File.02 階下の住人・S氏の証言
1.消失した依頼人
フリーライターの仕事をしていると、時折、依頼人が途中で音信不通になることがある。
借金取りに追われて夜逃げした、精神的に不安定になり入院した、あるいは単に気が変わった。理由は様々だが、今回のケース――河合雄介氏の失踪は、それらとは明らかに質の異なる不穏さを孕んでいた。
あの奇妙なメールと電話の後、河合氏とは一切連絡が取れなくなった。
何度電話をかけても、「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」という無機質なアナウンスが流れるだけだ。
アパートの管理会社にも問い合わせてみたが、「個人情報なのでお答えできない」の一点張りだった。しかし、食い下がって聞き出したところによれば、二〇一号室の契約はまだ続いているらしい。家賃は引き落とされている。だが、本人の姿を見た者はいない。
河合氏は、あの「二〇三号室」に取り込まれてしまったのか。
それとも、精神に異常をきたし、どこかへ姿を消したのか。
真相を確かめるためには、外堀から埋めていくしかない。私はそう判断し、再びK市の月見荘へ向かった。
今回のターゲットは、二〇三号室の真下に位置する、一〇三号室の住人である。
郵便受けの表札には『杉本』と手書きのシールが貼られていた。
事前の調査によれば、杉本健太氏(仮名・二十歳)は、近隣の大学に通う学生である。
アパートの前で数時間張り込み、彼がコンビニの袋を下げて帰宅したところを直撃した。
最初は怪訝な顔をされたが、「二階の騒音について調査している」と伝えた途端、彼の表情が変わった。
「やっぱり、上の階、おかしいですよね?」
彼は縋るような目で私を見つめ、部屋に招き入れてくれた。
2.澱んだ部屋
一〇三号室のドアを開けた瞬間、強烈な生活臭が鼻をついた。
コンビニ弁当の空き容器、飲みかけのペットボトル、脱ぎ捨てられた衣服。六畳一間の部屋は、足の踏み場もないほど散らかっていた。
典型的な男子大学生の一人暮らし、と言えなくもない。
しかし、違和感があった。
窓には分厚い遮光カーテンが引かれ、昼間だというのに部屋の中は薄暗い。
そして、部屋の四隅に盛り塩が置かれていた。どれも古くなって湿気を吸い、ドロドロに溶け崩れている。
「汚くてすみません。最近、掃除する気力がなくて」
杉本氏は万年床の端に座り込み、私にパイプ椅子を勧めた。
彼は痩せていた。色白の肌に、無精髭が伸びている。目の下には、以前の河合氏と同じような濃い隈があった。
「河合さん――二〇一号室の方のことはご存知ですか?」
私が尋ねると、彼は首を横に振った。
「いえ、顔を合わせたことは何度かありますけど、話したことはないです。でも、あの人も悩んでたんですか? 上の音に」
「ええ。かなり気にされていました。杉本さんの部屋には、どのような音が聞こえてくるんですか?」
杉本氏は天井を見上げた。
薄汚れたジプトーンの天井板。その一箇所を、彼は忌々しそうに睨みつけた。
「最初は、ただの足音だと思ったんです。ドス、ドス、って踵で歩くような音。でも、管理会社に言ったら『空室だ』って言うし、僕も深夜にバイトから帰ってくることが多いんで、気のせいかなって」
彼は膝の上で拳を握りしめた。
「でも、先月くらいから、音が変わったんです」
「どう変わったんですか?」
「転がす音、です」
「転がす?」
「ええ。ボウリングの玉みたいな、重くて硬いものを、床の上で転がすような音です。ゴロ……ゴロ……って。端から端まで、ゆっくり転がして、壁にドンとぶつかる。それを一晩中、繰り返すんです」
私はメモを取った。
河合氏の証言では「生活音」だった。料理をしたり、テレビを見たりする音。
