② 邂逅

 軽い浮遊感、そして衝撃。久しぶりに空気がまともに口から飛び込んでくる。

 ヴィクトリアは思わずせきこんだ。自分が地面に落ちたのだと遅れて理解がやってきて、顔を上げる。


「……げほっ……なに、が……?」


 女の右手から真っ赤な血がだらだらと流れているのが見えた。女はそのまま表情を変えずに、舌打ちを一つ。ひらひらと右腕を振ると血は止まり、傷一つない元の状態に戻った。


 女は周囲を警戒するように見回し、しばらくしてとある方向を注視する。ヴィクトリアも反射的にそれに倣った。

 視線の先には、ただただ木が乱立しているばかりだ。葉は深く、どこにでも隠れる場所はありそうに見える。


 ――誰か……いるの?


 女は忌々しげに首を振った。


「しくったぜ、穴蔵の民か。目敏いねぇ」


「領域の侵犯だ、森の民」


 風で木々の葉が擦れる音と共に、少しくぐもった低い声が聞こえた。


 女は尚も油断なく視線を巡らせている。声の主の場所を探っているらしい。連れの男に顎で合図を送ると、


「そいつぁ謝るよ、穴蔵の。この手前の水場一帯からはあンたらの領域。そう民会で決まったもンな」


 一度言葉を切り、どこか陽気な声で叫ぶ。


「だが隠れたままってのは、いくらなンでも無礼じゃねえか。姿くらい見せてくれても罰は当たらないと思うがねぇ?」


「道理だ。いいだろう」


 答えの瞬間、木々の枝が一つ大きく揺れて、声の主は軽やかに着地する。こちらから二十メートルほどの距離か。そしてゆっくりと立ち上がり、こちらを振り返る。


 背丈はそれほど大柄ではない。多分、ヴィクトリアと同じくらいだろう。肩掛けの紐を斜めにかけて、一メートル半くらいありそうな長い得物を背負っている。腰にはベルト付きのポシェットをしていて、丈の長い薄茶色のチュニックとズボン。グローブとブーツにしっかりと裾を入れこんでいて、オークたちとは対照的に肌の露出は全くない。


 なによりも特徴的で目を引くのは、口元の両側に袋のような房が伸びた、頭まですっぽりと覆っているマスクだ。目の部分にはトンボの目のようなレンズが嵌っていて、その表情も視線さえも読めない。

 あの姿は――


「……穴蔵の民……ケットシィ?」


 状況の変化に混乱しているヴィクトリアをよそに、ケットシィは背負っていた長い得物を構え、その先をこちら――おそらくはオークたちの方に向ける。察するに、弩のような飛び道具のようだ。


「今すぐここから立ち去れ。そうすれば、今回の侵犯のことは忘れよう」


「まあ、待ちなって。あたしらにも言い訳くらい――」


 女の言葉を遮る乾いた音と共に、隣の男の尖った耳の先が吹き飛んだ。男は痛みによってか一瞬だけ眉をしかめたが、すぐに耳は元通りに再生する。


 なにが起こったのか、ヴィクトリアには分からなかった。ただ、目の前のケットシィが放ったのではないようだ。


 すっと一歩前に出ようとする男を手で制し、女は再び舌打ちをして腕を組む。


「……『鷹羽』のがいンのか」


「ああ。あいつは二百メートル先の犬の背中のノミでも撃ち落とせるぞ。おそらくは今、お前の頭に狙いをつけている」


 ――『鷹羽』? どこかにもう一人いる?


 混乱するヴィクトリアをよそに、女は黙り込んでぐるりと周囲を見回す。そして目の前のケットシィに視線を戻すと、諦めたような深いため息をついた。


「分かった。すぐに去るよ。でも、あンたらの領域を犯したのはあたしらの意思じゃないぜ。こいつが逃げたのが原因だからな?」


「関係ない。民会の決定事項には従ってもらう」


「分かってるって……大地に線が引いてあるわけでもあるまいに、お堅いこった」


「頭を撃ち抜くという言葉ははったりではないぞ」


「へいへい、黙って従うさ。それじゃあな」


 そう言って女はヴィクトリアの髪の毛をひっつかみ、ずるずると引きずり始めた。


「いた……痛い、離せ! 離して!」


「ほれ、騒ぎなさンな。お喋りするにゃ、ここはちと具合が悪ぃンだ」


 ぐいっとより強く引っ張られて、何本かの髪が抜ける感覚にヴィクトリアは呻いた。どうにか逃れようと身をよじるが、余計に痛みと屈辱を増幅させただけだ。


 ――呆けてる場合か! なんとかしなくちゃ。なりふり構ってなんていられない!


