそのザワザワしたノイズみたいな声だけで。
編集M:他には何か?
Oさん:あと、匂いです。
今も少し漂ってますけど、土臭いというか、カビ臭いというか……。
雨上がりの森の中みたいな匂いが、換気扇から流れてくるんです。
洗濯物に匂いがつくから困るって苦情を入れたんですけど、出てくれなくて。
編集M:Kさんの姿を見かけたことは?
Oさん:3日前の朝、ゴミ捨て場で見ました。
その時の恰好が……季節外れの黒いコートを着て、眼鏡をかけてて。
Kさん、前は眼鏡なんてかけてなかったですよね?
挨拶しようと思ったんですけど、やめました。
編集M:なぜですか?
Oさん:ゴミ袋の中身が見えちゃったんです。
半透明の袋の中に、大量の写真が入ってて。
それが全部、ハサミで切り刻まれてるんです。人の顔の部分だけが、丁寧にくり抜かれてて。
それを見ながら、Kさん、ゴミ捨て場の前でニタニタ笑ってたんです。
「これでもう大丈夫だ」ってブツブツ言いながら。
怖くなって、逃げるように部屋に戻りました。
あの方、もう普通じゃないですよ。早くなんとかしてください。
【証言記録2:宅配業者 Y氏】
(アパートのエントランス付近で、配送トラックのドライバーに接触)
編集M:このアパートの202号室、Kさんのところによく配達に来られていますよね?
Y氏:ああ、202号室の……。ええ、最近すごく注文が増えてて。
編集M:どのようなものを?
Y氏:それが、全部「靴」なんですよ。
ネット通販で、中古の靴を大量に買ってるみたいで。
紳士靴、婦人靴、子供の運動靴……サイズもバラバラです。
毎日、段ボール箱が3つも4つも届くんです。
編集M:そんなに大量の靴を……。受け取りの時の様子は?
Y氏:それが一番気味が悪くて。
インターホンを鳴らすと、すぐに出るんです。待ち構えてたみたいに。
でも、ドアをほんの少し、チェーンがかかるギリギリの隙間しか開けないんです。
隙間から、眼鏡のレンズが光ってるのが見えるだけで。
編集M:顔色は?
Y氏:暗くてよく分かりません。でも、手が……。
伝票にサインをもらう時に手が出てくるんですけど、その手が真っ黒なんです。
泥遊びでもしたのかってくらい、爪の間まで土が詰まってて。
それに、やけに冷たいんです。伝票を受け取った時に指が触れたんですけど、氷みたいでした。
編集M:部屋の中の様子は見えましたか?
Y氏:隙間からチラッとだけ。
玄関のタタキが見えたんですけど、そこが異常でした。
靴が、山積みになってるんです。
届けたばかりの靴じゃないですよ。泥だらけの、古びた靴が、足の踏み場もないくらいギッシリと並んでて。
しかも、全部つま先を部屋の方に向けて、きっちりと揃えられてるんです。
まるで、大勢のお客さんが上がり込んでるみたいに。
編集M:……そうですか。
Y氏:あ、そうだ。
昨日の配達の時、サインをもらったんですけどね。
いつもなら名字を書くじゃないですか。
でも昨日は、サイン欄にびっしりと文字が書いてあって。
編集M:何と書いてあったんですか?