しかし、階下の杉本氏には「重いものを転がす音」として聞こえている。
音源の正体が異なっているのか、それとも受け取り手の認識の問題なのか。
「ボウリングの玉、と言いましたが、本当にそんな音ですか? 例えば、もっと柔らかいものとか……」
私が水を向けると、杉本氏は唇を噛んだ。
「……言われてみれば、変なんです。重さはあるんですけど、転がる音が、少し湿ってるというか。ゴロン、じゃなくて、グチュ、グチュ、って。濡れた雑巾を丸めて転がしてるみたいな、粘っこい音が混じってるんです」
想像したくない音だった。
「その音は、毎日聞こえるんですか?」
「はい。夜中の二時頃から始まって、明け方まで続きます。だから僕、最近全然眠れなくて。大学もサボりがちになって……」
「管理会社には?」
「言いましたよ! でも、『上が空室なのは間違いない』の一点張りで。鍵を開けて見せてくれって頼んだんですけど、拒否されました。だから、自分で確かめようとしたんです」
杉本氏は部屋の隅にあるクローゼット――二階の押入れの真下にあたる場所――を指差した。
「ある晩、あまりにもうるさいんで、クイックルワイパーの柄で天井を突っついたんです。『いい加減にしろ』って。そしたら」
「音が止んだ?」
「いえ。……転がす音が、僕の頭の真上でピタリと止まったんです。そして、フローリングの床に、耳を押し付けてるみたいな気配がして。そこから、カリ、カリ、カリ……って。床を爪で引っかくような音が聞こえてきたんです。まるで、『ここにいるんだろう?』って確認するみたいに」
杉本氏は両腕をさすった。鳥肌が立っているのがわかった。
「それ以来、怖くて突っつくのはやめました。そしたら今度は、アレが出てきたんです」
彼は天井の中央あたりを指差した。
そこには、直径三十センチほどの黒ずんだシミがあった。
雨漏りのようにも見えるが、形が歪で、中心部が特に濃くなっている。
「最初はもっと小さかったんです。十円玉くらいで。でも、日に日に大きくなってきて。……ライターさん、あれ、何に見えますか?」
私は目を凝らした。
ただの湿気のシミに見える。古いアパートなら珍しくない。
しかし、じっと見つめていると、濃淡の模様が意味のある形に見えてくる。
二つの暗い窪み。その下にある、裂け目のような線。
人の顔。
それも、苦悶に歪んでいるのではなく、だらしなく崩れた、無表情な顔。
「人の顔、に見えなくもないですね」
私が慎重に答えると、杉本氏は深く頷いた。
「そうでしょう? あれ、動くんですよ」
「動く?」
「目の位置が変わるんです。昨日は右を見てたのに、今日はこっちを見てる。寝ていると、視線を感じて目が覚めるんです。あそこから、誰かがじっと見下ろしている。……きっと、上の住人は、床に染み込んでこようとしてるんです」
精神的な摩耗が見て取れた。
睡眠不足と恐怖によるパレイドリア効果(壁のシミなどが顔に見える現象)だろう。
しかし、その原因となっている「二〇三号室の音」自体は、河合氏の証言とも共通している。
空室から響く、異常な音。
それは、上の階には「幸福な家庭の幻影」を見せ、下の階には「重圧と監視の恐怖」を与えているようだった。
3.矛盾する隣人像
一通りの証言を聞き終え、私は取材の核心に触れることにした。
「杉本さん。実は、二〇一号室の河合さんは、『二〇三号室には誰も住んでいないはずだが、若い女性の声が聞こえる』と言っていました。そして最後には、『若い女性と会った』と言い残して連絡が取れなくなりました」
杉本氏の反応を待った。
彼はきょとんとした顔をした。
「若い女性? そんなはずないですよ」
「なぜ言い切れるんですか?」
「だって、僕、会いましたもん」
心臓が跳ねた。
「会った? 誰にですか」
「二〇三号室の人に、ですよ」
