【胎内回帰】の伝承について
いろは杏⛄️
第一篇 遠野翠の場合
第1話 曖昧模糊
「ねぇ、
凛として澄んだ、それでいて舌の奥で溶ける砂糖みたいに甘い声音が、翠の耳殻をやわらかく撫でた。
ここは都内にある、とある私立高校の部活棟、その一角にある小さな一室。民俗学研究部――と室名札に書かれているが、実際にこの部屋を使うのは翠ともう一人だけだ。
古い蛍光灯は時折、金魚が水面で息を吸うみたいにぴくりと明滅し、長机の上には、更新の止まった学祭ポスターと、茶色く波打った資料箱、借り物の折りたたみ机が二つ。
窓辺に吊るされたブラインドは、午後の湿った風に少しだけ揺れて、光を縞状に千切っていた。
声の主は
横顔のラインはため息が出るほど整っていて、脈を持つ生身というより彫像めいて、しかも体躯は華奢なのに女性らしい起伏のあるシルエットは損なっていない。
誰だって目を奪われる――翠は、自分がその『誰だって』に含まれていることを自覚するたび、少し恥ずかしくなる。
彼女は人気者だ。学内の噂で何度か耳にした名前は、いつも明るい話題とともに運ばれてくる。
それなのに、なぜこの地味な部活に?
翠は、いまだにその理由を掴めずにいる。部屋の名簿を見ても、顧問の名の下に記されているのは二人の名前だけ。
彼女ほどの人なら、もっと華やかな場所が似合うのに――そう思わずにはいられない。
翠が火野を見ながら、またそんな益体もないことを考えていたら、痺れを切らしたのか彼女が席から立ち上がり、軽い足取りで距離を詰めてきた。
「おーい、翠くん? 聞いてますかぁ?」
眼前で指先がひらひらと揺れる。その動きに合わせて、ふっと甘い匂いが鼻先を撫でた。ミルクに蜂蜜を少し落としたような、温度を持った香り。
乾いていた舌の奥に、じわりと柔らかな甘さが滲み出す錯覚が走り、喉が、ごくり――と勝手に動いた。
「……聞いていますよ。それで、胎内回帰でしたっけ? そんな都市伝説は聞いたことがないですね」
心当たりのない翠は、正直に返す。すると、火野は、あぁ――と目尻をやさしく折った。
「そっかぁ――聞いたことないのかぁ」
「その都市伝説がどうかしたんですか?」
翠が尋ねると、彼女は一歩近づき、机の角に指先をかけながら顔を覗きこんだ。
「えっとね、クラスの子たちの間で話題になっててさ。翠くん、そういうの詳しいからどうかなぁって思ってさ」
「なるほど……」
翠は教室で最近耳にした会話をいくつか辿った。
身近でそんな話題があっただろうか――
思い返すが、浮かばない。学年が違うのだから、知らなくて当然かもしれない。そう結論しかけたところで、火野が軽く指を鳴らした。
「まぁ、今までのは前置きで、本題はここからなんだけどさぁ――」
火野は、不敵という言葉がそのまま形になったような笑みをつくった。まっすぐに切り揃えられた前髪の下で、眼差しがわずかに弧を描く。
「今度の文化祭の成果発表のテーマを、この都市伝説の究明にしたらどうかな?」
「……え?」
「テーマ、決まってなかったよね?」
「それは……そうですけど」
まったく、あいかわらず先輩は唐突だ――
翠がそう思いかけた途端、頭に鈍い靄がふわり、とかかった。言葉が喉の手前で止まり、視界のピントが、すこしだけ、外れる。
……あいかわらず?
前に先輩が、同じようなことを言ったのはいつだった? 去年の春? それともこの前の打ち合わせの帰り道?
翠が記憶の棚を開けようとすると、取っ手がなめらかに手から逃げていく。
そもそも、火野はいつからこの部活に――。
そこで、翠は奇妙な引っかかりに触れる。入部初日の光景を思い出そうとしても、扉の向こうで誰かが笑っている輪郭までは浮かぶのに、笑っている顔が、油膜のような光沢をまとって焦点を拒むのだ。
部活紹介のチラシに印刷された活動内容の箇条書きは覚えているのに、配っていた手の主が誰だったのかだけが空白のまま、そこだけが現像液から引き上げられない写真みたいに白い。
スマホのアルバムをめくるみたいに記憶のページを送っても、火野が映っていそうな場所だけ、指の腹からすり抜ける。名前は知っているのに、輪郭が立たない。
思い浮かべようとするたび、きめの細かい霧が立ち上がり、視界の中心だけを覆っては、誰かの指でそっと拭われるような錯覚に陥る。
「……翠くん?」
鈴をころがすみたいな声が、曇りを破って耳に触れた。顔を上げると、火野の瞳が真っ直ぐにこちらを射抜いていた。光を中に抱えているような、艶のある黒。水面を覗き込んだときのように、自分の顔がほんのわずか、瞳の奥で揺れているのがわかる。
その瞬間、さっきまで頭を包んでいた不鮮明さが、拍子抜けするほど簡単に剝がれ落ちた。まるで誰かが、見えない手で霧の端をつまんで窓の外へ引き抜いたみたいに。
胸の内に残ったのは、剝がれた膜が折り畳まれて奥に隠された気配だけ――形はないのに、確かにそこにある滲のような違和感。
「……いえ、すみません。なんでもないです。それより、まずはその都市伝説ってどんなものなんですか?」
自分の声は普通に出た。普通に聞こえた。それなのに、胸の奥にひっかかる感覚が消えない。見えない糸が背中に貼りついて、軽く引かれているような、前へ進めと促す引力。
「ふふふ、よくぞ聞いてくれた。えっとね――」
火野は意気揚々と言った様相で話し始めた。彼女の口元が、語尾に合わせて柔らかくほどける。指先が机の上の冊子の縁をなぞるたび、紙がささやき、蛍光灯の唸りが少しだけ低くなる。
翠は、その内容に耳を傾ける。言葉はちゃんと耳に入る。意味も理解できる。
ただ、さっきの妙な感覚だけが、胸の底に薄い沈殿物のように残っていた。掬えば崩れるくせに、確かに重さのあるもの。甘いミルクの香りと一緒に、そこだけ温度を持って沈んでいる。
――思い出せないのは、たまたまか。それとも。
翠は頷きながら、机の脚の影が床でほんのわずかに伸び縮みするのを眺める。蛍光灯の唸りは変わらないのに、影の呼吸だけが、彼の鼓動と合っていなかった。
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