Y氏:読めないんです。
ミミズがのたうち回ったみたいな字で、何十個もの名前が重ね書きされてて。
判別できたのは「タナカ」「サトウ」「ヤマダ」……とか、ありふれた名字ばかりでした。
「これじゃ困ります」って言ったら、中から低い声で「みんな僕だよ」って言われて。
怖くなって、荷物を置いて逃げてきました。もうあそこには行きたくないです。
【現地潜入レポート:K氏の部屋】
近隣住民と宅配業者の証言から、K氏の異常性は明らかだった。
私は意を決して、202号室の前に立った。
ドアの前まで来ると、Oさんの言っていた「匂い」が鼻をついた。
湿った土の匂い。古い神社の床下のような、澱んだ空気。
インターホンを押す。
反応はない。
しかし、中からは確かに人の気配がする。
耳を澄ますと、ザザッ……ザザッ……という衣擦れの音と、複数の人間がひそひそ話をしているような気配が漂ってくる。
「Kさん、編集部のMです。入りますよ」
私は持参していた合鍵(K氏から緊急用として預かっていたもの)を取り出した。
鍵穴に差し込む。鍵は開いていた。
ノブを回すと、軋んだ音と共にドアが開いた。
その瞬間、強烈な腐臭混じりの湿気が吹き出してきた。
「うっ……」
ハンカチで口を押さえながら、私は玄関に踏み込んだ。
宅配業者の証言通りだった。
玄関、そして狭い廊下にかけて、数百足はあるだろうか、おびただしい数の靴が並べられている。
革靴、スニーカー、サンダル、長靴。
どれも泥にまみれ、古びている。
サイズも年代もバラバラだ。
ここにあるはずのない、昭和初期のような布靴まである。
私は靴の山を避け、爪先立ちで廊下を進んだ。
ダイニングキッチンのドアが開いている。
そこから、薄暗い光が漏れていた。
「Kさん?」
部屋の中に入った私は、その光景に言葉を失った。
6畳ほどのワンルームは、泥で埋め尽くされていた。
床が見えない。厚さ数センチの黒土が、部屋全体に敷き詰められている。
そして、その土の上には、無数の「服」が置かれていた。
シャツ、ズボン、スカート、ジャケット。
それらはただ置かれているのではない。
中に詰め物(おそらく泥と新聞紙)をされ、人間が座っているかのような形に整えられ、車座になって配置されていた。
その数、およそ20体。
泥人形たちが、部屋の中心を囲むように座っている。
そして、その中心に、K氏はいた。
彼は、泥まみれのスーツを着て、車座の中心であぐらをかいていた。
髪は伸び放題で、泥で固まっている。
顔には、度数の合わない分厚いロイド眼鏡をかけている。
その目は虚ろで、焦点が合っていない。
私の姿を見ても、彼は驚かなかった。
むしろ、待ち人が来たかのように、ゆっくりと口角を上げて笑った。
「やあ、Mさん。遅かったね」
彼の声は、録音データで聞いたあの「ノイズ混じりの声」そのものだった。
口元は笑っているが、目が笑っていない。
そして、彼の口が動くのに合わせて、周囲の泥人形たちからも、カサカサという音が響く。
「Kさん、これは一体……」
「パーティだよ。歓迎会さ」
K氏は両手を広げた。
「紹介するよ。こっちが小学校の時の同級生のマサトくん。こっちは親戚のケイちゃん。あっちにいるのが、H団地で知り合ったおじいさん」
彼は、何もない泥人形の服を指差して、嬉しそうに紹介していく。
「みんな、やっと集まれたんだ。名前をなくして、居場所をなくして、迷子になってたみんなが。僕が呼んであげたんだよ。この部屋なら、みんなで住めるからね」
「Kさん、しっかりしてください! ここはあなたのアパートです。こんな泥だらけにして……」
「泥じゃないよ。これは『苗床』さ」
K氏は足元の黒土を愛おしそうに撫でた。
「記憶を定着させるには、土が必要なんだ。コンクリートの上じゃ、根が張れないからね。見てごらん、みんな嬉しそうだろう?」
部屋の空気が、重くなる。
気のせいではない。泥人形たちの「服」が、微かに膨らんだりしぼんだりしている。
まるで呼吸しているかのように。
そして、部屋中に貼られた写真――壁紙が見えなくなるほどビッシリと貼られた集合写真の群れ――から、無数の視線を感じる。
写真の中の人々の顔は、すべてK氏の顔に似た「眼鏡の男」に書き換えられていた。
