僕らの〆切
@tentakihara
第1話 キャッチャーインザライ編
この春、高校三年生になった一条さんはとろけるチーズのようになって、三連結した椅子でぐーぐー寝ていた。文芸部の部長である。
部室は旧校舎の二階で、なぜか男子便所と女子便所が両端に分かれている。かつて便所同士で奇々怪々な事件があって、そのために両端に隔離されたのだと七不思議に数えられる。
しかしそんなことがあるだろうか? 僕としては、建築家が図面を引くとき、ベロンベロンに酔っぱらっていたのだと思う。
「一条さん」
僕、島田守は呼びかける。
彼は棒のような口調で、「うあー、ゼットンが来るゼットンが夕暮れに、手をつなぐ」どんな夢を見ているのやら。
僕は仕方なく、自分のノートPCを立ち上げる。
自作を読み返しながら、四十字×三十行で百三十枚に及ぶ作品を推敲していく。
しかし僕はすぐに頭が重たくなって、別のファイルを開いた。
ハイドンの『驚愕』を流す。
サビで爆弾のような音が鳴り、一条さんは飛び起きた。
「島くん」
一条さんは端正な顔をしかめ、「相変わらず俗だな。君のことだからYouTubeのおすすめにでも出てきたか」
僕はニヤリと笑い、
「それ以外にクラシックを聞く機会がありますか」
「もちろんだ。たとえば四万十ぴあでキュッヒルさんのコンサートがあった」
「誰ですキュッヒルとは」
「世界的に有名なヴァイオリニストだよ。君もそういう催しを探して、金を払って飛び込んでみるべきだ」
やれやれ結局、一条さんだってそれまではキュッヒル氏なんて知っていたはずがないのだ。葉加瀬太郎は知っていても。
一条さんは椅子と椅子の上で仁王立ちした。椅子にはころころがついており、かなり危ないのだ。
「よし、島衛門、フィールドワークに行くぞ!」
「島田ですが。何に行くって?」
「しまぁんと川」
「四万十川? 赤鉄橋の下で釣りですか。まだ春ですよ」
「沈下橋に行こう」
沈下橋は増水の際、流れを受け流す構造になっており、破壊されるということがまずない。
まずない、というのは、破壊された事例をテレビで見て、あまりに意外だったのだ。
「行くぞ!」
一条さんは旋回しながら飛び上がり、頭からテーブルにぶちこんだ。
それでも何事もないように起き上がって見せる。石頭である。
僕も推敲が詰まっていたため、「行きますか」と席を立つ。「で、どこの沈下橋?」
「高瀬、しか知らん」
「今から自転車で? クソバカですよ」
「六時までには帰ってこられるさ」
僕は遅く帰宅することがないものだから、母に少し遅くなる旨を伝えておいた。
「あ、そうだ。僕は免許を持ってるぞ」
「僕も持ってますよ」
すると彼は激昂した。
「じゃあなんでバイクで来ないんだよ!」
「どうでもいいでしょうが!」
僕がバイクで来ないのは、はっきり言って学校が近いからだ。それだけでなく、体を動かしたい。おもに脚を。足が速いと便利だ。そう、便利なんだ、色々と。
そんなわけで、一旦帰宅して、バイクで合流し、目的地を目指す。
「着いた!」
と一条さんが言った。
まるでゲームで「すぐに向かいますか? はい」と問答したかのようだが。
空は曇っており、やや水かさが多いが、青かった。
この青色を出すために、僕は小学生のとき奮闘したものだ。
と思い込んでいたが、いざ川を見るとそうでもない。言うなれば銀色だ。空の色を映すのだろうか?
「いい旅路でした」
僕が言うと、一条さんはおもむろに財布を覗き込んだ。
「島くん、僕は最近、キャッチャーインザライを読んでね。村上春樹の」
「村上仕込みで何をするんで?」
一条さんは十円玉を取り出すと、鋭く川に投げた。
水切りだった。水面で五回ほど跳ねた。
川に銅をぶちこんでいいのか、浄水されて飲み水になるのに。銅は清められるのか?
