K市・木造アパート「月見荘」に関する取材記録——空室の生活音
@tamacco
File.01 空室からの騒音
はじめに
これから記す一連の文章は、私が二〇二×年の秋から冬にかけて行った取材の記録である。
当初、私はこれをある怪談実話誌の企画として進めていた。「現代の集合住宅における怪異」というありふれたテーマの特集記事になる予定だった。
しかし、取材が進むにつれ、そこで起きている事象が、単なる「幽霊話」や「心霊現象」といった枠組みには収まらない、極めて異質で、何か粘着質な人間的悪意――あるいは、人間ならざるものの生態記録――に近いものであることが判明した。
結果として、編集部は掲載を見送ることとなった。理由は「読者が求めている恐怖の質と異なる」という曖昧なものだったが、担当編集者の顔色が、持ち込んだ資料を見た途端に土気色に変わったことを私は覚えている。
手元には、膨大な取材メモと、数十時間に及ぶ録音データ、そして数枚の写真が残された。
これらを廃棄すべきか迷ったが、私自身、この「月見荘」というアパートで何が起きていたのか、その全貌を整理し直したいという欲求に駆られた。
よって、ここにその経過を可能な限り客観的な視点で記述することにする。
なお、プライバシー保護のため、関係者の名前はすべて仮名とし、特定につながる地名や名称の一部を変更していることをあらかじめ断っておく。
1.一本の音声ファイル
事の発端は、私のウェブサイトに届いた一通のメールだった。
送り主は、都内の出版社に勤める編集者・田端氏(仮名)。私が過去に数回、小さなコラムの仕事を請け負った相手だ。
件名には『相談:奇妙な苦情について』とあり、本文は短かった。
「ご無沙汰しております。実は、知人が妙なトラブルに巻き込まれていまして。心霊的なものか、あるいはただの精神的なものか判断がつかず、こういう話に詳しい先生にご意見を伺いたいのです。添付の音声ファイルを聞いていただけますか」
添付されていたのは、MP3形式の音声ファイルだった。ファイル名は『203_rec_221015.mp3』。
再生時間は約十二分。
私はヘッドフォンを装着し、再生ボタンを押した。
冒頭、ざらついたホワイトノイズが流れる。録音環境はあまり良くないようだ。おそらくスマートフォンのボイスレコーダー機能か何かで、壁越しに録音したものだろう。
十秒ほどして、音が聞こえてきた。
『……ねえ、それ取って』
若い女性の声だ。少し鼻にかかったような、甘えたような口調。
距離感は遠いが、壁の薄いアパートなら隣室の声がこれくらい漏れてくることは珍しくない。
『ん? どっち? マヨネーズ?』
男性の声が答える。低く、穏やかそうな声だ。
『ちがうよ、ドレッシング。和風のほう』
『はいはい』
椅子を引く音。冷蔵庫のドアを開閉する重たい音。ガラス瓶がテーブルに置かれる音。
これといって異常な点は見当たらない。どこにでもいる、若いカップルか夫婦の夕食時の会話だ。
その後も、音声は淡々と続く。
テレビから流れるバラエティ番組の笑い声。食器が触れ合うカチャカチャという音。時折挟まる、「おいしいね」「明日何時だっけ」といった他愛のない会話。
五分ほど聞いたところで、私は一度停止ボタンを押した。
田端氏にメールを返信する。
「音声を確認しました。若い男女の食事風景のように聞こえますが、これがどういったトラブルなのでしょうか。騒音問題ですか?」
返信はすぐに来た。
「先生、最後まで聞いてください。そして、この録音の前提条件をお伝えします。
この音声が録音されたのは、K市にある『月見荘』というアパートの二〇三号室から聞こえてくる音です。
しかし、管理会社の記録では、二〇三号室はここ三年間、ずっと【空室】なのです」
私は眉をひそめた。
空室。
つまり、誰も住んでいないはずの部屋から、こうした生活音が聞こえているということか。
不法侵入者が住み着いている可能性を真っ先に疑った。ホームレスや、家出人が勝手に鍵を開けて入り込むケースは稀にある。
私は再び再生ボタンを押し、残りの音声を聞いた。
七分経過。八分経過。
内容は変わらない。平和な食卓の風景だ。
だが、その「平和さ」が、事情を知った後だと奇妙な違和感として迫ってくる。
あまりにも、典型的すぎるのだ。
「幸せな家庭」のサンプル音源を聞かされているような、そんな既視感がある。会話の内容に具体性がない。「部長がさあ」とか「〇〇駅の近くの店が」といった固有名詞が一切出てこない。「仕事」「あのお店」「あの映画」といった代名詞ばかりで会話が成立している。
