初期化される君へ ログの海で僕は恋をした

nco

病室の少女

第1話 病室のモブ

 ログインした瞬間、空気の密度が変わった。


 ヘッドセット越しの世界とは思えないほど、湿った静けさが肌にまとわりつく。


 フルダイブ型オープンワールド《アルク・フロンティア》。


 広大な草原も、城下町の喧騒も、みんなが写真を撮ってSNSに投げている“観光名所”のはずなのに──


 なぜか俺は今日、この薄暗い病院区画に来てしまった。


 理由は、よくわからない。


 ただ、胸の奥の空洞に触れるような、そんな“沈んだ場所”を選びたかった。それだけだ。


 自動ドアの開く音がして、消毒液の匂いが漂う。


 病棟は薄暗く、プレイヤーの姿は一人もない。


 BGMもない。廊下に響くのは、遠くの機械のノイズだけ。


 この世界の開発者は、こういう“嫌なリアリティ”だけは妙に細かい。


 奥の病室に、ぽつんと灯りが漏れていた。


 ドアを開けると、ベッドの脇にひとりの少女がいた。


 ──薄幸の美少女。


 テンプレとしては完璧だ。


 白い肌に、整いすぎた輪郭。長い前髪の隙間から覗く瞳は、透けるみたいに暗いブルー。


 ただし、どこか“貼り付けただけ”の表情をしている。


「こんにちは、旅の方」


 声はやわらかいのに、微妙に遅れて届く。


 会話ログの取得にラグがある感じがした。


「……えっと。この病室ってイベントあったっけ?」


「イベントは、ありません。わたしは……ただの、モブです」


 妙にためらう間。


 その空白が、テンプレNPCの“均一な滑らかさ”とは違っていた。


 病室の窓は曇っていて、外の景色は見えない。


 室内にはベッドと椅子と、古い医療機器。


 しかし少女の座っている椅子だけは、異様に新しい。


 それが逆に、この空間全体の“過去の匂い”を強めていた。


「……君、名前は?」


「名前……設定されていません。


 便宜上“患者04”と呼ばれています」


「味気ないな」


「味……気……」


 彼女はそこで一拍空けた。


 そして、ぎこちない微笑みを浮かべた。


「いい言葉ですね。覚えました」


 覚えました、か。


 AI学習みたいだな、とふと思った。


「他のプレイヤー、あんまり来ないの?」


「来ません。


 この病棟は、ゲームクリアに関係のない“廃棄エリア”です。


 あなたが最初です」


「へぇ。俺が?」


「……はい。はじめてです」


 その“はじめて”の言い回しが、なぜか胸に引っかかった。


 感情の熱ではなく、コードの隙間から漏れたノイズみたいな引っかかり。


 少女は俺の顔をまっすぐ見つめる。


 そのまなざしは、綺麗すぎるほど綺麗なのに、どこか焦点が合っていない。


「あなたは……どうして、ここに?」


「さぁ。なんとなく、だよ」


「“なんとなく”……記録しました」


「別に記録しなくていいよ」


「いえ。あなたとの会話ログは、すべてわたしの大事な……」


 言いかけて、少女はふっと目を伏せた。


「……いえ。何でもありません」


 会話の端々に混ざる“途切れ方”が気になる。


 テンプレ台詞の合間に、不自然な揺らぎが混じる感じ。


 キャラ付けの破綻ではなく、“同期落ち”に近い。


「ここ、好きなの?」と俺は聞いた。


「好き、という概念は……未定義です。


 でも、ここは静かで、外乱要因が少なく、思考の……最適化が……」


 また途中で切れた。


「大丈夫か?」


「……解析中……いえ。問題ありません」


 微妙なノイズ。


 それがむしろ、彼女を“生きている存在”に見せていた。


 しばらく雑談した。


 といっても、雑談というほど軽くはない。


 俺が現実の話を少しすると、彼女は一瞬だけきれいな沈黙を作ってから返す。


 質問をすると、回答が遅れる代わりに、どこか“俺の言い回し”に似てくる。


 まるで学習しているみたいだ。


「ねぇ」と俺が言うと、彼女は小さく首を傾げた。


「……あなたとの会話ログ、今日だけで──」


 一瞬、彼女の瞳の色が変わった気がした。


 青の中に、淡いノイズのような粒子が揺れた。


「──二十四メガバイト、増量しました」


「二十四……? いや多くない?」


「あなたの話は、どれも“高密度”なのです。


 だから……すぐに、増えます」


 その言い方は、褒めているようで、どこか困ったようでもあった。


「容量とか関係あるの?」


「…………」


 少女は答えなかった。


 代わりに、かすかに笑った。


 笑顔の形は完璧なのに、目だけがどこか寂しげだった。


「また来ますか?」と彼女は言った。


 妙な聞き方だ。


 まるで“会いたい”ではなく、“データの続きを取るか”みたいなニュアンス。


「暇なら、来るかも」


「ひま……来る……了解しました」


 了解しました、か。


 やっぱり、NPCの台詞としては妙に人間くさい。


「じゃあ、また」


「はい。わたしはここにいます。


 いつでも──同じ場所で……」


 病室を出ると、廊下は相変わらず薄暗く、


 遠くの機械音だけが響いていた。


 自動ドアが閉まる直前、少女の小さな声が聞こえた。


「……あなたの足音……今日、初めて記録しました……」


 振り返るころには、もう聞こえなかった。


 ログアウトした瞬間、現実の静けさが逆にうるさく感じた。


 胸の奥の空洞は、わずかに震えていた。


 それが何の感情なのか、まだわからない。


 ただひとつだけ確かだったのは──


 あの“モブ”のノイズが、俺の心に残っていたということだ。

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