第20話 カミオチ


 オリトはお茶を飲み干し、予定よりもずいぶんと長い時間、セディックを付き合わせてしまったことにお詫びと感謝を告げて立ち上がる。

 緑色の色紙は持ってきていた手帳に挟んで、丁寧に鞄の中にしまい込んだ。

 自分が紙の神の祝福で何をしていけばいいのか、何がしたいのか。今日半日だけで、だいぶ明確になった気がする。


 セディックは茶を運んでくれた使用人にジルストの仕事ももうすぐ終わると確認を取ってくれていたようで、玄関には馬車の準備ができていると教えてくれた。

 できる男はこうやって案件を並行で進められるんだなと、オリトは心の中でセディックの優秀さを賞賛する。

 ぽってりとした鼻と丸眼鏡のせいで柔和に見えるけれど、中は相当な切れ者な気がする。

 二人が玄関についてすぐ、ジルストも商会の上役らしき人と共にやって来た。


「オリト、待たせたか」

「いいえ、僕も来たところです。ジルスト兄上こそ、お仕事お疲れ様です」

「……ああ」


 ポンッと高い位置からオリトの頭の上に重みが乗って、離れていく。

 ジルストに撫でられたのだと気づいた時にはすでに離れてしまった手のひらを、オリトは目で追いかける。


(うひぃ、顔、崩れそう)


 唇を左右にきゅっと引き結んで、オリトはジルストの手から彼の横に立つ人物へと視線を動かす。

 相手もオリトを見ていたようで、同時に視線がぶつかった。

 柔和な紳士然とした中年の男性。兄が会いに来た相手ならば、商会で重要な立場にいるに違いないと、オリトは姿勢を正して彼を見上げる。


「初めまして。オリト・アシュヴァルです」

「オリト様、このフェーベ商会の副商会長をしております、ウェルズと申します。今日は楽しんでいただけましたでしょうか」

「はい、とても有意義な時間を過ごさせていただきました。セディックさんやシュークラさんなど、優秀な方々とお話しできてとても楽しかったです」

「それはこちらとしても大変嬉しいです。皆、この商会の宝です」


 ウェルズの言葉と共に、オリトの背後で丸眼鏡のセディックが丁寧に礼を取る。

 ジルストのいる前でセディックたちを褒めたことにより、彼らの評価、ひいては商会の評価を上げることになった。

 たった十歳の子供でも貴族の子女への対応を間違えば、仕事に大きな影響が出る。

 オリトの配慮にセディックは心から感謝した。


「では、世話になった」

「ありがとうございました」


 ウェルズとセディックに挨拶をし、ジルストの後に続いてオリトは馬車へと足を踏み出した。


 その時――ざわりと、髪の毛が逆立つような悪寒が奔った。


 体の奥が寒くなるような感覚。

 何か、自分の大切なものを奪われたような恐怖。

 全身が凍り付くような寒気を感じ、その場に立ち尽くす。

 足から徐々に命が吸い取られていくようだ。


「カミオチだあ!」


 誰かの大声。

 カミオチ――背神はいしんし、神に見放された者。

 それが、すぐ近くに来ている。


 首を動かし、声がしたほうへと顔を向けようとしたその時、強い力で腕を掴まれた。


「オリト、馬車に入りなさい」


 顔をあげれば、真剣な表情の兄ジルスト。

 子供の反抗心か、咄嗟に抗いそうになるのをぐっとこらえる。

 今も体を包む凍り付くような恐怖。

 自分がここにいてはいけない。


 ジルストの手がオリトの背中を押すのに促され、オリトは素早く馬車のステップを蹴って中に転がり込んだ。

 そしてその勢いのまま馬車の窓に張り付く。

 ドッドッドッと暴れる心臓。


(神様、これは、神様の感情? 神に見放された人が近くに来たから、怒っているの? それとも、悲しい?)


 カミオチに会ったことないオリトは、その存在の名称は知っていても怖いとは思ったことがなかった。

 それなのに近くにいることを知らされる前に、全身でカミオチがいると分かった。周囲の人たちも、きっとそうだ。

 それは自分の中の感情というより、神様とつながっている糸が無理矢理ちぎられそうな感覚だ。


「警備員! 前へ!」


 大声はウェルズのものだ。

 つい先ほど挨拶した時の柔和な印象は消え、緊張の走った顔で指示を飛ばしている。


「ジルスト様も馬車の中へ」

「いや、この領でカミオチが出たのであれば、次期子爵である私が責任を持って見届けなければならない」

「承知しました。ジルスト様のお力を借りることになるかもしれません」

「もちろんだ」


 ジルストの力ということは、火の神の信徒としての力ということだろうか。

 商館の前には武装した警備員が集まってきている。

 カミオチとはそんなにも危険な存在なのか。

 神を捨て背神者となり、加護も祝福の力もないのに?


 馬車という狭くても守られた空間にいながら、オリトは背筋を這い上がる悪寒に背を震わせる。

 ありえないことだとは分かっていても、背骨の中を凍った蛇が這い上がっていくような恐怖。

 ギシリ、ミチミチと体の中から凍り付き、殺されていく感覚。

 えづきそうになる口を押え、オリトは肩を馬車の壁にもたれかけた。


 窓からは臨戦態勢を整えた男たちが並ぶのが見える。

 剣や、弓などそれぞれの武器を構えた姿は、ここが平和な世界ではない証だ。

 この商会に雇われた警備員から数メートル離れた後方には、オリトの兄であるジルストもいた。

 相応に重いはずの剣を右手一本で持ち堂々とした佇まいは、子爵の後継者という立場以上の存在感を放っている。

 そして彼の左手には、一本の松明が握られていた。


(あれは、兄上が火の神様の祝福で出した火だ)


 恐らく周囲にいる警備員たちもそれぞれの神の加護を纏っているのだろう。

 今も続く悪寒と戦いながら、オリトは状況を見守る。


「来るぞ! 用意を!」


 ウェルズの声が鼓膜を震わせた。



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