そして、十一分三十秒を過ぎたあたり。
録音が終わる直前、唐突に音が変わった。
『……あ』
女性の声が、短く漏れた。
それまでの甘い響きとは違う、硬質で、何かに気づいたような声。
直後、ガタン、と何かが倒れるような大きな音がして、録音はそこで途切れていた。
私はヘッドフォンを外し、しばらく画面を見つめた。
不法侵入にしては、堂々としすぎている。これだけ大きな声で会話していれば、すぐに周囲にバレるはずだ。
私は田端氏に電話をかけ、この音源の提供者に会わせてほしいと頼んだ。
2.隣人・河合氏の証言
数日後、私はK市の駅前にあるファミリーレストランにいた。
向かいの席に座っているのは、音源の提供者であり、月見荘の住人である河合雄介氏(仮名・二十代後半)。
彼は都内のIT企業に勤めるシステムエンジニアで、月見荘には二年ほど前から住んでいるという。
小柄で痩せ型、目の下に濃い隈があり、神経質そうに何度も水を飲んでいた。
「聞いていただけましたか、あれ」
河合氏は開口一番、そう言った。声が少し震えている。
「ええ、拝聴しました。確かに男女の話し声が聞こえましたね。あれは、いつ録音されたものですか?」
「ファイル名にもありますが、先月の十五日です。夜の八時頃でした」
「河合さんは、二〇二号室にお住まいとのことですが」
「ええ。二〇三号室の、すぐ左隣です。角部屋が二〇三なので、僕の部屋は二〇一と二〇三に挟まれています」
私はボイスレコーダーをテーブルに置き、取材を始めた。
「単刀直入に伺います。あの二〇三号室には、本当に誰も住んでいないのですか?」
河合氏は強く頷いた。
「間違いありません。僕も最初は、誰か新しい人が越してきたんだと思いました。三ヶ月くらい前からですかね、物音がし始めたのは。最初は、トントンって床を歩くような足音から始まって。それから、カーテンを開け閉めする音、シャワーの音、テレビの音……日に日に音の種類が増えていったんです」
「管理会社には?」
「もちろん連絡しましたよ。うるさい、とまでは言いませんでしたけど、『隣に入居者が入ったなら挨拶に行きたいんですが』って鎌をかけたんです。そしたら管理会社のおばさんが驚いて、『えっ、あそこはまだ募集中ですよ』って。内見の予約すら入っていない、と」
「不法侵入の可能性は考えましたか?」
「考えました。だから警察にも通報したんです。夜中に話し声が聞こえている最中に、警察に来てもらいました。お巡りさんが二人来て、管理会社にマスターキーを持ってきてもらって、踏み込んだんです」
河合氏はそこで一度言葉を切り、氷の溶けた水を飲み干した。
「……誰も、いなかったんです」
「もぬけの殻だった、と?」
「ええ。僕も入り口から覗かせてもらいましたけど、家具一つない、埃っぽい畳の部屋でした。カーテンもついてないし、電気も通ってない。ブレーカーも落ちてました。隠れるような場所なんて、押し入れくらいしかないんですけど、そこも空っぽで」
「しかし、録音にはテレビの音や、冷蔵庫を開ける音が入っていましたよね」
「そうなんです! そこなんです!」
河合氏は身を乗り出した。周囲の客がちらりとこちらを見る。彼は声を潜めた。
「お巡りさんたちは『外の音が反響したんじゃないか』とか『空耳だろう』とか言って帰っていきました。でも、僕は毎日聞いてるんです。あれは絶対に壁の向こうから聞こえてきてる。それに……」
「それに?」
「あの録音、先生も聞きましたよね? 会話の内容」
「ええ。食事中の会話のようでしたが」
「変だと思いませんでしたか? あまりにも……タイミングが良すぎるというか」
私は首を傾げた。
「タイミング、ですか」
「あの音、毎日ほぼ同じ時間に聞こえるんです。朝七時に目覚ましの音がして、七時半にトーストが焼ける音がする。夜七時に帰宅するドアの音がして、八時から夕食の会話が始まる。まるで、録音されたテープを毎日同じスケジュールで再生しているみたいに。でも、会話の内容は毎日少しずつ違うんです。昨日はハンバーグ、今日は焼き魚、みたいに」
「つまり、規則正しすぎるということですか」
「そうです。人間って、もっと不規則じゃないですか。残業で遅くなる日もあれば、外食する日もある。でも、隣の『二人』は、絶対に毎日同じサイクルで生活してるんです。まるで、『理想的な生活』を演じているみたいに」
私は背筋が薄ら寒くなるのを感じた。
演じている。誰が? 何のために?