 必死に頭を回し、視界の端に映ったケットシィに、ヴィクトリアはあらん限りの声で叫ぶ。


「お願い、助けて! 死にたくない!」


 自分でも情けなくなるような命乞いにまた涙が零れた。

 構うものか。どうやらケットシィとオークは亜人同士ながらもめている。それを利用するのだ。

 再び繋ぎとめた生きる気力が、恐怖と恥じらいを打ち払う。


「私は三日前に川向うの人間の国からここに来たの! 本当にそれだけで、あなたたちに害為そうなんて思ってない! お願い、助け――」


 その先を続けようとした瞬間、ケットシィの右手がすっと上がったのが見えた。それに伴って、葉擦れの音がより大きくなる。


 女の足がぴたりと止まり、髪を引っ張る力がふっと消えた。


「! 痛ったぁ……」


 突然に解放され、目から火花が散った。鈍い音共に後頭部を強かに打ち付け、ヴィクトリアはぐらぐらと揺れる視界を押さえるように頭を抱える。

 悶えつつ身体を起こすと、女はそのまま直立して両手を上げていた。


 ――いったい、なにが……?


 ヴィクトリアが身体を起こすと、木々の間のそこかしこから、細い筒のようになっている先端が覗いているのが見えた。持っているのは皆、ケットシィだ。彼らはまるで景色に同化するように服やマスクに葉を張り付け、虫が擬態するかのように潜んでいたのだ。


――二十……ううん、三十はいる……いつの間に……?


 ヴィクトリアはごくりとつばを飲み込む。あれがすべて、さっき男の耳を吹き飛ばした武器なのだとしたら――間違いない。オークたちだけではなく自分もひとたまりもないだろう。


「ちと手荒い見送りだなぁ、穴蔵の。領域を犯した以外になンか気に障ったかい?」


 女が肩をすくめると、ケットシィは右手を上げたまま、ゆっくりと首を横に振る。


「別になにもない。だが、そいつはそこに置いていけ」


 はっと女は乾いた笑い声をあげた。


「いやいや、そいつぁちとおかしな話じゃねえか。元々はあたしらの領域にいたンだぜ? あたしらの客だ。こンなとこまで逃げられちまったあたしらにも落ち度はあるけどな」


「ここはすでに俺たちの領域だ。つまりそいつは今、俺たちの客。だから何事においても俺たちが始末をつける」


「おいおい、そりゃ屁理屈ってもンだぜ?」


「納得できんというなら、今すぐこの手を下ろしてお前たちもろともに始末をつけても俺は一向に構わんが?」


 ケットシィが僅かに首を傾けると、女は呆れたように肩をすくめた。


「おい、穴蔵の……そンなことすりゃどうなるか分かってンだろ。戦争だぜ?」


 ケットシィは無言のまま、微動だにしない。風もやみ、気詰まりな沈黙が辺りを支配する。

それを破ったのは女の盛大なため息だった。


「……水場の件は片がついた。あたしらの関係もこれから少しずーつよくしていこうって矢先だ。これ以上のもめ事はお互いに望むところじゃない。だよな?」


「無論だ」


「ったく、仕方ねえな……おい」


 女が目配せをすると、男は無言でヴィクトリアを担ぎ上げた。


「……え? え、わ――」


 嫌な浮遊感に一瞬全身が総毛立つ。すぐに放り投げられたのだと自覚し、ヴィクトリアは空中で手足をばたつかせる。


 ――このっ、なんてことするのよ! pV=nRT……


 幸い、さっきの魔法からそれなりに時間が経った。とっさに一拍の呼吸――


ヴェントゥス!」


 ヴィクトリアは空中で身体を捻り、迫りくる地面に向けて、思い切り息を吐き出した。

 放たれた魔力が突風となってヴィクトリアの身体を一瞬持ち上げる。しかし、


「……あ……うわっ――」


 勢い余って平衡を失い、ヴィクトリアは仰向けの形で再び手足をばたつかせた。

 落ちる、と反射的にぎゅっと目を瞑った瞬間。その衝撃は想像していたよりもずっと柔らかく、恐る恐る目を開けると、目の前にケットシィのマスクがあった。


「あ、あの……?」


 両膝の裏と上体を支えられている。どうやら抱き留めてもらったらしい。微かな火薬の匂いが鼻先をくすぐり、ヴィクトリアは呆然とケットシィのマスクを見つめる。

 一方、ケットシィはこちらには一瞥もくれず、真っすぐにオークたちの方に顔を向けていた。


「話は終わりだ。去るがいい、森の民の長イダ」


「ちぇ、相変わらず愛想がないねぇ、穴蔵の」


 イダと呼ばれた女はそう吐き捨てて、手をひらひらと振りながら、大股でその場を去っていった。少し間を置いて、その後にもう一人の男も続く。

 オークたちの姿が森の奥に消えていくのを見送り、ヴィクトリアはほうっと息を吐いた。

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