四章 森の民オーク
① 待ち伏せ
木々は細く、葉が少ない灌木林。時折重さに耐えかねた雪が、どさりという音を立てて枝から滑り落ちる。ヴィクトリアは歩き続けで火照った身体をそこに投げ込みたい衝動を必死に堪え、また足を動かす。
ミラルの家を出てから二日ほどかけてようやく至ったサブリナ雪山。道なき道は傾斜が激しい。雪深くて足を取られ、油断をすると先頭を歩くカイと距離が離れてしまう。我ながら、よくもこんな山を越えられないかなどと口にできたものだ。
やがてカイが足を止め、こちらを振り返った。
「この山は遥か昔、この地に住んでいた巨大な龍の死体。その龍が蘇らないよう、サブリナという名の魔女がこの山の雪が永遠に溶けない呪いをかけた。時折この近辺で地震が続く時期があるのは、その龍が呪いに逆らい目を覚まそうとしているからだ、という伝承がこの地には残っている」
へえ、とヴィクトリアは息を切らせながら頷いた。東側には伝わっていない逸話だ。
「そんな話があるんだ。まだ昼のはずなのに、この寒さじゃ納得しちゃうわね」
天を仰げば空は分厚い雲に覆われたままだ。日の高さは分からないが、おそらくは昼過ぎといったところか。
ちらちらと雪が降っては止み、大量に重ね着をしていても異様に寒い。マスクの口元から漏れる息は真っ白で、それだけにカイの話す伝承が真実味を帯びる。
丁度、そこで大地が小さく揺れ、ヴィクトリアは思わず目を見開いた。
揺れが収まると、カイがふっと笑いを堪えるように口元に手をやる。
「真実は分からないが、この地の者はそれを信じている。だから、ここには滅多なことで人は来ない。俺たち穴蔵の民以外はな」
「あなたたちは、どうして?」
ヴィクトリアが問うと、カイの声は真剣なものに戻った。
「火薬の材料があるから、定期的に採掘を行っている。俺たちが雪の民と古くから交流を持つのはそれが理由だ」
それから森の中をしばらく進んだ後、カイはまた立ち止まった。先は急な下り斜面で崖のようになっている。
下っていくと、そこに雪山と大地を分かつような裂け目が見えた。
横幅の広いその入り口には、上から氷柱が間断なく伸びている。さっき聞いた逸話ではないが、まるで龍の口のようにも見える。
入り口の周りは野営地のようで、いくつかの古びたテントがあった。ぼろぼろになっているその様子を見るに、すでに放棄されているようだ。
「ここは……?」
「この洞窟が山を越える手段だ」
直前になったら話すと言っていたサブリナ雪山を越える別の方法。ということは――
「この洞窟……まさか、東側へ通じているの?」
俄かには信じ難い話だが、誰かがここで掘り進めたのは間違いない。それも大勢で。野営の跡がそれを示している。
「ああ。正しくは、通じていた。十七年前に繋がったのだが……すぐに崩落によって塞がってしまったのだ」
「あなたたちケットシィが掘ったのよね?」
「そうだ」
「でも、十七年前に繋がっていたって……その時に一体なにが? それに、なんのために?」
「それは――」
どさり、とどこかの木の枝から重さに耐えかねた雪が落ち、三人は背中合わせでそれぞれに視線を走らせる。
カイはゆっくりと周囲を見回す。コニーもまた背中の銃を構え、素早く弾を込めた。ヴィクトリアもまた腰に下げた剣を鞘から抜く。
――いる。確実に、誰かが……
感じるのは確かな殺気。緊張に全身の肌が粟立つ。
どこだ、どこに――と、その一瞬でなにかがふっと頬のあたりを横切り、遅れて痛みと熱を感じた。
「ヴィッキー、伏せて!」
コニーがおぶさるようにしてのしかかり、ヴィクトリアは雪に突っ伏した。
何かが頭上を通過していく。これは……木の矢か。入り口の氷柱に弾かれたそれが、何本か降ってきて、ようやく分かった。
「やっと会えたぜ。なあ、穴蔵のと『鷹羽』の。そして、人間よ」
面白がるような声と共に、大地の雪が盛り上がった。ばさばさと雪が落ち、そこから大柄な身体が現れる。
「イダ……」
ヴィクトリアが名を呼ぶと同時に、次々と同じようにオークたちが姿を現した。はだけた外套の下、灰褐色の肌の露出した革鎧を着こんでいるのが見える。
数はイダを含め五人。彼女を真ん中に横一列に並び、全員が短弓に次の矢をつがえている。
――雪の中に……待ち伏せ、されていた?