「それに、一番気味悪いのが……」
河合氏はさらに声を潜めた。
「あの音、僕が壁に耳を当てている時だけ、妙に鮮明に聞こえる気がするんです。まるで、僕が聞くのを待っているみたいに。先週の日曜日、僕が風邪で寝込んで一日中部屋にいた時、隣はずっと静かでした。でも、僕がトイレに行こうとして起き上がった瞬間、隣のトイレの水が流れる音がしたんです。……タイミングを、合わせられた気がして」
河合氏の証言は、被害妄想の域を出ていないようにも思える。
神経過敏になった人間が、偶然の物音を自分への干渉だと結びつけてしまうケースは多い。
しかし、あの録音データに残された明確な「声」の存在は無視できない。
私は彼に尋ねた。
「今日、これからそのアパートへ伺うことは可能ですか? 外から見るだけでも構いませんので」
河合氏は少し躊躇したが、頷いてくれた。
「いいですよ。ただ、今は昼間なので静かだと思いますけど」
3.月見荘・二〇三号室
K駅からバスで十五分ほど揺られ、住宅街の端にある停留所で降りた。
そこから細い坂道を登りきったところに、「月見荘」はあった。
築三十年は経っているであろう、木造二階建てのアパートだ。
外壁はくすんだモルタル作りで、所々にひび割れが見える。一階に四部屋、二階に四部屋の計八部屋。
全体的に湿気たような、暗い雰囲気をまとっていた。
アパートの入り口には集合ポストがあり、名前が入っているのは半分ほどだった。
『203』のプレートは白紙のままだ。
「ここです」
河合氏が二階へ続く鉄階段を指差す。歩くたびにカン、カン、と乾いた音が響く。
二階の廊下は薄暗かった。北向きのせいか、昼間でも日が差さないらしい。
一番奥が二〇三号室だった。
ドアは古い鉄製で、塗装が剥げて赤錆が浮いている。ドアノブは握り玉式。
その隣、二〇一号室のドアの前で河合氏が立ち止まる。
「ここが僕の部屋です。で、その奥が問題の部屋」
私は二〇三号室の前に立った。
何の変哲もない、空室のドアだ。
ドアノブに手を伸ばしてみる。鍵がかかっている。当然だ。
ドアポストの投入口を指で押し開けてみた。中は暗くてよく見えないが、黴臭い匂いとともに、どこか人工的な匂いが微かに漂ってきた。
芳香剤だろうか? いや、もっと古い、箪笥の防虫剤のような匂いだ。
耳を澄ませてみる。
物音はしない。
遠くで車の走る音や、どこかの家で犬が吠える声が聞こえるだけだ。
「今は留守みたいですね」
私が冗談めかして言うと、河合氏は笑わなかった。
「……昼間は、寝てるのかもしれません」
その時だった。
私の背後、一階の廊下あたりから、ジャリ、という足音がした。
振り返ると、作業着姿の中年男性がこちらを見上げていた。
手には箒と塵取りを持っている。管理人のようだ。
「あんたたち、何してるんだ」
男は不機嫌そうに声をかけてきた。
河合氏が慌てて頭を下げる。
「あ、すいません。知人が遊びに来てて……」
「騒ぐなよ。他の住人の迷惑になるからな」
管理人はそう言うと、胡乱な目で私を一瞥し、特に二〇三号室のドアに視線をやった。
「そこ、また鍵いじってたんじゃないだろうな」
「いえ、そんなことは」
「……お前、あまり変なことばかり言ってると、更新できなくなるぞ」
管理人は河合氏に低い声で告げると、舌打ちをして去っていった。
「……あんな感じです」
河合氏が肩をすくめる。
「管理人も、大家も、僕が頭のおかしいクレーマーだと思ってるんです。誰も真面目に取り合ってくれない」
「今の管理人さんは、二〇三号室のことを何か知っていそうな雰囲気でしたね」
「さあ……。でも、一度だけ聞いたことがあります。僕が入居する前、あそこには誰が住んでいたのかって。そしたら『誰も住んでない』って言うんです」
「え?」
「『あそこは五年以上、誰も住んでない。お前が入るずっと前から空室だ』って。でも、近所の古株のおばあちゃんに聞いたら、『いや、若い男の人がいたはずだよ』って言うんです。記憶が食い違ってるんですよ」
私は手帳にメモを取った。
管理人と近隣住民の証言の不一致。これは重要な手掛かりになりそうだ。
「とりあえず、今日はこれで失礼します。河合さん、もしまたあの音が聞こえて、録音できそうならお願いします。それと、どんな些細なことでもいいので、日記をつけてみてください。音がした時間、内容、その時のご自身の体調など」
「わかりました。……先生」
河合氏は別れ際、不安そうな目で私を見た。
「僕、引っ越したほうがいいんでしょうか」