「Mさん、君も座りなよ」
K氏が、自分の隣のスペースをポンポンと叩いた。
そこには、まだ詰め物の入っていない、ぺしゃんこのスーツが置かれていた。
見覚えがある。
私が先日、K氏との打ち合わせに着ていったスーツと同じ柄だ。
「君の席、とっておいたよ」
背筋が凍りついた。
彼は、私を「取材者」としてではなく、「コレクションの一部」として見ていたのだ。
「いい記事にしてくれたお礼さ。君も、名前を捨てて楽になりなよ。編集者なんて肩書き、重いだろう? ただの『友人A』になれば、責任も締め切りもない。みんなとずっと遊んでいられるんだ」
「ふざけるな!」
私は叫んだ。
恐怖を怒りで押し殺し、K氏に詰め寄ろうとした。
その時、私の足首を何かが掴んだ。
「うわっ!?」
見下ろすと、泥の中から白い手が伸びていた。
いや、手ではない。泥が盛り上がり、手の形をして私の足首に絡みついているのだ。
粘着質で、冷たく、強い力。
「逃がさないよ」
「いかないで」
「こっちにおいで」
「あそぼうよ」
部屋中の泥人形から、声なき声が響く。
それは幻聴ではない。物理的な音の振動として、私の鼓膜を震わせた。
K氏の笑顔が深くなる。
彼の口が、ありえない大きさに裂け、笑みの形に歪んでいく。
「Mさん、君の名前、もう手帳に書いちゃったんだ」
彼は懐から、あの「黒いノート」を取り出した。
パラパラとめくられたページ。
その最新のページに、私のフルネームが、赤い文字で記されていた。
『M田 ケンイチ(収穫待ち)』
「う、うわああああああ!」
私は足首を掴む泥を必死で蹴り飛ばした。
靴が脱げたが、構わずに裸足で廊下を走った。
玄関の靴の山を踏みつけ、転びそうになりながらドアを開ける。
背後から、K氏の――いや、K氏だったモノの、穏やかで優しい声が追いかけてきた。
「また来てね。いつでも待ってるよ。僕たちは、どこにでもいるから」
私はアパートを飛び出し、大通りに出るまで走り続けた。
心臓が破裂しそうだった。
タクシーを拾い、震える手で編集部の住所を告げた。
運転手が、バックミラー越しに怪訝な顔で私を見ていた。
「お客さん、片足、裸足ですよ」
私は答えられなかった。
ただ、足の裏に残る泥の感触と、あの部屋の生温かい空気が、皮膚にこびりついて離れなかった。
【編集後記】
あの日以来、私はK氏のアパートには近づいていない。
管理会社には、親族を装って「本人が失踪したため契約を解除したい」と伝えたが、彼らによると、部屋の中は「もぬけの殻」だったという。
泥も、靴も、写真も、すべて消えていたらしい。
ただ、部屋の中央に、一冊の大学ノートだけが残されていたという。
警察にも相談したが、事件性は薄いとして相手にされなかった。
K氏は、法的にはまだ「行方不明者」扱いだ。
しかし、私は知っている。
彼は消えたのではない。
拡散したのだ。
昨日、電車に乗っていた時のことだ。
向かいの席に座っていたサラリーマンが読んでいた週刊誌。
その表紙の集合写真――アイドルのグループ写真――の隅に、見覚えのある顔があった。
眼鏡をかけ、猫背で、穏やかに微笑む男。
K氏だった。
いや、K氏の顔をした「彼」だった。
そして、今朝。
自宅の郵便受けに、一通の封筒が入っていた。
差出人の名前はない。
中には、一枚の写真が入っていた。
私の、家族写真だ。
先月、妻と娘と撮ったばかりのピクニックの写真。
その背景、桜の木の陰に、彼がいた。
彼は、私の娘の肩に手を置き、楽しそうにピースサインをしていた。
写真の裏には、こう書かれていた。
『素敵な家族だね。今度、遊びに行くよ』
私は今、震えながらこの原稿を書いている。
第8話、最終話の原稿は、まだ届いていない。
しかし、予感がある。
最終話を書くのは、私ではないかもしれない。
あるいは、これを読んでいる「あなた」の元に、原稿用紙を持った彼が現れるかもしれない。
インターホンが鳴った。
モニターには誰も映っていない。
だが、ノイズの向こうから、聞き覚えのある声がする。
『ねえ、Mさん。原稿、持ってきたよ』
(第7話 了)
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