第21話 異形


 ウェルズの声の直後、黒い影が男たちの前に躍り出た。


「カミオチ!」

「囲め!」


 高い門をものともせず、頭上から降ってきた影。

 黒く、長くまとわりつく毛が全身を覆っている。

 左右に避けた口。尖った耳。ぶらりと垂れさがった両手と、歪な背中。

 人の要素を残しながら、人ではない。

 人ならざる生き物──


(まるでケモノみたいな……)


 その姿を見ただけで、嫌悪感が湧いてくる。

 あれは異質なものだと。

 異形で、おぞましく、その性質は生きている人間とは相いれないものだと。

 全身の細胞が、カミオチの存在を否定している。


 自分の体を抱きしめ、オリトは瞬きすら忘れて黒い生き物を見る。

 あれは本当に人だったものなのか。

 毛が全身を覆いつくし、まるで――そう、まるで野生動物のような様相をしている。


 そして異質なのは体だけではない。

 両目には瞳がなく、完全に黒く染まっている。

 だがそのオリトの認識も、カミオチが動いた時に間違いだと悟った。


(黒じゃない。周りの毛が黒いからそう見えるだけで、瞳に色はない。完全に透明な球体だ!)


 全ての色を拒絶するかのような黒い毛と、色を失った瞳。

 人と神が近いこの世界で、神を捨てた者は人としての生すら捨てるのか。


「ぐっぷ……」


 込み上げてくる酸っぱい胃液を飲み込み、オリトは見開いたままの両目から涙を流してカミオチを凝視し続ける。


「攻撃! 近づきすぎるな!」


 ウェルズの指揮に合わせ、男たちが動く。

 カミオチの長く伸びた足の爪が地面を掻く。


「オオオ、グ、ルルルゥゥヴオオオ……!!」


 人の言葉を忘れたケモノの叫びが、口元から涎と共に漏れる。

 ガリ、ガリリ……馬車により押し固められた前庭が削られていく。


 ガリ……ガッ!!


 黒いケモノが高く跳躍した。

 同時に突き出された何本もの剣。

 放たれる火の矢。


 カミオチの毛に触れた火は、消えることなくチリチリと体表を焼く。

 ジルストの火の神の祝福によるものだろう。

 素早く地面を転がって火を消すカミオチ。

 フーフーと荒い息を吐き、裂けた口を空へと向けた。


「グオオオオオオ!」


 苦しみ、痛み、怒り。

 叫びの中に混ざる感情が押し寄せ、オリトは両耳を塞ぐ。

 それでも目だけは戦いから逸らせない。

 とめどなく溢れる涙が、視界を滲ませる。


(どうして。どうして? 神様、どうして……)


 それはオリトの感情のようで違う。

 別の誰かの叫び。

 それは人としての感情を失ったはずのカミオチから伝わってくる。

 気づけは、オリトだけでなく馬車の外にいる男たち――ウェルズやジルストですら、涙で頬を濡らしていた。


(これは、神様が伝えてきてる? なんで、神を捨てたカミオチの感情を僕らに? 何の意図で?)


 疑問ばかり浮かぶ。

 聞きたくないのに、感じ取りたくないのに伝わってくる感情。

 耳を塞いでも意味はない。


「気をしっかり持て! 惑わされるな!」

「剣を下げるな! 前へ! 火矢を放て!」


 ウェルズとジルストが男たちに喝を入れて鼓舞する。

 オリトも馬車の中で体をピクリと震わせ、グイッと目元を拭った。


 見守らなければならない。

 この戦いの行方が見えていても。

 最後の時まで見続ける義務がある。


 オリトはそう感じた。


 緊張が場を支配する。

 しんとした静寂の後、ふわりと空気が揺れた。

 矢の先端に灯った炎だ。


「放てぇ!」


 ジルストの合図と同時、四方から火矢が放たれる。

 祝福により勢いを増した火が、矢と共にカミオチの全身に突き刺さる。


「グギュウオオオオオ!」

「行け!」

「おおおおお!」


 剣を手にした男たちが、痛みの叫びを上げるカミオチの元へと走る。

 がむしゃらに振り回されるカミオチの腕をかいくぐり、剣が振られる。

 一人、二人……カミオチの攻撃をかわし、横を駆け抜けざまに傷をつける。

 三人、四人目が剣を振るい離れた瞬間、火矢の二射目が放たれた。


「グガアアアアアア!」


 カミオチががくりと地面に膝をつく。

 チリチリと毛が焼ける不快な臭いが、オリトのいる馬車まで届いた。


(もう、いいじゃないか。抵抗しないで、諦めて)


 それが死を意味すると分かっていながら、オリトは願ってしまう。

 無意識に組んだ両手の指は白くなり、力が入りすぎてぶるぶると震える。


「ガ、ガアアアアア……」


 もがくように地を引っかく両手。

 しがみつこうとしているのは大地ではなく、残された生だろう。

 そのカミオチの前に一人の男が立った。


「この地を守る一族の者として、お前を神の元へと送る」


 厳かに告げられた最後の言葉。

 カミオチの色のない透明な瞳がジルストを見上げる。

 ジルストはその瞳に映りこむ自分の姿を認識する前に、両手で柄を強く握った剣を振るう。


 ドサリと鈍い音。

 黒い塊が地面に落ちる。

 ザワリと空気が震えた。


 それは見えない神々の悲鳴のようで。

 そしてケモノと化していたその生物は、元の姿を現した。

 揺れた風が過ぎ去った時、地面に横たわっていたのは、一人の男。


 直後、視界が紫一色に染まった。


 それを目にしたあと、オリトは意識を手放した。


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