一章 穴蔵の民ケットシィ
① 逃亡
鬱蒼とした森の中、葉の揺れる音と自分の荒い息だけがヴィクトリアの耳に響いている。このところずっと続いている霧がより濃くなってきていて、視界はかなり悪い。
「……っわ!」
地面を這う太い木の根につまずいて、ヴィクトリアは正面から倒れ込んだ。両掌と擦りむいた膝が熱を帯び、その痛みに思わず顔をしかめる。しかし、傷や骨はどうかと頭で考えるよりも先に身体はすぐに立ち上がって、また足を動かす。
着ているドレスは道を遮る枝葉によってほつれはじめている。鼠色の布地のそこかしこに空いた穴からは白い肌が覗き、その際にこさえた傷が次々と赤く線を引く。
――ああ、くそっ……邪魔ね、この髪……!
汗で張り付く額の髪を払い、息も絶え絶えにヴィクトリアは足場の悪い道ともいえぬ道を走る。長い髪がぱたぱたと風でなびいて顔に当たるのが鬱陶しい。こんなことなら、こちら側にたどり着いた時点で肩くらいに切っておくべきだった。
――うぅ、それに、寒い……お腹空いた……
この森に入る前はまだ夜明け前だったか。空腹と疲労ですぐにでも倒れ込んで眠ってしまいたい衝動は、先ほどから抗い難くヴィクトリアの心を蝕む。
――でも、駄目。足が動く限りは止まるわけにはいかない。
というのも、である。
亜人たちの土地に放り出されて三日が経った。最初は魚でも取れればと川辺に居続けたものの、釣りの道具もない十七の少女に捕まる間抜けな魚などかの川にはなく、ともかく寒さと飢えをしのごうと森に入るも、食べられそうな木の実もなければ、きのこも生えていない。持ち物は温情で与えられた一本のナイフのみ。狩りをしようにも経験がなく獲物を追えない。
そんな折、森の中で人影を見つけ、ヴィクトリアはつい声をかけてしまったのだ。
――せめて少しだけでも様子を見るべきだった……ああ、本当に馬鹿、不用心!
過去を鑑みれば、突然の人間の来訪に亜人たちが必ずしも好意的な反応をするわけがない。それくらい予測できたはずなのに――はたと気づくも後の祭り。そうして、謎の追跡者に追われる羽目になり、今に至るのである。
かさりと風で葉の擦れる音と共に、隠そうともしない足音がだんだんと近づいてくる。疲労は確実に蓄積していて、両足は明らかに重さを増していた。気づけば、履いている革の靴はいつの間にやら左側が行方不明だ。足の裏がずきずきと痛む。
やがて、頭上で大きく枝が揺れた。そして眼前に大きな影が立ち塞がる。
――追いつかれた……!
二メートルを超える巨体だ。胸を覆うのは藍色に染まった布。幅は狭く、両端をブローチで肩に留めている。腰には深緑色の短いスカートが巻かれた同じ色のパンツを履いていて、脇腹の部分で交差させた革紐が上下を繋いでいる。
隙間から覗く暗褐色の肌に、きらりと汗が光っている。長い銀色の髪を頭の後ろで一つに結び、尖った長い耳が横に伸びたその顔は若く、美しく、それでいてどこか妖艶な雰囲気を漂わせていた。
――この人……森の民……オーク?
本の世界に迷い込んだような錯覚を覚え、ヴィクトリアはその場に立ち尽くす。
「ったく、こンなとこまで逃げやがって……手間取らせンな」
どこか鼻にかかったような声でそう言うと、オークの女は酷薄な笑みを浮かべ、両拳の骨を鳴らしながらゆっくりと近づいてくる。
ヴィクトリアは我に返り、腰のベルトから下げていたナイフを取り出し右手に構えた。
「近づかないで。それ以上近づいたら、あなたを攻撃します」
ヴィクトリアの言葉に、女は赤い瞳の目を丸くして立ち止まった。
「こいつぁ驚いた。あンた、あたしらの言葉が分かンのか?」
「ええ。なぜ追ってくるの?」
「そりゃ逃げるからさ。なにしに来たンだ、人間。五百年ぶりくらいか」
ヴィクトリアはその問いを無視した。女から距離を取りつつ、ゆっくりと深呼吸をする。
呼吸と共に頭に思い描くのは、眼前の女の瞳のように赤く燃える炎。
ひとつ――ふたつ――あと三泊は欲しいところか。
女は肩をすくめ、再び歩き出す。その目にはどこか嗜虐的な色がちらついている。
「まあ、いいさ。とっ捕まえてから、じっくりお喋りといこうぜ?」
やはりというべきか、家に招待してお茶でも飲みながら、という様子ではない。
みっつ――よっつ――
「……あンた一体、どうして――」
――いつつ!
女が肩をすくめた瞬間、ヴィクトリアは口元に左手の人差し指と中指を立てる。
――CH4+2O2→CO2+2H2O+△E……警告はしたわよ。喰らいなさい!