「まさか本当にサブリナ雪山を目指していたとはな。自分でも半信半疑だったンだがよ、やっぱりあたしの勘もまンざらでもねえようだ」
イダは外套を脱ぎ捨てた。以前とほとんど変わらない、肌を大きく露出させた服装は、見ているこちらが凍えてしまいそうだ。
「人間。あンたもマスクを外しな。この期に及ンで穴蔵の民のふりをすることもなかろうぜ」
見つかった以上、マスクは意味をなさない。ヴィクトリアが一度カイを見ると、彼は小さく頷いた。
ヴィクトリアはマスクを外し、ポシェットにしまい、周囲に視線を巡らせる。
どうする。遂に追いつかれてしまった。追手の数はこれだけだろうか。それともまだどこかに伏兵がいる? 今のところ、その気配は感じないが、油断はできない。
「どうしてここだと思った?」
カイが静かに問うと、イダははっと笑った。
「あたしらの領域を行かず、川を越えず、この地を出ようとするならサブリナ雪山を目指すしかない。ま、山越えなンて不可能なのは分かっちゃいたがね。なら……」
イダは言葉を切って一歩ずつこちらに近づいてくる。
「なンか算段があるとする。なンせ穴蔵の民は古くからここで硫黄を掘ってたから、だとしても不思議はない。で、足を運んでみたらこれこの通り、こンな洞窟と野営の跡を見つけたってわけだ。どうせこれ以上の当てもない。だったら待ち伏せてみたらどうかと思ってね」
カイは深々とため息をついた。
「谷の崩落とモルガンが目覚めたことで時間を稼げたと思っていたが……まさかサブリナ雪山に真っすぐ向かってくるとはな。お前の執念と、己の勘にそこまで信を置けるその思い切り、恐れ入った。追手はこれだけか?」
「さあ、どうだかな?」
肩をすくめ、イダは立ち止まった。傍目には美しい微笑を浮かべて、野営の跡を手で示す。
「で、だ。穴蔵の。ここはなンだい? なぜ放棄されている?」
カイは無言を貫くが、イダは気に留めた様子もなく、さらに言葉を重ねる。
「黙ってるつもりならそれもいいさ。勝手に喋らせてもらおう。この洞窟の先は東側へ続いている。なンのためかは知らねえが、穴蔵の民がそれを掘った」
「……聞こえていたのか」
カイが苦々しく呟くと、イダはピンと自分の耳の先を指ではじく。
「ところが、今は見ての通り放棄されて久しい。ってことは、十七年前に崩落で塞がったって話が関係している。そう考えるのが自然だな。今のところはざっとこンな感じだが……どうなンだい、穴蔵の?」
整然と並べられたイダの理に、カイはむっつりと押し黙っていたが、やがて大きなため息をついて応えた。
「お前の言う通りだ。十七年前の崩落をきっかけに、ここは放棄された。穴蔵の民の中でも知る者は俺たちの住処だけだ」
それを聞いて、イダはにっと口の端を上げて肩をすくめた。
「なるほどね。まあ、聞きたいことは山とあるが……どうして放棄したンだ?」
カイは無言だ。イダは「あらら、だンまりか。まあいい」と腕を組んだ。
「ともかくも、あンたらはこの秘密の洞窟を再び開こうって魂胆でここに来たわけだ。そこの人間を向こう側に帰すためか?」
カイはふんと鼻を鳴らし、イダと同じように腕を組んだ。
「分かっているなら話が早い。こいつは向こうに帰らせる。そしてこの洞窟は再び塞ぐ。それで万事こともなしだ。この地に人間など来なかったし、なにも変わらず俺たちは冬を迎える」
「そうはいかねえよ。そいつをこっちに渡してもらおう。話がしたいンでな」
「断る」
「どうして?」
「なぜ、ヴィクトリアにそんなに執着する?」
「質問してンのはあたしだぜ、穴蔵の」
イダの目がすっと鋭くなり、声に冷たさが帯びる。
「まあ、散ざっぱらもめてきたあたしらの仲だ。教えてやっても構わねえぜ?」
イダが手をかざすと、後ろのオークたちは一瞬戸惑いつつも弓を下す。
「単純な話さ。東側は今、どンな感じなのか。そいつを聞きたいンだよ」
「どんな、感じって……それだけ?」
ヴィクトリアはこちらに来たばかりのことを思い出す。
確かに彼女の主張は一貫して、「お喋りがしたい」というものだった。
だが、それにしてはあまりに剣呑な雰囲気だったではないか。身の危険を感じるほどに。
それだけさ、とイダは肩をすくめた。
「まあ具体的には、あの壁のどこかに穴はあるのか。どの程度の兵隊がいンのか。戦いの力はどンなもンか。国は平和か、あるいは揺れてンのか。なンだっていい。なンだって知りたい。あっちの情報はどンなことでもさ。こンな機会はかつてねえからな」
「……そんなことを聞いて、どうするの?」
「決まってンだろ。戦争するンだよ」
「そん……な!?」
目を剥くヴィクトリアをよそに、カイは再び深くため息をつく。
「そんなところだろうと思っていた。悪いがそんな話を聞いてしまえば尚のこと、ヴィクトリアを渡すわけにはいかない」