「現段階では何とも言えませんが、精神的に追い詰められるようなら、一時的に実家に戻るなどの対策は取ったほうがいいかもしれません」
「そうですよね……。でも、悔しいんです。なんで僕が逃げなきゃいけないんだって。それに、最近思うんです。あそこにいる『何か』は、僕が出ていくのを待ってるんじゃないかって」
「待っている?」
「ええ。僕がいなくなったら、壁一枚隔てた『隣』じゃなくなる。もっとこっちに浸食してくるんじゃないかって……そんな気がして」
4.取材後記
その日の夜、私は自宅の仕事場で、河合氏から預かった音声データを波形編集ソフトに取り込んで解析してみた。
ノイズキャンセリングをかけ、声の成分だけを抽出する。
改めて聞くと、女性の声の質感に違和感を覚えた。
抑揚が平坦なのだ。感情が乗っているようで、どこかプログラムされた合成音声のような、あるいは台本を棒読みしているような不自然さがある。
そして、最後の一言。
『……あ』
この声だけが、明らかに異質だった。
それまでの演技が剥がれ落ちたような、素の恐怖を含んだ声。
この直後、大きな音がして録音は終わっている。
私は音量を最大にして、その「大きな音」の直後、録音が切れるコンマ数秒の間を繰り返し再生した。
ガタン、という衝撃音の後。
ノイズに紛れて、微かだが、確かに何かの音が記録されていた。
カチャリ。
それは、ドアの鍵が開く音のように聞こえた。
内側からではない。
録音している河合氏のいる部屋――二〇一号室側からでもない。
位置関係から推測するに、二〇三号室の玄関ドアが、外から開けられた音ではないか?
だとしたら、河合氏が録音していたその時、誰かが二〇三号室へ入っていったことになる。
しかし、河合氏は「誰も来なかった」と言っていたはずだ。
私は背もたれに体を預け、天井を見上げた。
月見荘、二〇三号室。
空室で繰り返される、幸福な生活の演技。
河合氏の証言が正しければ、その「住人」は、壁越しにこちらの様子を窺っている。
パソコンのモニターが青白く光っている。
ふと、視線を感じて窓の方を見た。
カーテンの隙間から、夜の暗闇が覗いているだけだ。
私は苦笑して、作業に戻ろうとした。
その時、受信トレイに新しいメールが届いた。
送信者は河合氏だった。
送信時刻は、深夜二時三〇分。
件名:間違いでした
本文:
「先生、すみません。先ほどの話は忘れてください。
さっき、隣の方と会いました。
ゴミ出しの時にばったり会って、挨拶しました。
優しそうな女の人でした。
一人暮らしだそうです。
だから、カップルの声っていうのは僕の勘違いでした。
テレビの音を勘違いしたんだと思います。
お騒がせして申し訳ありませんでした。
もう調査は結構です。
本当に、素敵な方だったので、仲良くできそうです。
それでは」
私はメールの文面を三回読み返した。
背筋に冷たいものが走った。
文面が、あまりにも整然としすぎている。
昼間の、あんなに怯えて、神経質そうに早口でまくし立てていた河合氏が書いた文章とは、リズムがまるで違う。
それに、「優しそうな女の人」?
管理人は言っていたはずだ。「あそこは空室だ」と。
それに、河合氏自身も「内見の予約も入っていない」と確認していたはずだ。
それが、深夜二時にゴミ出しでばったり会う?
私はすぐに河合氏の携帯電話にリダイヤルした。
コール音は鳴り続けた。
十回、二十回。
誰も出ない。
留守番電話のアナウンスに切り替わろうとした瞬間、プツッ、と通話が繋がったような音がした。
「もしもし? 河合さんですか?」
私は呼びかけた。
受話口の向こうからは、何の返事もない。
ただ、ザーーッというホワイトノイズのような音が聞こえるだけだ。
いや、違う。
これはノイズではない。
何かを焼く音だ。
ジュウウウ、という、脂が爆ぜるような音。
そして、遠くからあの声が聞こえた。
『……ねえ、それ取って』
甘ったるい、女性の声。
直後、ブツンと電話は切れた。
私はスマートフォンを握りしめたまま、しばらく動けなかった。
河合氏は、取り込まれたのかもしれない。
あのアパートの、得体の知れない「日常」の中に。
これは、ただの騒音トラブルではない。
私は翌日、再びK市へ向かう準備を始めた。
今度は、二〇三号室の「下」の階の住人に話を聞くために。
(File.01 了)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます