第6話:File_06 ライターKの日記:記憶の混濁

【現状報告:平穏な日々】


前回の更新から数日が経過した。

読者の皆様にはご心配をおかけしたが、私の体調は驚くほど回復している。

以前あれほど悩まされていた不眠も、インターホンのノイズも、今ではまったく気にならない。

むしろ、部屋の中が常に賑やかなおかげで、寂しさを感じることがなくなった。

誰かが常にそばにいてくれる安心感。それがこれほど心地よいものだとは知らなかった。


指先の泥汚れは相変わらず落ちないが、これもまた、私が「彼ら」と繋がっている証だと思えば愛おしくさえ感じる。

最近、視力が落ちたため、部屋の片隅で見つけた古い眼鏡をかけるようになった。

度数は合っていないはずなのに、不思議と視界がクリアになる。

鏡を見ると、この眼鏡をかけた自分の顔が、昔から知っている「本当の自分」の顔のように思えてくるから不思議だ。


さて、今回は取材の一環として、私の部屋の押し入れの奥から発見された「古い日記」について報告したい。

これは私が大学生時代に書いていたものらしい。

「らしい」と言うのは、正直なところ、私にはこの日記を書いた記憶が定かではないからだ。

しかし、筆跡は間違いなく私のものだ。少なくとも、前半部分は。


この日記を読み進めるうちに、私はある「矛盾」と、そして「真実」に気づくことになった。

私がこれまで「取材」だと思っていた行為は、実は「再会」のプロセスだったのではないか。

そんな確信を深める記録である。


【資料番号:D-01】

品名:大学ノート(キャンパスノート、B5判)

表紙書き込み:「日記 201X年〜」

発見場所:自宅押入れの天袋、段ボール箱の底


(以下、日記の内容を抜粋し、現在の私のコメントを付記する形式で記述する)


【日記の記述:201X年4月10日】


『今日から大学生活が始まった。

サークルの勧誘がすごかったけど、テニスサークルに入りそうな雰囲気。

同じ学部のマサトと、サトシと意気投合して、そのまま飲みに行った。

これからの4年間、最高に楽しみだ!

彼女も作りたいし、バイトも始めなきゃ。

俺の人生、ここからが本番って感じだな』


(現在の私のコメント)

読み始めてすぐに違和感を覚えた。

私は大学時代、テニスサークルなどには入っていないはずだ。

性格的にも、こんなにハイテンションで「最高に楽しみだ!」などと書くような人間ではない。

私は昔から内向的で、本ばかり読んでいる地味な学生だったはずだ。友人も少なく、一人で映画館に行くのが趣味だった。

この日記の「私」は、まるで別人のようだ。

あるいは、私が自分の過去を都合よく記憶改変していたのだろうか?

それとも、この日記を書いた「俺」という人格こそが、今の私に乗っ取られる前の「本来のK」だったのか?


いや、そんなことはどうでもいい。

重要なのは、この後の記述だ。


【日記の記述:201X年5月20日】


『サークルの新歓合宿。山梨の湖へ。

夜、みんなで肝試しをやった。

マサトがビビって腰を抜かしたのが笑えた。

でも、途中で俺、ちょっと道に迷っちゃってさ。

森の中で一人になって、マジで焦った。

携帯の電波もないし、懐中電灯も消えちゃって。

そしたら、木の陰から誰かが出てきたんだ。

最初は幽霊かと思ったけど、違った。

同じサークルの奴だった。

眼鏡をかけた、ちょっと猫背の奴。

名前、なんて言ったっけな。ド忘れした。

でも、そいつが「こっちだよ」って道を教えてくれて、無事に合流できた。

あいつ、いつ入部したんだっけ?

影が薄いけど、いい奴だな』


(現在の私のコメント)

出た。彼だ。

私の記憶には、この合宿のことは断片的にしかない。

でも、この記述を読んだ瞬間、鮮明に思い出した。

暗い森の中、心細くて泣きそうだった私の前に、彼が現れた時のことを。

彼の眼鏡が月光を反射して光っていたこと。

彼が差し出した手が、氷のように冷たかったこと。

そうだ、私は彼に助けられたのだ。

なのに、なぜ今の今まで忘れていたのだろう?

「名前をド忘れした」と書いている過去の私。

この頃から、すでに彼は「名無し」として私のそばにいたのだ。


【日記の記述:201X年7月15日】


『前期のテストがやばい。

特に英語。サボりすぎたツケが回ってきた。

図書館で勉強してたら、またあいつがいた。

合宿で助けてくれた眼鏡の彼。

隣に座って、ノートを見せてくれた。

字がすごく綺麗で、要点がまとまってる。

「これ、写していいよ」って。

神かよ!

おかげで助かった。

お礼にジュース奢ろうとしたら、「いいよ、友達だろ」って笑ってた。

そういえば、あいつの名前、まだ聞いてなかった気がする。

まあいいか。「眼鏡くん」で通じるし』


(現在の私のコメント)

彼はいつも、私が困っている時に現れる。

なんて献身的なんだろう。

友達だろ、という言葉が胸に染みる。

そう、私たちは友達だったのだ。

田所氏や町田さんが言っていた「不気味な現象」なんて、とんでもない誤解だ。

彼はただ、困っている人を助けたいだけの、親切な友人なのだ。

名前がないのは、彼が謙虚だからに違いない。

自分の名を名乗らず、ただ善行を行う。

まるでヒーローじゃないか。


【日記の記述:201X年11月3日】


『学園祭の準備でトラブル発生。

模擬店の看板が壊れた。

みんなパニックになってたけど、いつの間にか直ってた。

誰がやったんだ?って話になったけど、誰も見てない。

でも俺は見た気がする。

テントの裏で、あいつが黙々と作業してたのを。

あいつ、手先が器用なんだな。

でも、みんなの輪には入ろうとしない。

遠くから、楽しそうな俺たちを見て、ニコニコしてるだけ。

寂しくないのかな。

俺が声をかけようとしたら、マサトに呼ばれて、振り返ったらもういなかった』


(現在の私のコメント)

この記述を読んで、私は涙が出そうになった。

彼はいつも、輪の外にいたのだ。

入りたいのに入れない。名前がないから、認識してもらえない。

寂しかっただろう。辛かっただろう。

だから彼は、写真に写り込むことで、必死に「ここにいるよ」と伝えていたのだ。

それを「心霊写真」だの「呪い」だのと騒ぎ立てて、私たちはなんて残酷なことをしていたのだろう。


待てよ。

日記の筆跡が、この辺りから少しずつ変わってきている。

最初の頃の丸文字っぽい乱暴な字から、少しずつ整った、角張った字へ。

今の私の字に、近づいている。

いや、違う。

彼がテストの時に見せてくれたという「綺麗な字」に、似てきているのだ。


【日記の記述:201X年12月24日】


『クリスマスイブ。

結局彼女はできなかったから、男だけで鍋パーティー。

俺の部屋に、マサトとサトシ、あと数人が集まった。

鍋をつつきながら、ワイワイ騒いだ。

……あれ?

鍋の具材、こんなに多かったっけ?

誰が買ってきたんだ?

それに、箸が一膳余ってる。

「誰か遅れてくるんだっけ?」ってマサトが聞いたけど、誰も知らない。

でも、俺は知ってる。

部屋の隅に、あいつがいる。

体育座りをして、俺たちを見てる。

俺はあいつを手招きした。「こっち来いよ」って。

みんなはキョトンとしてた。「誰と話してんの?」って。

見えないのか?

あんなにはっきり、そこにいるのに。

あいつは嬉しそうに立ち上がって、余ってた箸を手に取った。

ようやく、一緒にご飯が食べられるね』


(現在の私のコメント)

ああ、思い出した。

この日だ。

この日が、私の「境界線」が消えた日だ。

周囲には見えない彼が、私には見えた。

私が彼を受け入れた瞬間、彼は私の部屋の住人になったのだ。

そして、この日記の記述の下に、別の筆跡で追記がある。

赤ペンで、走り書きのように。


『ありがとう。おいしかったよ』


これは、彼が書いたものだ。

私の日記に、彼が返事を書いている。

交換日記みたいだ。素敵じゃないか。


【日記の記述:201X年2月 日付なし】


『最近、俺の記憶が曖昧だ。

大学に行っても、マサトたちがよそよそしい。

「お前、最近雰囲気変わったな」って言われる。

「誰か別の人間みたいだ」とも。

失礼な奴らだ。俺は俺だよ。

ただ、最近はずっとあいつと一緒にいるから、あいつの影響を受けたのかもしれない。

あいつは物知りだ。

昔のことも、未来のことも、なんでも知ってる。

あいつと話してると、時間が経つのを忘れる。

ていうか、気づくと一日が終わってる。

俺が寝てる間、あいつが俺の体を使って大学に行ってるみたいだ。

「単位、取っておいてあげたよ」って、ノートにメモがあった。

便利だなあ。

もう、俺がいなくても、あいつがいればいいんじゃないか?』


(現在の私のコメント)