空気が凍りついたようだった。
さっきまで、「誰も住んでいないはずなのに音がする」と怯えていた杉本氏の口から、あまりにも自然に「会った」という言葉が出たからだ。
「待ってください。先ほど、管理会社は空室だと言っている、とおっしゃいましたよね」
「ええ。管理会社はそう言ってますけど、やっぱり住んでるんですよ。管理会社のミスか、何かワケありで登録してないだけでしょう」
杉本氏の表情から、先ほどまでの切迫した恐怖が薄れていた。
代わりに、妙に落ち着き払った、うっとりとしたような色が浮かんでいる。
「いつ、会ったんですか?」
「三日前です。夕方、僕が帰ってきたら、階段のところで会いました。買い物袋を抱えてて、重そうだったから、二階まで運ぶのを手伝ったんです」
「どんな方でしたか?」
「五十代くらいの、恰幅のいいおばさんでしたよ。割烹着みたいなエプロンしてて、すごく優しそうで。田舎の母ちゃんみたいな感じでした」
私は言葉を失った。
河合氏の証言では「若いカップル」あるいは「若い女性」だった。
録音データに残っていた声も、明らかに二十代の女性の声だった。
しかし、杉本氏は「五十代の母親のような女性」だと言う。
性別は同じだが、年齢も印象も全く異なる。
「その女性と、何か話しましたか?」
「ええ。『いつも下の階でごめんなさいね』って謝られました。『足が悪くて、杖をついているから、音が響いちゃうのよ』って。なんだ、あのボウリングの音は杖の音だったのか、って納得しましたよ」
「杖の音と、ボウリングの玉を転がす音は、だいぶ違うと思いますが」
「そうですか? まあ、古いアパートだし、響き方が変になることもあるでしょう。それに、お礼にって、これをもらったんです」
杉本氏は立ち上がり、キッチンの方へ歩いていった。
シンクの上のコンロに、小さなステンレスの鍋が置かれている。
彼は鍋の蓋を開けた。
ぷう、と甘ったるい匂いが漂ってきた。
クリームシチューのようだ。
しかし、何かがおかしい。
部屋の腐敗臭と混ざり合って、食欲をそそる匂いというよりは、胸が悪くなるような濃厚すぎる芳香を放っている。
中身を見ると、白濁したスープの中に、具材がゴロゴロと入っていた。
人参、じゃがいも、肉。
肉?
その肉片は、やけに白く、脂身ばかりのように見えた。皮のようなものがついている。
「『作りすぎちゃったから』って。すごく美味しいんですよ。僕、実家を出てからこういう家庭料理に飢えてたから、涙が出るほど嬉しくて」
杉本氏は恍惚とした表情で鍋を見つめている。
「河合さんは若い女性と言っていた、と先ほど言いましたが」
私が改めて指摘すると、杉本氏は不快そうに顔をしかめた。
「河合さんって人は、何か勘違いしてるんじゃないですか? あそこに住んでるのは、あのお母さん一人ですよ。旦那さんは早くに亡くして、一人で慎ましく暮らしてるんです。そんな、男を連れ込むような人じゃありません」
口調が強くなった。
彼はすでに、その「見えない隣人」を擁護する側に回っている。
「杉本さん。その鍋、中身は何の肉ですか?」
恐る恐る尋ねると、彼はスプーンで白い塊をすくい上げた。
「鶏肉……じゃないかな。すごく柔らかいんです。口の中でトロッと溶けて」
彼はそのままスプーンを口に運ぼうとした。
「食べないほうがいい!」
私は思わず大声を出してしまった。
杉本氏は驚いて動きを止めたが、すぐに私を冷ややかな目で見返した。
「……何なんですか、さっきから。せっかくの好意を。ライターさんには分からないでしょうね、一人暮らしの寂しさなんて」
「いえ、そうではなくて……管理会社にもう一度確認したほうがいい。その女性は、本当に存在するのか」
「存在しますよ! ここにシチューがあるのが証拠じゃないですか!」
彼はスプーンを鍋に戻し、乱暴に蓋を閉めた。
「もう帰ってください。僕、これから食事にするんで」
拒絶だった。
これ以上、何を聞いても無駄だと悟った。
彼はすでに「感染」している。
河合氏は「理想の恋人」の幻想を見せられ、杉本氏は「理想の母親」の幻想を見せられている。
二〇三号室の「何か」は、相手の心の隙間――孤独や欠落――に合わせて、その姿を変えているのだ。
そして、その幻覚を受け入れた時、彼らはあちら側に取り込まれる。
「……わかりました。お邪魔しました」
私は荷物をまとめた。
玄関を出る間際、杉本氏の背中に声をかけた。
「杉本さん。天井のシミ、大きくなっていませんか?」
杉本氏は振り返らなかった。
ただ、ボソリと呟いた。
「あれはシミじゃありませんよ。……お母さんが、覗いてくれてるんです。僕が寂しくないように」
4.取材の帰り道
一〇三号室を出て、私は逃げるようにアパートを後にした。
外の空気は冷たく乾燥していて、肺に入れると少しだけ気分が晴れた。
だが、あの部屋に充満していた湿気と、シチューの異様な匂いが、まだ鼻の奥にこびりついている気がした。
アパートから少し離れた場所で、私は振り返った。
月見荘は、夕暮れの中に黒い塊のように佇んでいた。
一〇三号室の窓は、遮光カーテンで閉ざされている。
その真上。
二〇三号室。
当然、窓は暗い。カーテンもない、ガラスが剥き出しの窓。
しかし、そのガラスの向こうに、何かがいた。
白い、ぼんやりとした影。
人の形をしているようにも見えるし、大きな肉の塊のようにも見える。
それは、ゆっくりと、ゆっくりと、左右に揺れていた。
まるで、ゆりかごを揺らすように。あるいは、獲物をあやすように。
私は戦慄した。
河合氏が見たものと、杉本氏が見たものは違う。
だが、その根源にある「それ」は、確実に存在する。
そして、それはアパート全体に根を張り、住人たちを養分として吸い上げているのだ。
駅へと急ぐ道すがら、私は手帳を開き、次の取材予定を確認した。
二〇一号室(河合氏)、一〇三号室(杉本氏)と、被害者は二〇三号室に隣接する部屋の住人だった。
ならば、次に狙われるのはどこか。
あるいは、すでに侵食されているのはどこか。
残る隣接部屋は、二〇三号室の「隣」である二〇五号室。(四号室は欠番のため存在しない)
そこには、主婦が住んでいるという情報がある。
私はスマートフォンの録音アプリを確認した。
杉本氏への取材中、ずっと録音を回していた。
イヤホンを耳に入れ、再生する。
杉本氏の『ボウリングの玉みたいな音』という証言の部分。
私の質問と、彼の答え。
ノイズ混じりの音声が流れる。
だが、その背後に、別の音が混じっていることに気づいた。
私の声でも、杉本氏の声でもない。
もっと近く、マイクのすぐそばで囁くような音。
『……ま、ま』
赤ん坊の言葉? いや、違う。
『……まんま』
食事をねだる言葉か。あるいは、「ママ」と呼んでいるのか。
その声は、野太く、しわがれていて、老人のもののようにも聞こえた。
杉本氏は「お母さん」と言った。
彼は「子供」の役割を与えられたのだ。
そして、あのシチュー。
あれは、彼を肥え太らせるための「餌」だったのではないか。
私はイヤホンをむしり取った。
二〇三号室の「住人」は、まだそこにいる。
空室のまま、増殖を続けている。
私は次なる証言者、二〇五号室のM夫人(仮名)に接触を試みることにした。
彼女もまた、異なる「隣人」を見ているのだろうか。
それとも、彼女こそが、この異常な事態の「原因」に近い場所にいるのだろうか。
私の足は震えていたが、好奇心という病魔もまた、私を蝕んでいた。
(File.02 了)
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