真っ先にそう考えたのは、一条さんがよくこうした奇行をするからだ。
「ゲームセンターだと思え」
「五回プレイで五十円か」
僕の財布にはあいにく小銭が少ない。
「五円は行けますかね。穴が空いてる」
「知らん」
また投げた。半身を傾けて、掬い上げるように空気を裂くように、投げる。三回跳ねた。
僕は「小銭がありません」と言う。
「しけてるなあ、とぉっ」
「一条さんは買い物のとき小銭を出さないからですよ」
一条さんは親指でピン、と小銭を弾き、一枚くれた。
試しに投げてみたが、なんてこった、ひとつも跳ねない。
それでも僕は、一条さんから三十円はもらって投げた。深呼吸すると大きな山から吹く風が水流をわたり、なんともいい匂いがした。
「よし帰るぞ!」
と言うのも唐突だ。
「これの何がフィールドワークですか」
「ロケハンとも言うな。まあじきにわかる」
来るときよりも帰るとき、僕の心は高鳴っていた。
全くそれは一条さんの言うとおり、ここに書き記している。
最後の一投、一条さんは高らかに言った。
「子供は、まね、するなよっ!」
僕らは立派な子供ですよ、一条さん。
ショートショート・ザ・ライ麦
一年の海老沢瑠奈が部活に顔を出した。ほっそりして背は低く、顔はハムスターを思わせる。
僕は「海老さわるな」と誤変換して一人で笑いをこらえたことがある。なぜって僕は海老をさわると痒くなるのだ。
「そもそもキャッチャーインザライてどういう話なんですか」
海老沢が一条に尋ねた。
「自分で調べたのか」
と一条はアイマスクをあげる。それにはゴルゴ13のような目が描かれている。
「調べたけど。木戸くんに、『主人公が死んじゃうんだよね』て言ったら、すごく笑われたんだもん」
「だもん、といわれてもな。木戸は元気か」
幽霊部員の木戸なのであった。そして彼女と付き合っている。
「いえ、まあ、結局、調べたのに、嘘が書いてあるの」
一条は素早く『キャッチャーインザライ あらすじ』と打ち込む。やがて言った。
「この知恵袋を読んだのか。こいつはジョークだよ」
「で、結局」
「スライドするんだ。質問者は自分で調べて、一杯食わされたことに気付いている」
「あ、ほんとだ」
海老沢はスマホをぷにとした手で撫でる。手と頬はふっくらしている。
「読んでみるといい。回転木馬に僕と猫だ」
一条さんはむっつりした顔でスライドを続け、言った。
「寅さんと同じようなもの? サクラが理想だからうまくいかない? そういう話じゃないだろう」
「わかります!」と海老沢。「寅さんは年相応な付き合いをします!」
「ああ、全くだ。キャッチャーインザライの本質も突いてない」
「どういうこと?」
「主人公は妹に限らず、子供が好きなんだよ。大人の毒に当てられてない子供がね。自分の歳かそれを越える大人が、みんなバカみたいだ、て茶化してるんだ。それがまた皮肉やユーモアが効いてて笑ってしまう」
「笑えるんですか?」
海老沢は意外そうだった。
「そうだよ。なあ、島くん」
「あー、はいはい」
と僕は答えた。
執筆中で面倒くさかった。
「じゃあ、今から図書室で借りてきます」
海老沢はトテトテといなくなった。
僕は苦笑を漏らし言う。
「カップ麺の重石にされてますからねえ」
「本が大事なのか否か」
結局その知恵袋は、キャッチャーインザライを知らない質問者を茶化し、質問者は自分で調べたら違ったと言い、文学に不案内な数人がどこかピントのずれた答えをしている、というものだった。
僕は思いあぐねる。
「ネットは迷路ですね。検索した瞬間にゴール、でもそこにはミノタウロスがいるって訳だ。そうだな。僕はニーチェの思想も影響していると思いますね。新たな価値創造ができないと、凡愚な書評にとどまる。まあこれは僕自身も気を付けています」
「さてね。僕は二度とみたくないね、こんな知恵袋。君もちょいといい気になってやしないかい」
「ユーモアが足りませんよ一条さん」
「だって嫌なんだもん」
一条は海老沢の口調をまねた。そしてゴルゴ13になった。
起きているぞ!
僕は口笛を吹く。
「いつかおまえの喜ぶような、偉い兄貴になりたくて」
と。
本が読めたって
久しぶりに木戸が部室に現れた。海老沢を伴って。
木戸が椅子を引いてあげ、そこに海老沢が座る。
隣に木戸が座り、やや体を斜にして、海老沢との会話に花を咲かせ始める。
一条さんを横目で見ると、ノートPCに『リア充しねリア充しねしねしねっしー』などと打ち込み続けている。
僕はというと、『彼には恋人がいるんだでもそれって幸せなことかなだって自分の時間をちぎって相手に食べさせるんだよ彼女にとって他人の時間なんて腐るほどあるのに』などと打ち込んで、一気に消した。
海老沢は木戸を先輩と呼び、二年の木戸は瑠奈と呼ぶ。
僕はもう空気を吐き出す風船のように、飛んで行きたい気分だった。
そんな彼らの会話が、案の定、キャッチャーインザライに踏み込む。
木戸に「どこまで読んだ?」と優しげに問われ(ほんと、初登場時の洒落たハウルみたいにだよ?)、ソフィーてわけでもないが海老沢が答えるんだ。
「それが、その、だんだんと、自分を棚にあげて人をけなして、自分かっこいい。みたいな話が続くから、訳がわからなくなって」
すると木戸は「ふふ」なんて笑うんだ。
「そういう感想も一理あるな。いつか読めるときが来るよ。僕だってそういうことはたくさんあったんだから」
一条さんのノートPCを覗くと、キャッチャーインザライの感想文ができあがっていた。もちろん一条さんのことだからよく読み込んでいるんだ。そう、木戸よりずっとね。こんな言い方をするとひんしゅくを買うか? だって実際、いちゃつくなら喫茶店に行けよと思うじゃない。
二人はいちゃこらとキャッチャーインザライを両側から読み、木戸が助言を加える。
「わかりました、読めそうになりました」
と海老沢。
二人は話しながら立ち上がり、(まったく会話が途切れないんだよ、まったく)そのまま手と手を絡ませて帰っていった。
一条さんが言う。
「できたぞ、夏休みの宿題が」
「気が早いですね」
実際、プールに水が入っていない。
彼女か。実は部員にはもう一人、坂森紅子という女子がいる。良い仲になったのだが、彼女としては、今しがたの二人のように振る舞うのが損だから、損というか、気恥ずかしいのかな? いや、僕は決して、いや、やめよう。
少し空しくなって、紅子さんのことを宙に考える。
「僕はね一条さん、二人きりがいいと思うんだ」
「それは僕のことだ」
「おえ」
さっきまで響いていた、海老沢のキャピキャピ声が、次第に遠ざかり、空気に紛れる。
僕は思わず立ち上がる。
「部屋、か。部屋行くのか!?」
「声が大きいぞ島くん!」
どこかで木材の軋む音がした。
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