「
ヴィクトリアは鋭く息を吐く。すると、その息はそのまま燃え盛る炎へと変わり、女の身体を直撃した。炎に身を焼かれながら、女は苦しげに呻いて後ずさる。
よし、とヴィクトリアは内心で喝采を叫んだ。
大気に漂う魔力を呼吸によって取り込み、それを吐き出すことで思いの形を具現化する、あるいはものの形を意のままに作り替える、古の時代に人間が編み出した技術。
それは『魔法』と呼ばれている。
――五拍分よ。軽いやけど程度では済まないはず! もしかしたら死んでしまったかも……
だが、それは無用の心配だった。
「熱ぃなぁ、ったく……」
身体にまとわりつく炎の残り火を大儀そうに払いながら、女はそのまま近寄ってくる。
「嘘……そんな……」
ヴィクトリアは息を呑む。女の全身は皮膚がただれ、ところどころから肉の焦げる嫌な臭いを発している。しかしそれはすぐに風に消えた。女が一歩足を踏み出すたび、見る間に元の通りに戻っているのだ。
服が焦げて豊かな胸が露わになっていることなどお構いなしに、女は少しずつ距離を詰めてくる。一足飛びに届く距離になる頃には、何事もなかったかのように彼女はそこにいた。
「残念だったな。威力は大したもンだったが、あれじゃあたしらは殺せねえよ」
「……くそっ!」
オークの持つ再生能力。実際に目の当たりにすると、これほどとは思いもよらなかった。
ぐらりと眩暈がして膝がかくんと落ちる。視界が狭まり、両手足に疲労感がへばりつく。
――もう一発? 駄目よ……今の私じゃ体力が……せめて少し時間をおかないと……
そこまで思考して、ぞくりとした悪寒が背筋を走った。反射的に振り返った瞬間、ヴィクトリアの首元に鋭い衝撃が走って呼吸が止まる。
「――かはっ……げほっ……」
振り向きざまに食らったそれが手刀であったと気づき、ヴィクトリアは蹲って喉元を抑えた。
持っていたナイフが落ちる。すぐにそれは乱暴に蹴り飛ばされて遠ざかっていった。
――追手は、一人じゃなかった……!?
むせつつ、地面に垂れる自分の涎の筋を見て、惨めな気持ちがより強くなった。顔を上げると、涙で滲む視界の中に長い耳の大柄な影が肩を揺すっているのが見えた。
「お前らの使う魔法というものは強力だが、呼吸ができなければ使えない。そしてその威力に伴って体力を消耗し、連続では使えない。弱点は昔から変わらんな」
低くよく通る声で犬歯を剥きだしにして、笑う。こちらは男だ。同じく軽装の革鎧に身を包み、伸ばしっ放した長い黒髪が風でそよぐ。
口許を拭いながら顔を上げると、隣に女が並び、自分の銀髪を名残惜しそうに指でつまむ。
「あーあー、髪の毛が焼けちまったよ。大事に伸ばしてたのにどうしてくれンだ? こりゃ落とし前はつけてもらわねえと……な!」
女の大きな右手がヴィクトリアの首元を掴んだ。そのまま軽々と持ち上げられ、ヴィクトリアは足をばたつかせる。
「……は、な……せ……」
こつこつと効果のない蹴りを女にぶつけながら、ヴィクトリアは必死に声を絞り出す。ぐいっと力が込められると、言葉の代わりに「ぐえ」という情けない声が漏れた。
徐々に首を掴む右手に力が込められていき、ヴィクトリアは口をだらしなく開けた。
「心配すンな。言ったろ? お喋りしたいだけさ。聞きたいことに答えてもらえりゃ、ちゃあンと解放してやる」
すっと力が緩む。喋れる程度の絶妙な手加減だ。
「……お喋、り? いきなり、襲ってきて、一体……なにを聞きたいと、いうの……ぐっ」
再び力が籠められ、ヴィクトリアは呻いた。女の目がすっと冷たさを帯びる。
「問うのはあたし。答えるのはあンた。そこンとこをよーく弁えな。さて……」
女はヴィクトリアの眼前に三本の指を立てる。
「まず聞きたいのは三つだ。慎重に答えろ。あンたはいつ、どうやって、なンのために、ここに来た?」
息苦しさに喘ぎながら、ヴィクトリアは鈍くなった頭を必死に働かせる。少し迷いはしたものの、一縷の望みをかけてヴィクトリアは正直に答えた。
「……三日前……渡し、舟で……置き去りに、されたの……追放、されて……」
女は考え込むように眉を寄せ、首を傾げる。
「……追放? なンだってわざわざ壁を越えてここに。それも今になって。なにが狙いだ?」
「知らない……わよ……そんなの」
仮にも王族であるヴィクトリアを謀反の罪で極刑に処するのは外聞が悪い(しかもそれはでっち上げなのだ)。秘密裏に追放刑がせいぜいだが、エマとしてはヴィクトリアに生きていてもらっては困る。それなら、何百年も隔絶された亜人たちの地にでも放り込んでおけば勝手に野垂れ死ぬに違いない――と、大体そんなところだと思ってはいる。
とはいえ、そんなこちらの事情を明かしたところで、彼女には関係のない話だろう。
「狙い、なんて……ないわ……ただ……ここに、置き去りに、されたの……本当に……それだけ……信じ、て……」
ふうむ、と女は考え込むように天を仰ぎ、再びその手に力を込めた。締め付けられる強さが強くなり、その先は言葉にならない。痛みと、恐怖と、なによりも悔しさに、両目から自然と涙が零れる。
やがて、力が弱められた。呼吸を求めて喘ぐと、女が犬歯をむき出して笑う。
「悪いが、あたしはまだまだあンたとお喋りしたいねぇ。だってそうだろ? 五百年も壁の中に引っ込ンだままだった人間様が突然やってきた。なンか裏があると考えるのが自然だ」
「そん……な……なにも、ないわ、本当に……」
「まあ、それでなくともね。あたしにとっちゃ五百年前の戦いには思うところがあるのさ。思い出話に花を咲かせるのも悪かない。ふふ、そうだろ?」
女の目の奥に得体の知れない昏い光が宿る。明らかに花を咲かせるという感じではない。
「い……や……知らない……私は……誰、か……」
恐怖と無力感がヴィクトリアの全身を襲う。必死に繋ぎとめていた緊張の糸が切れそうだ。
――こんなところで、死にたくない……お願い、誰でもいい……誰か、助け……
その瞬間、どこかで遠雷が聞こえた気がした。
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