「なんでさ? 心配すンな。あンたらに代わって、用が済ンだらきっちり向こうに送り返してやるよ。あたしらの軍勢と一緒にな」
ぞっとした。楽しげに語るイダの顔から理解する。
彼らの軍勢と共に東へ、アストリアへ。王都へ。そんなことになったら――
「……冗談じゃ……ないわ!」
遥か昔、王国の誕生の前に起きた東と西の戦い。人間と亜人の戦争。それをまた起こそうなど、見過ごすわけにはいかない。
「どうしてそんなことを……! そんなに私たちが憎いの?」
「はぁ? 憎い、だ?」
イダは不思議そうな表情を浮かべ、すぐに合点がいったように口元を綻ばせた。
「あー、そうか。そりゃあたしらは寿命が長いからね。そう思われてンのも無理はねえか」
「違う、の?」
「ああ。逆だよ。あたしら森の民は、まさに戦いまさに死ぬのが是とされる戦士の部族。寿命が長いからこそ、たかだか十数年斬った張ったしたくらいのことをぐちぐち言う気なンかねえ」
「恨んでない……? だったらどうして――」
イダはぱんと両手を鳴らして続きを遮る。
「さ、お喋りは一旦終わりだ。どのみちここまで来たら逃がしやしねえ。おっと、穴蔵のも『鷹羽』のも妙な動きをするンじゃないぜ? 小僧どもがすぐにも矢を放てるのを忘れなさンなよ」
再び弓を構えるオークたち。そのまま彼らはイダと共に一歩ずつ距離を詰めてくる。
――戦うしかないの? それとも……
隙をついて洞窟の中に入るか。いや、そうしたところで彼らは追ってくるだろう。カイの話ではまだこの洞窟は東側と繋がっているわけではない。崩落した部分がどの辺りかは検討もつかないが、そこが洞窟の行き止まり。結局のところ、彼らとの戦いは避けられない。
ふと見ると、カイは微かに顔をこちらに向けていた。マスクの目の部分の奥。彼の視線がなにかを伝えたそうにしているのを感じる。それはこの状況を打開するなんらかの策か。そのために助力を乞うているのか。
ヴィクトリアはそれを必死に読み取ろうと見つめ返す。
カイはなにを考えているのだろう。いや、この状況でもしも自分なら、なにを期待する?
思考の間にカイはすっとヴィクトリアから顔を逸らし、イダに向き直った。
「イダ。なぜここを秘密にしていたか教えてやる。俺たち穴蔵の民は戦争など望んでいないからだ。この道は攻め入るために掘り進めて繋いだのではない」
「そうかい。それなら、なンのためにだ?」
「この地の現状を変えるためだ。誰も飢え苦しむことのないように」
カイは天を仰ぐ。その姿はなにかを祈るように。なにかを待っているかのように。まるで、時間を稼ごうとしているように――
瞬間、ぴんときた。深く息を吸う。気がつけば自然とそうしていた。
そう。この場において自分だけが可能な切り札。隙を作る術。
カイはきっと、それを待っている――
「だったら丁度いいじゃねえか」
イダが渇いた笑いと共に言う。
「戦によって人間の国を奪い取るために使えば結局同じことさ。そうすりゃこの現状は変わる。そうだろ?」
「全く違う。もしもお前がこの道をそのために使うというのなら、俺はこの洞窟の存在を知る者の責務として全力で止める。死んでも文句を言うんじゃないぞ」
挑発するようなカイの言葉に、イダの周りの空気がぐにゃりと歪んだような錯覚。彼女の纏う殺気と迫力は、後ろに控えるオークたちを怯ませるほどに、強い。
「……面白れぇ。穴蔵の、ついにこのあたしと本気でやろうってかい?」
ふたつ――みっつ――
徐々にヴィクトリアの身の内に、取り込んだ魔力が満ちていく。
放つなら、四拍程度。最大の威力は駄目だ。しばらく動けなくなっては元も子もない。
攻撃も無駄。どうせすぐに再生してしまう。彼らは気に留めることなく襲ってくる。
――それなら、余力を残した範囲で、彼らの動きを止める!
ちらりとコニーを見ると、彼女は小さく頷く。
なぜだろう。表情も分からない。言葉もない。それでも分かる。自分が魔法でなにを出そうとしているのかは二人に伝わっている。なぜだろう、その確信がある。
「本気だとも、イダ。そのために、まずはするべきことをする」
カイが鼻を鳴らす。待ちくたびれた、というようにヴィクトリアに顔を向ける。
怪訝な顔をしたイダの顔がそれを追うようにしてこちらを向いた。
その目が見開かれる。なにかに気付いたように。はっとして後ろを振り返る。
「小僧ども、伏せ――」
――もう遅いわよ。hv=E2-E1及びλ=c/v……
時を稼いでくれたカイへの感謝を思いつつ、ヴィクトリアは目を瞑る。そして、口元にそっと二本の指を立てた。
「
瞬く間にヴィクトリアの白い吐息は繭のように絡まり一つの球になる。
そして――辺りは一面、眩いばかりの光に包まれた。
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