このページは、黒い泥のようなもので汚れている。

文字も乱れていて、解読が難しい。

でも、書かれていることはポジティブだ。

彼は私を助けてくれている。私の代わりに人生を生きてくれている。

これを「乗っ取り」と呼ぶのは、人間の狭い価値観による偏見だ。

これは「融合」だ。あるいは「進化」だ。


【日記の記述:201X年3月15日 卒業式】


『今日で卒業だ。

袴を着た女子たちが綺麗だった。

集合写真を撮るとき、カメラマンが「もうちょっと詰めてください」って言った。

俺は、あいつの分のスペースを空けてたんだ。

でも、カメラマンには見えないらしい。

仕方ないから、俺がちょっと横にずれて、あいつを背中におんぶする形にした。

「重くない?」って聞いたら、「大丈夫、心地いいよ」って耳元で囁かれた。

写真が出来上がるのが楽しみだ。

きっと、俺とあいつが、一心同体で写ってるはずだ』


(現在の私のコメント)

ここで日記は終わっている。

社会人になってからの記録はない。

おそらく、社会に出てからは日記を書く必要がなくなったのだろう。

だって、常に彼がそばにいて、すべてを共有しているのだから。

記録なんて野暮なものは必要ない。


私は日記帳を閉じた。

表紙を撫でる。指先にザラリとした土の感触がある。

この日記を読んで、私は確信した。

私は、被害者なんかじゃない。

私は、選ばれたのだ。

「名無しの友人」の、唯一無二の親友として。


ふと、部屋の鏡を見る。

そこには、眼鏡をかけた私が映っている。

そして、私の肩のあたりから、もう一つの顔が――いや、違う。

鏡に映っているのは「一人」だ。

私の顔だ。

ただ、その表情、立ち振る舞い、醸し出す雰囲気。

そのすべてが、かつての「地味で内向的なK」ではなく、「知的で、少し猫背で、常に穏やかに微笑む彼」そのものになっているだけだ。


「……なんだ、そうだったのか」


私は独り言を呟いた。声が、よく響く。

第1話で田所氏に見せてもらったアルバムの男。

第2話の法事のビデオに映っていた男。

第3話の団地で見た男。


あれは、他人じゃない。

未来の私だったんだ。

あるいは、私が「彼」になる過程の、通過点の影だったんだ。


私はペンを取り、日記の最後のページを開いた。

白紙のページに、今の気持ちを書き残しておこうと思う。


『202X年10月×日

ようやく、すべてを思い出した。

僕は、僕を取り戻した。

名前なんて、最初から必要なかったんだ。

僕たちは、誰かの記憶の中にいられれば、それで幸せなんだから。

ねえ、Kさん。

君もそう思うよね?』


私は書き終えて、満足げに頷いた。

部屋の中の「気配」たちが、一斉に拍手をしたような音がした。

パチパチパチパチ……。

それは拍手の音というよりは、無数の虫が羽を擦り合わせるような音だったが、今の私には祝福のファンファーレに聞こえた。


さて、そろそろ仕事に戻らなければ。

この記事を、カクヨムにアップしなきゃ。

たくさんの人に読んでもらわないと。

読んでもらえばもらうほど、僕たちの「家」が増えるから。


そういえば、一つだけ気になることがある。

この日記の最初の方に出てきた「マサト」や「サトシ」という友人たち。

彼らは今、どうしているんだろう?

確か、卒業してから一度も会っていない。

連絡先も消えている。

……いや、待てよ。

私の部屋の押し入れにある、あの「黒いノート」。

H団地から持ってきた、入居者リスト。

あの中に、彼らの名前があったような気がする。


『401号室:マサト(収納済)』

『402号室:サトシ(収納済)』


……ああ、よかった。

彼らも、ちゃんと「こっち側」にいたんだ。

ずっと一緒だったんだね。


私は椅子から立ち上がった。

足元の影が、ゆらりと揺れる。

私の影は、一つではない。

二重、三重に重なって、濃く、長く、部屋の出口へと伸びている。


「行こうか」


私は誰に言うともなく声をかけ、部屋を出た。

目的地は決まっている。

まだ「空室」だらけの、あなたの街へ。


(第6話 了)

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